中野純子『ちさ×ポン』


ネタバレがありますので、ご了承の上お読み下さい)


 中野純子は、女性漫画誌「ヤングユー」で最初に短編を読んだとき、強く印象に残った作家の一人である。

 その短編の載った雑誌をずいぶん長いこと実家に持っていたのだが、なにかの拍子でなくしてしまい、今は確認するすべはない(ゆえに、以下、間違いがあれば指摘してほしい)。
 たしか中野の代表作、高校生なのに夫婦だという『IMOSEな関係』シリーズの前ふりにあたる短編で、高校生で夫婦になるというのに男はぶっきらぼうな顔をし、女はやたらに不安気な顔をしているという高校時代のクラス集合写真が出てくる。
 男と女がおたがいにセックスをして結婚生活をはじめるというのに、ひどく子どもっぽい距離をとりつづけるのだ。

 高校時代の恋愛というのは、一般にどこまでも「甘い」。夢のような空気をただよわせている。また、それは「思い出」になることによって、いっそうその幻想性や浮き世離れ感を際立たせるものである。
 しかし、それが結婚に直結してしまうことによって、夢が破られたように、突如「現実」がそのなかにたちあらわれるのだ。ふたりのよそよそしさも、妙に現実的な感触があった。

 だから、中野のその短編を読んだとき、感傷とか、甘い思い出ではなくて、高校生のリアルが蘇ってくるような気がしたのだと思う(あれほど現実ばなれした設定にもかかわらず)。

 こんな面白い作品を他にも書いていないだろうかと、ぼくは以後、中野の作品を何作か読んだのだが、ついにこの短編をこえる強烈な印象をもつ作品には出あわなかった(そこそこに面白かったのだが)。



 中野はその後、舞台を青年漫画誌にうつした。

 中野の『ちさ×ポン』は「ヤングジャンプ」誌に掲載されたもので、中野の画風も展開もすっかり「男性青年」ごのみ(つうか、いかにも「ヤングジャンプ」風)のものに変化していた。
 『ちさ×ポン』は、高校生の千砂(ちさ)と本田(ポンタ)が恋人になってセックスを初体験するまでをエロ満載でつづるという、あらすじにすると身もフタもない話である。

 1巻は、海に男女3対3で出かけた千砂とポンタが、その旅行を「セックス旅行」とはせずに、つきあいをはじめ、キスをしたり、つぎには胸をさわったり、そしてペッティングにすすんでいく(書いていてなんだか)という展開で、けっきょくセックスにはいたらない。
 いよいよ「初体験のその日」となるが、うまくいかずに二人は気まずい雰囲気になって1巻は終わる。

 このスジをきいて、ため息をつきたくなる人もいるだろうが、高校生(あるいは学生)カップルにとって、性的な衝動や欲望を統御しながら恋愛を操縦していくということは、ぬきさしならぬテーマのはずである。じっさい、千砂が望まないことへとふみこまないポンタの有り様は、ある種のタイプの男性からすればまさに超人というか聖人君主というか、そんなふうにも映るにちがいない。胸や体をおたがいに愛撫するだけ愛撫しておいて千砂が「ストップ!」といえば、ポンタはストップするのだ。(ワギナ性交=挿入しなきゃなんでもいいのか、という批判はあるだろうが)

 それだけではなく、おたがいに気持ちをオープンにしないことによって、そして性的な快感の交流によってそれを隠蔽してしまうことによって、ふたりの関係に何度も危機がおとずれる。
 あるいは「天使のようにやさしい」とか「貞潔」というイメージを男性側が女性に勝手にかぶせることによって、ふたりの関係がこれまた危機におちいったりもする。

 中野は漫画でこうした恋愛観に警告を鳴らす。

 「ヤンジャン」を読んでいる青年層の中心は非ヲタク層(一部ヲタのとりこみがはじまってはいるが)と思うのだが、このような層にたいして、確実にセックスにかんする啓蒙的な役割を果たしている。
 女性誌出身の中野が起用されている理由もそこにあるのではないだろうか。
 『ふたりエッチ』(当初の)の高校生バージョンであろう。

 他方で、いかにも進歩のない「ヤンジャン」商法らしく、千砂の裸や性的恍惚を詳細に描出することは絶対に忘れない。千砂の人物設定は「かわいらしい顔なのに豊満な肉体」「彼氏に開発されて、処女で清純なのに性的に敏感」ということになっている。ああ、言葉にすると本当にどうしようもない馬鹿漫画のような気がしてくる。

 この漫画はことほどさように、女性側からの啓蒙や注文(リアル)と、男性側の欲望(性的ファンタジー)という、いわばまったく異質の要素の奇妙な同盟によって船出しているのである。

 
 だが、やはり、この漫画の基調は青年男性誌の論理であり、それを商業ベースにのせるという資本の論理が非情にも貫徹されており、しばしば女性側の啓蒙の論理を徹底的にふみにじる。「(ヤンジャン読者的)オトコが読みたいもの」「オトコが興奮するもの」をねじこむことによって、この漫画はときおり「台なし」といってもいいほどの展開へと流されていくのだ。

 たとえば、2巻に出てくる、千砂が強姦されるというエピソードである。この問題をポンタと千砂がどう受けとめ、関係を回復していくかというスジ(危機と克服)をもちこむためにとりいれたのであろうが、そのあつかいが、いかにも軽い。これは2chの同作品のスレッドでも非難轟々となった。
 千砂は、心では拒んでいるのに、体は「濡れて」(バルトリン腺液が多量に分泌されるという意味)、性的恍惚を感じてしまう。千砂は、「強姦されているのに感じてしまった自分」「ポンタを裏切った淫乱女としての自分」を責め、傷つくのだ。

 ポンタの家庭教師の女性はポンタに次のようにアドバイスする。

「あんたサ 是が非でも千砂ちゃんは感じなかったコトにしたいの?」
「女なら誰だって自分は清純だと思っていたいよ それが美徳だと刷り込まれて育つんだから! なのに現実はレイプされて感じる女だった 千砂ちゃんの受けたショックがどれ程のものか 男のアンタに想像しろっても無理だろうけど 私は……自他共に認めるインランだけど そう割り切るまですごく苦しかった」

 性的被害にあいながら「悦び」を感じてしまった自分、という話は、たとえば清原なつのの短編にも登場する。清原の作品では主人公は、以後、自分は汚らわしい存在だとして、性的存在としての自分を受容できず、極度の男性不信になっていく。

 こうした要素を分解して一つ一つをとりだしてみれば、中野が展開したこのレイプとそこからの回復のストーリーには、それなりに啓蒙の側面があるといえなくもない。
 だが。
 やはりここでも、「奇妙な同盟」が問題となる。
 どうしてもこの中野の武装は、後付けだという印象が否めないのだ。仮に中野がそのような意味をこめようとも、「ヤンジャン」的オトコ読者が受け取るメッセージは別だろう

「へー、女って、レイプされてもヌレることがあるんだ。やっぱり」

 (この“知識”が他人に話されるころには、上記の「ことがある」あたりが欠落していることだろう。)いかに中野が理論武装をしたつもりでも、受け取る側はこんな勝手な解釈をするにちがいない。まったく逆の、男性青年誌にとってまことに親和的な、男権主義的メッセージに変換されてしまうのである。

 商業主義ベースのうえに「啓蒙」と「欲望」が「同盟」を組んでいることの限界である。

 ちなみに、2chのスレでも「奇妙な同盟」は再現されていた。
 女性の一部がこのレイプの扱いの軽さに怒っていたのにたいし、男性陣は、展開が「鬱」になっていったこと――すなわちほんわかエッチものをのぞんでいたのが裏切られたこと――への怒りをぶつけ、両者が「奇妙な同盟」をくんで中野を糾弾するという光景が見られたのである。

 レイプのときに、強姦する側が千砂に失禁を強要し、千砂は身体の自由を得るためにそれに応じてしまい、それを契機に、逆に千砂は尊厳の自己崩壊をおこし無抵抗・無気力になってしまうのだが、だいたいこういう小道具が実にあざとい。「ポンタとでさえ体を硬直させてセックスできなかった千砂が、なぜ硬直を解いて性交できたかというスジへと運ぶ上では仕方ないのだ」とでもいいたげであるが、そこに「放尿」という、フェティッシュな欲望価値を最大限に利用してやろうという中野あるいは編集のどす黒い性根をみないわけにはいかない。


 ほかにも、強姦した者への懲罰を終え、二人が「仲直り」へとすすむペッティングでは、フェラチオをさせてその精液を千砂に飲ませるというシーンが登場する(もう書いていてイヤになる……)。
 これは「愛情を表現するために、これまで嫌がっていたことをやってのける」という、完全にまちがったメッセージを発信することになるだろう。


 「ヤンジャン」的オトコ読者との奇妙な同盟――その本質は、男権的な欲望へ奉仕する商品を生産するという「資本の論理」であり、中野はその枠を「利用」しているつもりかもしれないが、決定的な場面でその論理にからめとられ、失敗している。
 「おれは政権の中から政治を変えるんだ!」といって自民党議員になり、からめとられていくようなものだ。

 『ちさ×ポン』は、5巻まできているが少なくともそこを読む限りでは、最初の問題設定――千砂とポンタの幸福なセクシュアリティの構築――は、どうもぼやけてきてしまっているように見える。
 『ちさ×ポン』を再建したいのであれば、ぼくは、教科書をめざすべきだと思う。すなわち啓蒙の論理の側を強化すべきなのだ。欲望的(すなわちエッチ)であってもいいが、それはあくまで従属的なものでなくてはならない。「教科書のような作品はつまらない」という、それこそつまらぬステロタイプの非難にとらわれては飛躍はできぬ。いま長い目でみて読者から求められているのは「啓蒙」であり、「教科書」であり、男権主義的な思い込みや偏見を、教科書や理論書のように斬っていくことである。
 かつてこの課題を、すぐれた短編として「ヤンジャン」誌上でやってのけたのが、石坂啓『安穏族』である。出でよ、現代の『安穏族』。


 しかし……。

 正直にいえば、こうした随所にみせる決定的な破綻を目の当たりにしながら、ぼくはこの作品を少なくとも5巻までそれなりに面白く読んでしまった。
 二人が危機をのりきるために、旅行にでかけるくだり――ポンタは忍者のように「いない」前提でついて歩き、ケータイで連絡をとりあい、次第に距離を縮めていく――などは、少年誌読者さながら「次、どうなるんだろ」などとハラハラしながらページを繰ったものだ。
 そんな興奮を感じながら、本を閉じた後で、気まずそうにコホンと咳払いをして「あー、この作品はけしからんではないか」などというのは、フェアではないだろう。ソープでイッパツやった後に、オヤジがその女性に説教をたれる醜悪にも似ている。

 この作品が、「啓蒙的」なるものと「ヤンジャン読者的欲望」なるものとの奇妙な要素に分裂しているとすればとりもなおさず、ぼく自身がそのように分裂しているのであり、「ヤンジャン読者」的なるものとは、ほかでもない、自らのうちに巣食っているのである、という情けない自覚にいきつく。※



※6巻の短評はこちら

※なんだかしつこい誤解があるので一言いっておくが、『ちさ×ポン』の性的描写に萌えたことなど一度もない。劇画くずれの調子をのこすこの種の描写とそのあざとさそのものは何も心が動かない。ヤンジャン読者が勝手にやってろという感じである。

ちさ×ポン 1 (1)ヤングジャンプコミックス
集英社ヤンジャンコミックス
1〜5巻(以後続刊)
2004.7.17感想記
メニューへ