「セタップ! 仮面ライダーX」を国歌に〜ぼくの成人式代表事件にもふれて



成人式の代表をおろされた


 20才になったとき、地元の成人式の代表になったが、その代表をおろされたことがある。で、それは当時新聞沙汰になり、市議会でとりあげられるまでの問題になった。

 中学時代は地元で優等生、かつ中学までは「ヒトラーを尊敬する」などと公言していた右翼ファシストだったぼくに、ハタチになってから、「成人式で代表をやってくれ」と話があったのだ。他の市内の卒業生とともに市の施設に集められて、式次第や役割を説明された。
 ぼくには「交通安全宣言」がふりあてられた。
 そして、式次第には、日の丸の正面への掲揚、君が代の斉唱が入っていた。

 ぼくは、日の丸と君が代については軍国主義のシンボルとしていやな気持ちになる人がいるから、式典を中立的に営むためにそれらをやめてほしいと「申し入れ」をした。

 このことを手紙に書いて送った。

 市の教育委員会(市教委)がとった態度はひどいものだった。
 彼らはぼくに話を直接持ってきた中学時代の教師とともに、親の仕事場に複数で現れ、「成人式の代表を辞退していただきたい」と告げたのである。その話を親から告げられたぼくは、当時地元にいなかったが、電話でその教師のところになぜ自分がおろされたのかを問いただした。
 教師はあきらかに依頼をしてきたときの気さくさを失い、硬直した声で言った。

国旗や国歌を否定する人間は市の代表にふさわしくないからです

 なんとまああからさまな思想差別ではないか。市教委は後日、毎日新聞の問い合せにも「壇上で何か起こされても困る」と答えている。

 ぼくと市教委の見解が違うのではないか――というのは当たり前のことだが予想された。
 ところが市教委がとった態度というのは、異常だった。
 成人式はこれからは子どもではなく大人として社会が扱おうという式典である。しかし、市教委はぼくではなく、親に話をもっていき、それで話をつけた。ぼくの方から電話をしなければ、話さえも聞けなかったのである。
 また、ぼくは「最後通牒」をしたわけではない。それが拒否されれば日の丸を焼く、式典をボイコットする、といったわけでもないのだ。日の丸・君が代について、「し入れ」をしたのである。見解が異なるなら「教育」委員会たるもの、話し合ってみればいいではないか。
 しかし、市教委のとった態度は、まるで何かに憑かれたように硬直した一方的拒絶、代表おろしだった。

 ぼくは結局成人式の代表をおろされ、式には出なかった。



国家主義教育の反省としての教育委員会制度と教育基本法


 教育委員会制度は、戦前、教育が国策を遂行するための道具となり、学校はその下請機関となって戦争に役立つ人間へと改造する場になりはてた歴史を反省し、つくられた自治システムである。
 教育は国策の遂行ではなく、「人格の完成をめざ」(教育基本法)すものとなり、どんな教育をしていくかということは、国家ではなく、地方ごとの住民自治で決めるということになった。こうしたなかで教育基本法の第10条には「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」と定められたのである。

 ぼくが自分の成人式事件で感じたのは、日の丸・君が代を押しつけるための異様な執念だった。はじめは「なつかしいなあ」と言葉をぼくにかけ、人間として相対していた、かつての「恩師」は、この問題がカラんだとたんに、国家意思の硬直した末端となった。
 そして有無を言わさぬ市教委の態度。
 国民=青少年自身を「直接に責任を負」うのではなく、なんとしても国家主義を貫徹させようという「不当な支配」の道具となった。
 この市教委をつうじた国家意思の押しつけを、一市民であるぼくが跳ね返すことができる最後のよりどころは、思想・信条の自由を保障した現憲法であり、あるいは不当な支配に服することを禁じた現教育基本法である。



君が代・日の丸賛成派の立場としての地裁判決


国旗国歌法が施行されている現行法下において、生徒に日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、国旗・国歌に対する正しい認識を持たせ、それらを尊重する態度を育てるのは重要なことである。

学校における入学式、卒業式等の式典において、国旗を掲げ、国歌を斉唱することは有意義なものということができる。


 これは先日(06年9月21日)、石原都政下の学校で、日の丸、君が代を強制する通達を出したのは「憲法違反」だとした東京地裁の判決の「結論」の一部である。

 これみてもわかるように、この判決は、ある意味で日の丸・君が代「賛成派」ともいうべき立場から書かれている。

 その立場から見ても、都教委のようなやり方で強制するのはよくない、としたのである。判決文(要旨)を読んだが、鳥肌がたつくらい素晴らしいものだ。




いやがる人が一定数いる、という問題


 判決は、日の丸と君が代がいまの日本で占めている位置について、次のようにのべた。

日の丸、君が代は明治時代から第二次世界大戦終了まで、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられたことがあることは否定し難い歴史的事実である。国旗・国歌法が制定された現在も、宗教的、政治的に価値中立的なものと認められるには至っていない。このため、公立学校の入学式、卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱に反対する者も少なからずおり、こうした人の思想良心の自由も公共の福祉に反しない限り、憲法上保護に値する権利というべきだ。


 “「日の丸」をかかげ、「君が代」をうたうことは、まったく何の感情もひきおこさないニュートラルなものではない、そう感じる人が一定数いる”としたのである。これは、ぼくが市教委に申し入れたのとまったく同じ観点である。「自分がそう感じなくても、そういう人がいるのは理解できるでしょう?」。

 この種の議論で、「押しつけ派」(「賛成派」ではなく)ともいうべき無神経な人々が言い出すことの一つに、「そいつらはみんなサヨだ」という議論があるが、この混乱した論点に、判決はクリアな解答を与えている。
 もちろん、まったく事実認識として間違っていると思うが、仮にすべてサヨだとしても、「少なからずいる」というのが重要なのである。
 だから、同様に「旗や歌に罪はない」という議論も、このテーマの論点としては完全に意味がない、まったく的外れな意見だということになる。
 ここでは、「日の丸」「君が代」の価値の是非を論じているのではなく、「皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられた」ことによって、ある種の感情を引き起こす人々が一定数存在するようになった、その事実が問われているのである。
 「そのような人々はいない」ということはできない。いるんだから。
 「それはすべてサヨだ」ということも、ここでは意味を持たない。
 判決はここを明確にしている。




内心は態度に現れる


 そして、痛快なのは、以下の判決文が、都教委の言い分を一つひとつ、完全に粉砕するものになっていることである(まあ裁判の判決文というのは基本的にそれぞれの言い分を比較するものなわけだが)。

 まず、都教委の言い分である「私たちは思想・良心の自由は侵していません。なぜなら、内心ではどう思ってもらっていてもけっこうですが、ちゃんと直立不動で歌ってくれればいいだけです」ということについて、次のように判決文は批判した。

人の内心領域の精神的活動は外部的行為と密接な関係を有するものであり、これを切り離して考えることは困難かつ不自然であり、国旗に向かって起立したくない、国歌を斉唱したくない、或いは国歌を伴奏したくないという思想、良心を持つ教職員にこれらの行為を命じることは、これらの思想、良心を有する者の自由権を侵害している。


 キリシタンにたいする「踏み絵」は、まさに「内心領域の精神的活動は外部的行為と密接な関係を有する」ことに目をつけて行われた残虐な宗教弾圧システムだった。




指導要領も通達も大綱にすぎない


 都教委はまた「学習指導要領で国旗国歌を大事にしろと教えるように言ってんだから、教師がしたがうのは当たり前ダロ」「教育長が通達で指示したことは、どんな中身でもしたがうのが公務員たる教師の役目ダロ」というむねのことを言った。

 これにたいし、判決は、学習指導要領も通達も「大綱」的なもの、つまり大ざっぱにそういっただけで式典で具体的にどうしろとまでは定めていないぞ、と批判し、教育基本法10条を指してこうのべる。

学習指導要領の個別の条項が、大綱的基準を逸脱し、内容的にも教職員に対し一方的な一定の理論や観念を生徒に教え込むことを強制するようなものである場合には、教育基本法10条1項所定の不当な支配に該当するものとして、法規としての性質を否定するのが相当である。

これを学習指導要領の国旗・国歌条項についてみてみると、同条項は、「国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するもの」と規定するのみであって、どのような教育をするかまでは定めていない。


 都教委はなおもこう言う。「校長の職務命令を聞くのは教員のつとめだ!」。

 これにたいし、判決文は次のように反論する。


教職員は、国旗掲揚、国歌斉唱を積極的に妨害するような行為に及ぶこと、生徒らに向かって起立し、国歌を斉唱することの拒否を殊更に煽るような行為に及ぶことなどは、許されない。しかし、思想、良心の自由に基づき、これらの行為を拒否する自由を有している。

通達及びこれに関する被告都教委の一連の指導等は、教育基本法10条に反し、憲法19条の思想・良心の自由に対し、公共の福祉の観点から許容された制約の範囲を超えているというべきである。

都立学校の各校長が、本件通達に基づき、原告ら教職員に対し、入学式、卒業式等の式典において国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよとの職務命令を発することには、重大かつ明白な瑕疵があるというべきである。

 「式のときに騒いだり生徒を煽ったやつは処分されて当然だ!」という俗論へもきっちりとした反論になっていて小気味がいい。訴えた教職員たちは、「妨害」や「煽る」ことをしなかったのだと明快にしている。




緊張が走ってもがまんしろ


 ちなみに、式典のとき、一人だけ座っている、退場する、というのは勇気のいることである。「せっかくの卒業式に雰囲気をこわすものではないか」といういかにも日本的空気からの議論がある。そもそも異論のあるものを持ちこんで壊しているのはオマエらだろ、と言いたいが。
 ぼくも、高校時代、起立しなかったが、やはり周囲には緊張が走る。
 都教委もおそらくこの種の空気を使って「式のスムーズな進行をさまたげる」といったのであろう。
 ところが判決文はこれにも次のようにのべているのである。

教職員が拒否した場合に、これとは異なる世界観、主義、主張等を持つ者に対し、ある種の不快感を与えることがあるとしても、憲法は相反する世界観、主義、主張等を持つ者に対しても相互の理解を求めているのであって(憲法13条等参照)、このような不快感等により原告ら教職員の基本的人権を制約することは相当とは思われない。


 これくらいの不快感をがまんするのは、民主主義の精神的コストである、というわけだ。

 そして、判決は、国民の間にあるであろう、しごく自然な感覚を結論とする。


国旗国歌法が施行されている現行法下において、生徒に日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、国旗・国歌に対する正しい認識を持たせ、それらを尊重する態度を育てるのは重要なことだ。

しかし、国旗、国歌に対し、宗教上の信仰に準じた世界観や主義、主張から、国旗掲揚や国歌斉唱に反対する教職員、国歌のピアノ伴奏をしたくない教職員がいることもまた現実である。

このような場合に、懲戒処分をしてまで起立させ、斉唱させることは、いわば少数者の思想良心の自由を侵害し、行き過ぎた措置である。

国旗、国歌は、国民に強制するのではなく、自然のうちに定着させるというのが国旗国歌法の制度趣旨であり、学習指導要領の理念と考えられ、都教育長通達や各校長による職務命令は違法であると判断した。


 この判決は、現行法の枠組みと立場のなかにおいて、もっとも民主主義的な内容だといえる。名判決だ。
 そして、いま与党がねらっているように、教育基本法10条を改悪してしまうことが、いかに国家主義教育の貫徹にとって外せないものであることかがわかる。



複数の国歌を


 ちなみに、現行法の枠をこえて問題を考えるとき、国旗は別として、「国歌」君が代については、天皇崇拝を意味した歴史をもっており、ぼくとしては一日も早く変えたい。
 新しい国歌が合意にならないということもあろう。いっそ、「国宝」のように、複数の国歌をもったらどうだろうか。コミュニティごと、シチュエーションごとに好きなのを選んで唄うのである。(もちろん強制への保留は残して)
 「ふるさと」を唄うのでもよいし、「さくらさくら」を唄うのでもよい。
 「河の流れのように」でもいい。


 国歌ではないが、テネシー州の州歌はいくつもあることで知られている。有名な「テネシー・ワルツ」も、いくつもある州歌の一つである。「恋人とテネシー・ワルツを踊っていた。たまたま出会った旧友を恋人に紹介したら、恋人を盗られてしまった。私はあの夜とテネシー・ワルツを忘れることができない」(下記サイトより ※音楽が流れます)
http://www.duarbo.jp/versoj/v-popular/tennesseewaltz.htm

つう具合に、これが州の歌かいなと思えるほど、俗っぽい。が、それゆえにリアルだともいえる。

 ヲタクの国・日本国国歌として、個人的には、石ノ森章太郎作詞の「セタップ! 仮面ライダーX」をぜひ選んでほしい。

セタップ! セタップ! セタップ!
銀の仮面に黒マフラー 額に輝くVとV
ストップ ゴッドの悪だくみ
父の叫びは波の音 怒りのライドルひきぬいて
Xライダー今日もゆく 仮面ライダーX! X! X!

仮面ライダーX Vol.1 国家が国歌に要求する「荘重さ」など、みじんも感じさせない安い演出。特撮のオープニングとしてもなかなかの名曲である。絶対悪は虚構のなかにしかいない、という憲法的精神の具現としていかがであろうか。米軍の下僕として自衛隊が海外侵略に行かされるとき、イージス艦上でこの「国歌」をかけたら、心の根本が萎えると思う。ひじょうに平和主義的な歌である。自衛隊員が洋上で斉唱しているとこ、見てえー。
 「現実と虚構の区別がつかないヲタ」が自衛隊にいた場合は逆効果だが、まさかそんなヲタはおりませんものw


 分立していたエスニシティ、分裂していた階級を、ひとつの民族=国家にまとめるという擬制が近代の国民国家には必要だった。そして、近代国家は独占段階において帝国主義国家となり、植民地をつくって他民族を支配し、ひとつの「国家」のもとにまとめようとした。その統合の一つの道具として、唯一の国旗、唯一の国歌というものがある。
 封建制のくびきから解放されるために、何もかもが違う一人ひとり、あるいは分裂した集団を、いったん同じ「市民」としてくくることは、歴史上役割があっただろう。しかし、他民族を抑圧したり、階級支配を覆い隠す役割を国民国家が担い始めた瞬間から、「ちがったものを同じものとみなす」という統合作用は、必要な部分を残して、できるだけ解体されていかねばならない。すなわち、社会実態にあるリアルさ(民族の違いとか貧富格差とか)を見つめるようなものに進化していくということである。

 ちがったものを無理に統合するために、少なくとも歌が一つである必要はない。国民国家としての「唯一国歌」という役割を解体すべきである。






2006.9.24記
東京地裁判決文要旨は「しんぶん赤旗」9月23日付、
徳島新聞9月21日付(電子版)から引用しました。
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