竹内桜/雑破業『ちょこッとSister』1〜2巻 ニュートンが自らの力学的世界観の始元を説明するうえで「神の一撃」をもちいねばならなかったように、ご都合主義のラブコメにとって、「最初の設定」ほど強引なものはない。 本作『ちょこッとSister』にとっての「神の一撃」は、「“妹”がサンタによって運ばれてくる」という設定だった。二度とこの「根拠」が自省される日はないであろう。妹の食費と学費はどこから出ているのか。 設定さえすませてしまえば、後ろ手に鍵を閉めた二人っきりの部屋みたいなモンで、あとは楽しみ放題というわけ。ロリとか巨乳とか妹とかメガネとか、「萌え」をテキトーにつないでいけば、昨今のライトエロ・ラブコメは出来上がるのか(タイトルからして『ちょびっツ』+『シスプリ』のようなものだが)。それは物語としてはひどく単調だ。 だから、そうさせまいと意識的か無意識的かそれに抗する試みがもちこまれる。 この単調な世界に「構造」をとりいれ、それによって、この単調さを破ろうとするのだ。 読めば誰でも気づくと思うが、高橋留美子『めぞん一刻』の「構造」がうめこまれている。 本作は、サンタによって突然もたらされた“妹”・ちょこと主人公の青年・川越はるまとのアパートでの同棲生活を軸にしているが、その周辺には、主人公を密かに想うアパートの管理人さん、主人公のあこがれる花屋の綾乃さん、などといった物語を配している。 ちょこと川越の住むアパートの古さといい、とくに二階へつながる階段といい、思い出すのは「一刻館」。となりにすんでいる足来(あしらい)はいつも下着姿で歩き回り、蓮っ葉。それはだれが見ても「朱美」である。なぞの男・安岡は「四谷」氏であろうか。 そして、管理人と住人のあいだの、秘められた想い&気づかないボケっぷりは、「響子」と「五代」であることは疑いない。 ただし、配役と構造は『めぞん一刻』そのままではなく、微妙にズラされている。 管理人と住人の役回りは逆転し、「響子」的女性像=「陰のある美女」はアパート内には存在せず、花屋の綾乃へと「転送」されている。 しかしただ「それだけ」である。 こうした構造をもちこむことで、少しなりとも単調さをやぶり、作品世界に多少の陰影はきざめるかもしれないが、いまのところこの「構造」は十全に機能しているとはいいがたい。 にもかかわらず、先ほど言ったように、作品全体は、山のような萌えを盛り込んで出発しており、美しい芸術作品としてではないが、どこにでもある「規格品」としてきちんと動いている。 そう、この作品は、見事にすべてが「既成の規格部品」によって構成されている。 いや、80年代以降のヲタ漫画表現じたいがそもそもそういったものではないのか、という反論もあろうが、この作品は、萌え要素はもちろんのこと、タイトルから物語構造にいたるまで、それが工業製品のように徹底しており、しかもきちんと作動して、ひとびと(ヲタ)の用に供していることが驚きなのだ。ここまでしっかりやれば、だれも「あざとい」などとはいうまい。 (それにしても「めぞん一刻」で妹萌えをやるってのは、電子ブロックで炊飯器をつくろうとするようなもので、どだい無理なのだ) だが、ぼくはその路線には反対する。 今からでも遅くはない。 管理人以外のすべてのキャラを清算し、「ちょこ」と「管理人」だけにしぼれ。 その両者の間で揺れさせろ。 ってそれじゃあ『ゆびさきミルクティー』じゃん、などという野暮なやつもいるだろうが気にするな。 おれが責任をもつ。 (原作:雑破業) |
||