福井健策『著作権とは何か』
米沢嘉博監修『マンガと著作権』
〜末次由紀の回収事件にもふれて(上)



著作権とは何か―文化と創造のゆくえ マスコミ的な話題としてはちょっと遅いのかもしれないけど、末次由紀の「盗用」・回収事件について。知らない人のためにいっておくと、漫画家の末次が、『エデンの花』などの作品で、井上雄彦『スラムダンク』などからバスケットボールのプレイのカットをトレースし「盗用」していたとして2chなどで騒がれ、本人が謝罪し『エデンの花』の出版元である講談社が全巻、自主回収したという事件である。

 こちらが、その検証サイトである。

 なるほど、ちょこっと絵柄を変えただけで、バスケの動きをほぼそのまま写し、別の背景や登場人物のなかに溶け込ませているのがわかる。

 根源的なことを考えてみたいのだが、これは著作権に触れる行為なのだろうか。触れるとすれば具体的にどのように触れるのだろうか。


末次の行為は著作権侵害か

 福井健策『著作権とは何か』によれば、「著作権侵害とは、(1)他人の著作物を見るなり聞くなりした人がそれを真似て(「依拠性」)、(2)まったく同じかよく似た作品を作ったり、利用した(「類似性」)ときに成立するのです」(p.81)。
 これにたいする、代表的反論はたいてい(1)´「そんな作品は知らなかった」と(2)´「それほど似ていない」である。
 (1)´については、まさか『スラムダンク』を知らなかったとは言えない。本当に知らなかったとしても、通らないというのが著作権の世界である。ただ、「そのコマは知らない」ということは言えなくはない。しかし(2)´をみると描かれている人物が少し変えてあるだけで似すぎていて、「そのコマは知らない」という言い訳も同時に苦しくなってしまう。

 ゆえに、著作権侵害はおそらく成立している
 ただし、著作権にかかわる問題は親告罪であって、侵害された方が訴えなければ「事件」にはならない。しかし、著作権の侵害そのものは起きている。

 末次のしたことが著作権を侵害する「盗用」であるとすることに異論はない。
 ただ、末次を「懲罰」し、「追放」(回収)するだけでコトがすむのかというと釈然としない思いは残る。


漫画という営為は模倣、模写、翻案の文化の中にある

 というのは、少なくとも日本では漫画を描くという営為は、無数の模倣、模写、翻案などの「著作権侵害」(あるいはスレスレ)の行為の大海のなかに身を浸しているからである。その海というか土壌をどうするのかという解決なしに問題は終わらない。竹熊健太郎のブログをはじめ、これに類する論点を提起している人は少なくない。

 一般的に、文化は模倣と創造のミックスである。究極のオリジナル、独創というものを探すのは逆に困難だ。
 コミケットでのシンポジウムを収録した『マンガと著作権』という本の中で、夏目房之介は次のようにのべている。「……一般的に言って、創作物って、つまり著作物ですよね、思想感情を表現した制作物っていうのが、完全なオリジナルであることはあり得ないと言われているんです」「非常に大風呂敷な言い方をすれば文化の伝承です」「ですから、我々がそうであったように、また先人がそうであったように、やむにやまれぬ気持ちで何かをもじってしまったり、するっていうことの中から新しい創造が生まれる。文化っていうのは常にそうなんですよ」(p.90〜91)

 しかし、小説、あるいは絵画一般とくらべても、漫画という営為は、この「模倣」という契機がかなり大きな意味をもっている。小説ではたとえば司馬遼太郎を強く愛したとして、司馬の文章そのものをコピペしてしまうことはない。もちろんごく部分的にはあるだろう。しかし、多くは「作風」を真似るということになる。前掲の『著作権とは何か』によれば「…アイディアは自由に利用できるという原則から、ひとつのルールが導かれます。それは、作風は真似てもよいということです」(p.45)。作品にしあげるときに、司馬の文章を「まるっ」と剽窃してしまうということはあまりない。それは「特殊なケース」として片づけられる。
 絵画についていえば、たしかに習作として誰かの絵をそのまま模写するということは、頻繁におこなわれる。しかし、それはあくまで練習のためである。実際に作品として世に出す時は、もちろんそのようなことはおこなってはならないとされる。仮に模倣したうえで、少しだけ体裁を変えようという悪意をもったときでも、「できるだけわからないようにしよう」という意図が働く。つまり、オリジナルと自分の模倣を「区別しよう」という意識が前景化してくる。だから盗作事件は後を断たないが、盗作しているという意識は強いはずである。

 これにたいして、漫画は完全コピー(完コピ)も作風の模倣も当然存在するが、一つの作品のなかに一つの「絵」である「コマ」を複数描く必要に迫られる。いや「複数」なんて生やさしいものではないだろう。大量に、である。そこには背景が必要になる。そして体の動きが必要になる。あるいは構図が必要になる。
 いわば、絵画家が周密かつ丁寧におこなっていることを、一つの作品のなかで大量におこなう作業に迫られる。映画のフィルムのコマとも違って、それらは人間の手で作り出される必要があるのだ。
 もちろん、多くの漫画家は、そして多くの場面では、漫画家は独創で背景を描き、体の動きを描き、構図を決めている。しかし、同時に、そのなかに「少なくない」量で、模倣や模写が混入することもまた事実であろう。

 『マンガと著作権』のなかで、竹熊健太郎ととり・みきは次のように述べている。

「〔竹熊〕 実際『AKIRA』のあのコマから取ってきて、髪形だけ変えてるな、みたいなのも、商業誌のプロ作品中にもあったりした訳ですよ。それを内輪で気がついたら、あいつこんなことやってるよ、で終わっちゃうんだけれども、あまりそれで裁判になったって話は聞いたことないですよね。マンガ界の中では」
「〔とり〕 マンガ家はみんな後ろ暗いから〔模倣されたと裁判までするのは〕ないんですよ」「全部パクリっていうのは論外だけど、ではお前のこのコマは違うのか、この構図は、と問われると、たいていのマンガ家は一つや二つはスネに傷持ってると思う。とくに初期作品は」
「〔竹熊〕 しかし、実際に〔漫画家による別の漫画家の模倣が〕公的な問題になるってことはあんまりないですよ、あんまり甚だしい場合には編集部同士とか作家同士で話し合って解決するのが大部分であって。ところがさっき言ったように、写真の模写で新聞ざたになる事件が大抵二、三年に一回くらいは起きます。それもかなり有名なマンガ家先生がそれなりのカメラマンの写真集から背景で使っちゃって、ていう」「写真の模写っていうのは、実際にはマンガ同士の模写よりも問題になる率が高いと思うんですよ」(p.57〜59)

 おれは他人の漫画の模写なんか絶対しねえし、そんなに漫画家はやってねえよ、といういしかわじゅんでさえ、写真については次のように言う。

「〔いしかわ〕 俺もずっと昔は、権利関係の意識なんてまるでなかったし、写真集とか模写してやってたけどね。最近までそういうこともあんまり表ざたになってないけど、水面下で結構トラブルになってるんだよね」(p.60)

 そして、これらは、目や憶測でトレースしようが、器具を使って精確にトレースしようが、(1)なにかに依拠して(2)結果的に似てしまえば、すべて著作権侵害となる(独創性のない、「ありふれたもの」は別だが)。
 ぼくも、けっこう有名な漫画を読んだ後、まったく別のビデオのパッケージのスチールを何気なく見たとき、ふっとその漫画のひとコマと重なったことがある。調べてみたらまるっきり同じで、あきらかにそこから模写したのだとわかった。そのビデオと漫画はまるっきり別の世界のものなので、普通はまずわからない。
 竹熊自身が『サルでも描けるまんが教室』のなかで、体や動作なんて他の漫画から写しときゃいいんだと指南するシーンを皮肉をこめて描いている。
 つまり、漫画においては、著作権を侵害するということの心のラインがきわめてあいまいになりやすいのではないか。


パロディという翻案文化から育つ漫画

 そして、さらに問題が大きいのは、パロディをあつかう同人誌の存在である。
 パロディは、著作権上は、「翻案」にあたる行為である。「『翻案』というのは、たとえば、元々ある著作物のストーリーや絵柄といった表現を借りて、これに手を加えて新しい著作物を作ることです。映画化、脚色、リライトなどがこれに含まれるでしょう。後で述べるパロディも、これにあたるかもしれません」(『著作権とは何か』p.61)。翻案は著作権者が仕切れる権利の一つだ。
 パロディにかかわる同人誌は、この翻案を無断でおこなっている。
 もちろん、著作権の例外である「私的複製」の範囲であれば問題はない。米沢嘉博が「仲間内の会話とか、ファンの会話みたいな感覚を、そのままマンガで描いちゃうのが同人作家じゃないかな、ていう気もするんですよね」(『マンガと著作権』p.93)とのべているとおり、「仲間内の会話」が本来的なものだった。
 しかし、現在ではこの範囲を大きく越えていることは周知の事実で、マーケットで「不特定または多数」に販売されている。たった一人に売るのであっても、もし直接的なつながりのない人に売れば、それは「不特定」への販売となる。

 パロディは、フランスのパロディ法やアメリカのフェアユースの法理など、外国では保護されているケースがあるのだが、日本では基本的にパロディは法的に認められていないといっていい。お目こぼしや許諾によって成り立っている。嘉門達夫がメドレーを出したとき、いちいち許諾をとったのは有名な話である。
 パロディ問題でよく知られた訴訟としてマッド・アマノ事件があり、これは『著作権とは何か』でも『マンガと著作権』でもどちらでもとりあげられている。被告のマッド・アマノ側がパロディを正当化する法理が日本の法律にみあたらず、「引用」だという苦しい言い訳をする。これにたいして最高裁がしめしたのは(1)引用と引用されるもののあいだに明瞭な区別があり(2)主従が明確、というものだった。パロディではこれは不可能にちかい。

「この裁判はアマノさんの敗訴で終わりました。それは、日本のパロディにとってはある種の冬の時代の始まりだったといえるでしょう。『ほとんどのパロディは、引用ではない。だから現行法ではそれを許す規定はなくて、大半は無断複製か無断翻案と評価されるほかないのだ』という立場が最高裁によって示されたからです」(『著作権とは何か』p.153)

 ちなみに、同書によれば、「名前」「性格」「基本設定」には著作権はないといわれており、基本設定やキャラを借りて小説の続編を書くことは著作権侵害にあたらないとする、研究者の「有力な意見」が存在するという。ただし、あくまでそれは小説の話で、「絵柄」が存在する漫画の場合は、「立派な美術の著作物の利用」(p.50)になる。

 つまり、パロディ同人誌は、日本では多くは違法の状態にあり、たんにそれは著作権者や出版社の「お目こぼし」によって生きながらえている、というのが現状である。
 これは同人誌についての講談社の見解であるが(ブログ「主上探索」より)、興味深いのは、パロディする側ではなく著作権者の側に立つ出版社自身が、パロディをふくめた同人世界が作家を育成する「揺籃」の役割を果たしているために見逃さざるをえない、としている点である。これについては非常に重要な点なので後述したい。

 話を元にもどせば、末次の「盗用」は違法であるし許されないことであるが、漫画界全体が(1)絵の模倣(2)写真の模写(3)パロディ同人誌の翻案という、著作権違反またはグレーゾーンの海に身を漬けているなかで起きている以上、ひとり末次の「制裁」や「追放」で問題は終わらないという話なのだ。

 漫画家であるみなもと太郎は、『マンガと著作権』のなかで、漫画界の草創期、いや70年代くらいまではいかにそのあたりがいい加減かということを話していてなかなか面白い。現代では「うるさくなってきた」ということはいえても、この広大に広がる違法とグレーゾーンの大海については手をつけられてはいない。そのあたりがあいまいなままプロ作家になっていくということになりはしまいか。

 竹熊はブログおよび『マンガと著作権』のなかで、出版社共通の「フォトライブラリー」構想を要求していて、それはそれで傾聴に値するものがある。
 ただ、もう少し掘り下げて問題を解決するにはどうしたらいいだろうかと、ぼくは思うわけである。


文化振興のためのせめぎあいという基本点

 夏目房之介は、『マンガと著作権』のなかで、この問題を考えるうえで重要な視点を提起している。

「著作権法っていうのはもともと文化の保護法なんですよ。その国の文化の保護なんで、当然著作権、物を書いた、思想や感情を表したものを作った、そのことを保護するためにあるんですが、それを無制限に認める訳にはいかないよ、っていうことがあるんです。これは公共と人権の関係みたいなもので、片方を無制限に認めると矛盾が起きるんです。なので、どこかで制限を設けなくてはいけない、著作権でも、無制限に自由じゃないよ、ここは制限があるよ、引用というのは、たとえば文芸批評において、文芸批評が豊かになるというのもこれまた一つの文化であるから、それを抑圧するような著作権の使い方はいけないよということなんですね」(p.29)


 『著作権とは何か』で福井健策も「著作権法とは文化振興法なのです」(p.113)として、著作権がなければいかに文化振興の意欲が萎えるかと説く反面で、翻案や、引用による批評が文化を肥やしてきた現実にもふれている。

 つまり、文化振興という目的を達するために、その著作権とその制限を秤にかけ、そのバランスのうえで法体系ができているというわけである。
 だとすれば解決策は、漫画において文化振興をはかるためにこのバランスをどうとるのか、という地点から思考される必要がある。



著作権についての講習

 (1)模倣(2)模写については、プロ作家として公的な場にさらされる前は、私的な場であればむしろ文化を振興するものである。だからこれは大いに奨励されてしかるべきだが、いったんプロになったとき、アマチュアの精神土壌のなかで暮らしてきたものとの間には大きな乖離が生まれる。末次の謝罪文の言葉を借りれば、「モラルが低い」ままプロになってしまうことがあるのではないか。

 ぼくは漫画家ではないので知らないが、たとえば政治にたずさわるケースを比喩にだすと、アマチュアの市民運動のときは、どんなビラを出しても許されるのだが、もし候補者をたてる「選挙活動」にかかわると禁止項目でがんじがらめにされた選挙法体系のなかで足をすくわれやすくなってしまう。ふだんのビラに、自分たちの応援したいと思う人について「清き一票を」と書けば選挙法違反になってしまうのだ。そんなとき、法律対策の担当者をおくか、本人たちに講習が必要となる。政治活動と選挙活動は違うのだとはっきり認識してもらわねばならない。

 著作権問題でも似たようなことがいえまいか。本来編集者がこういうチェックはしっかりおこない、作家はのびのびと書くべきだと思うが、今回の事件のように編集者がこうした点までチェックしきれるものでもない。漫画家自身が著作権について簡単に知っておくことは、必要最低限のことになると思う。「自分はアマチュアではないプロの世界に入ったんだ」という意識上の線引きにもなる。

 すでにあるかもしれないのだが、雑誌に掲載された漫画家には、啓発のための簡単な講習、もしくはミニ冊子などを渡して読んでもらうことだけでもあればいくぶんか効果があるのではないだろうか。後述するが、福井の『著作権とは何か』を読むだけでも、一般人がその感覚を見につけるには十分だ(この本は「○○はいけない」式のネガティブリストを提示するだけでなく、法の根本精神そのものを簡単に身につけることができるすぐれものである)。



パロディを合法化する

 (3)パロディ同人誌による翻案は、先ほど述べたように、同人誌の世界について出版社自体が作家育成の土壌をなしていると認めているほどなのだから、明らかに「文化振興」に役立っているといえる。
 「告発しない」という方針が、いわば阿吽の呼吸として著作権法を日本的に運用する絶妙の仕方なのかもしれないが、違法を大量に存在させている状態はどう考えてもまずい。「ポケモン事件」といって、ポケモンのキャラを使った同人誌を出した人間が逮捕される事件がすでに起きている。

 ぼくは、フランスのパロディ法的なものを整備して救い出すべきではないかと思う。『マンガと著作権』のなかでみなもとや米沢は、フランスのパロディ法が狭義の風刺しか認めていないのではないかという点に疑義を表明し、国家にそういうことを決めてほしくないと述べている。「フランスの『パロディ法』とか、アメリカの『フェアユース』の法理を持ち込んでくると逆にしばる部分も出てくると」(p.200、米沢)。だが、この点については、米沢のその直後でのべている点にしたがって解決していけばいい。「だからアメリカはあっていいな、フランスはあっていいなではなくって、また日本にあったものを考えていかなくてはいけない」(同)。

 くり返すが(1)(2)はプロ漫画家の意識のなかに明瞭な線引きをつくることで、違反行為を「例外」化させること。(3)は、広大な合法分野を形成して、独創性のない、海賊版や便乗商法のみを囲いこむこと。これによって、文化の振興をはかりながら、違法・グレーゾーンの海に身を漬けているという状況は変えられるのではないかと思うのである。

(2冊の本の感想につづく






福井健策『著作権とは何か 文化と創造のゆくえ』(集英社新書)
米沢嘉博監修『マンガと著作権 パロディと引用と同人誌と』(青林工藝舎)
2005.10.29感想記
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