福井健策『著作権とは何か』
米沢嘉博監修『マンガと著作権』
〜末次由紀の回収事件にもふれて(下)


こちらからのつづき

著作権とは何か―文化と創造のゆくえ これまでに紹介してきた福井健策『著作権とは何か――文化と創造のゆくえ』(集英社新書)と米沢嘉博監修『マンガと著作権 パロディと引用と同人誌と』(青林工藝舎)は、この問題を入門的に考えるうえで、どちらも大変役に立つ本だと思う。


著作権についての考え方・全体像が身につく『著作権とは何か』

 『マンガと著作権』はコミケットでのシンポジウムがもとになっていていろんな論者がいろんな水準のことをいっている。だから、いきなりこれを読むと混乱してしまう。先に福井の『著作権とは何か』を読むと、著作権の考え方というものの基本が実にわかりやすく身につく。そう、身につくのである。その目で『マンガと著作権』の方を読むことをおすすめする。

 福井は「あとがき」で「本書は、著作権制度全体の入門書や実務書と呼ぶには、いささか不十分な内容の本です」(p.208)とのべ、重要な論点が抜け落ちていることを認めたうえで、「これは、著作権についての網羅的な知識を伝えることよりも、著作権というものの全体像や考え方を示すことが本書の第一目的だからです」(同)と告白している。そして、そのねらいはよく果たされている。

 ことをわけて論じる明瞭さ、それにともなう体系性、読者にちょっと考えさせるようなクールな距離感、かと思えば文化振興に役立たない判決や決定の不条理に憤ってみるさまが絶妙にブレンドされた好著である。そして最後には著作権そのものを相対化してみせる視点さえ提供(反著作権など)してみせ、著作権に内在する視点から外在的な視点まで、次々パースペクティブを変える自在さに、読者は短いページながら著作権をさまざまな角度から眺められ、最終的に「著作権というものの全体像や考え方」をよく身につけられるようにできている。先ほども述べた通り、漫画家はこれをまず読んでおけば、基本的なことはわかるのではないか。

 とかく著作権は「ネガティブリスト」としてとらえられがちである。

「基本的にはその写真を丸ごと写さなければ、基本的にOKと」「上手に写すとまずいんですね」「僕も法律相談なんかで良く来るのが、写真をそのまんま写すような形でちょっと雰囲気を変えているんだけども、写真の形そのまんまに描かれているのがあって、これはどう考えてもダメだろうなと」(『マンガと著作権』における牧野二郎の発言、p.174)

 そういうふうに一番うけとってほしくないと強烈に主張している牧野の発言を引き合いにだして恐縮なのではあるが、これはネガティブリスト思考のひとつの典型である。これにたいして福井の本は、大もとの精神をつかむことができるので、著作権という考えそのものを相対化し批判する考えもふくめて超越的な視点を得られ、かつ、その線引きも簡潔ながらポイントをつかんで知ることができるのである。



ごちゃごちゃしている『マンガと著作権』

 『マンガと著作権』の方はどうか。
 こちらは、シンポジウムをおこしたものなうえに、かつ、著作権についてはシロウトである漫画家と、クロウトである人たちがごっちゃになって議論しており、おそらく初めてこの問題について読んだ人には著作権についてのポイントがわかりにくくなっている

「コミケット準備会では、答えを出すのでもなく、理論武装するためでもなく、表現に関わる人間たち全てが、自分の問題として考えていくために、シンポジウムを企画しました」(p.10)という目的のあいまいさが構成にもろに反映したのだ。

 最大の問題は、文化の問題と法律の問題が混在してしまっていることである。両者は密接に関連しているが、まずは両者は明瞭に区別されなくてはならないと、ぼくは思った。

 ところが、福井の『著作権とは何か』をまず読んで、そのうえでこのシンポジウムを読んでいくと、著作権の問題体系のなかでどこに位置しているかが、大ざっぱではあるが見取り図を得ることができる。たとえば、『マンガと著作権』のp.19からp.21にわたって、米沢がシンポジウムの問題提起をしているが、普通の人は何をいっているかさっぱりわからない状況が続く。しかし『著作権とは何か』を読んでからこの部分を読むと、米沢がへたくそに伝えているのだなあと見えてくるのである。



『著作権とは何か』は『マンガと著作権』の混乱をただすために生まれた?

 というか、ぼくはびっくりしたのだが、ひょっとして福井の『著作権とは何か』は、この『マンガと著作権』を読んで、その混乱を整理するために書かれているのではないかと思うほど多くの対応をみせている
 むろんあくまでそれは邪推だし、著作権の基本点をひもといていけば、おのずとそういうことになるのかもしれないのだが。

 たとえば、『マンガと著作権』のp.57〜58でパロディと模写と盗作の話を竹熊がしているのだが、竹熊はここで画風の確立の話、いわば「作風」の話と、盗作という次元の違う話を混在させてしゃべっている。先ほどもふれたが、福井は『著作権とは何か』のなかで「パスティーシュ(作風の模倣)」という項をたてて「作風は真似てもよいということで、この問題をはっきり切り分けている。

 また、『マンガと著作権』のp.95〜96では竹熊はアイデア・イメージと著作物の問題を混同するような発言をし、たとえに「ゲーム」まで持ち出しているのだが、福井の著作では、p.33〜40でアイデアには著作権はない、という考えをはっきりとのべ、ゲームのたとえを使ってその問題を論じている。

 あるいは『マンガと著作権』のp.93で、読者というユーザーは著作物を一般商品になぞらえて、買ったらどう使うかは原則自由、みたいな発言を米沢はしているのだが(むろんそのあと「だからといってパロディが全てが著作権に触れないかというと、そういう問題でもない気もするんですよ」と付け加えているが)、これについて福井の著作では冒頭(p.11〜12)に、この点が一般の商品の使用とはかなり違うのだということをていねいに論じている。

 そして、『マンガと著作権』ではp.76から「パロディと盗作の違い」という項をたてて、文化論あるいは作家の側からの作品論を展開させている。つまり、「こんなもんはパロディじゃねえ。もっと程度の低い作品だ」という文化論である。これにたいして、福井の著作ではこうした文化論を排除して、翻案の定義や、マッド・アマノ事件をひきながら法律的な線引きを提供している。日本において、パロディの文化的な線引きは法的にはほとんど意味をなさない。

 それから、『マンガと著作権』でいしかわや竹熊、高河ゆんが同人誌を金をとって売るのはまずいだろうという点をのべていることについて、福井の著作では「私的複製」の問題と「不特定または多数」という問題を論点としてあげている。法的にはこのようにキッチリとした仕分けとして出てくるのである。

 このほか、(C)マークをつけとけば大丈夫だという神話、漫画批評におけるコマ引用の基準、フランスのパロディ法とアメリカのフェアユース法理の紹介、日本におけるパロディの不利、複製が許される私的な範囲とは何か、など、『マンガと著作権』のシンポジウムであげられた論点を、福井の著作はかなりふくんでいて、しかもシンポジウムでの不足点などに明瞭な答えを出している。



夏目がいつも正確

 蛇足だが、シンポジウムで、法的に正確で、するどい論点整理をおこなっているのは、終始一貫して夏目房之介である。つねに文化的な問題との混同されてくるようなこみいった状況になってくると、夏目がそのあたりをビシッと正している。
 たとえば、p.59〜61あたりでいしかわあたりが、思いを込めて撮った写真だから、ありきたりのフォトライブラリーをつくっても解決しねえよという話をしているときに、夏目が出てきて、「いいですか? つまり、マンガ全体の中で、絵画にしろ写真にしろ、そのまま使っちゃうっていうことね、これは法律的にまずいんですよ」(p.61)とぴしゃりとやる。
 また、文化の継承行為として模倣ということがあるんだということを一般的に認め、パロディもその文化的継承の行為だろうということをいいつつ、そういう文化の問題と法律の問題は「分けて考えるべきです」とはっきり線引きする。

 竹熊も法律的にはかなり正確なのだが、ときどき文化の話題にひきずられて、初めてこの問題について読んでいる人には論点がごっちゃになってしまうといううらみがある。いしかわや高河などはシロウトの立場からの素直な発言なので、そのように読めば問題はない。
 いちばんタチが悪いのは米沢で、司会者なのに、文化的な問題と法律的な問題を混同させてしまうような論点を出すものだから、何も知らずに読んでいる方はおそらく混乱してしまうのである。

 しかし、先ほどからのべているように、まず福井の『著作権とは何か』を読み、つづいて『マンガと著作権』を読めば問題はおこらないだろう。むしろ後者は漫画の制作現場の生々しい立場があるだけに、あわせて読んでおいた方がよい。第2回シンポジウムのみなもと太郎のトークなども、純粋に読み物として楽しい。




福井健策『著作権とは何か 文化と創造のゆくえ』(集英社新書)
米沢嘉博監修『マンガと著作権 パロディと引用と同人誌と』(青林工藝舎)
2005.10.29感想記
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