古典を売りさばく広告のことば

 中公新書を買ったら、中に「中公クラシックス」のチラシが入っていた。
 「古典の森に分け入ろう」。

 ホイジンガ、ヘーゲル……と碩学たちの名が並ぶ。

 これをどう広告して売るのかはむずかしいところだなあ。



 しかし、末尾に村上龍の推薦文が載っていて、これがうまいと思った。

「高校生のころ、中公の『世界の名著』シリーズのタイトルを眺めただけで興奮したものだ。教養や知識としてためになる、というより、こういう書物は世界に対する認識が変わってしまうという危険な香りも感じた」

 これは青春期の古典への感情を、よく伝えている。
 ぼくも、やっぱり図書館のうすぐらい部屋でながめた「世界の名著」シリーズにまったく同じ感情をいだいた。むろん、ぼくがマルキストだったということもあって、レーニンやマルクスを眺めるだけで、そういう興奮を感じたというのもあるんだけど、その後もべつにマルキストの文献に限らず、古典というものには、認識を転覆させるような危険な香りをずっと感じている。

 ただ、興味深いのは村上のそのあとの「知識」と「教養」認識だ。

「知識は体制にとって危険なものだからだ。脳のOSとなるような知識は、決して安全な教養に堕することがない」

 一定の形容をつけてはいるが、村上にとって、認識をひっくり返してしまうようなラジカルさをもつのは、「教養」という言葉ではなく、「知識」という言葉で表されるのだなあ、と。
 ぼくの場合は、まるで逆である。

 知識とは、世界観への深化をとげない断片であるのにたいして、教養とは人間の生き方の根本に浸潤していく存在、あるいは生き方そのものだといってもよい。真の教養こそ世界を変えてしまう。

 村上が「OS」というコンピュータの用語で譬喩したように、ネット――断片化された情報の海――で活躍する彼にとって、世界を変える装置を表す言葉は、やっぱり「知識」なんだなあ。


2003.12.7記