広井良典『コミュニティを問いなおす』




 第9回大佛次郎論壇賞を受賞した(その前は湯浅誠『反貧困』)。〈戦後日本社会の基盤を支えてきた「家族」「会社」といった共同体が、大きな経済成長が望めない今、崩れはじめている。孤立を深める個人が、独立を保ちながら再びつながることができる「コミュニティ」をどう作っていくか〉(朝日新聞09年12月13日付)がテーマである(同様の解説が本書のカエシに書いてある)。



ポスト資本主義論、都市型コミュニティをどうつくるか



 本書はいまのぼく自身が問題意識に感じていることと重なることが多かった。特にポイントは次の二つである。

 一つは、ポスト資本主義論として。広井ははっきりと「ポスト資本主義」という言葉を出して、資本主義をどう乗り越えた社会をつくりだすかという問題意識でこの本を書いている。もちろんそうした問題意識を披瀝する現代の論者に共通して自分を決して「社会主義者」であるとは規定しないのであるが。コミュニストであるぼくとは、この点が大いに重なる問題意識だった。

 もう一つは、「コミュニティ」の創出、なかんづく、都市のコミュニティをどうやってつくりだすかという問題意識である。
 ぼくはこの問題に実践的に3つの立場から遭遇している。第一は、左翼組織の一員として。左翼組織は、明らかに現代において新自由主義の暴風から身を守るための「避難所」としての役割を担っている。第二は、保育園の父母会の役員として。保育園は子どもたちを貧困から守る最初の砦であり、親同士がつながりあう地域のコミュニティだからである。第三に、ぼく自身が最近町内会(団地自治会)の中心的役員になったがその立場から。これほど客観的には欲されている組織もないのに、依然として行政の下請としての末端の色彩が強く、会員の減少と組織崩壊の危機に苦しんでいるのである。
 本書を読むとわかるが、著者の広井自身もこうした現場のコミュニティづくりにかかわっているようであるが、単に机上の理論としてコミュニティを欲しているのではなく、現場の実践感覚としてコミュニティをどうつくるかが問われているのである。




コミュニタリアニズムとの関係



 資本主義批判、そして「コミュニティの重要性」の強調とくれば、これは「コミュニタリアンの主張」だと気づく人がいるだろう。大佛次郎論壇賞の選者の中でも橘木俊詔が〈倫理・政治思想でコミュニタリアニズム(共同体主義)がある。氏〔広井のこと──引用者注〕がこれをどう評価しているか知り得なかったことが唯一の心残り〉(朝日同前)と述べている。

 70年代に強まった反ケインズと新自由主義的な経済風潮のなかで、アメリカでは個人の自由や自立を強調するリベラリズムやリバタリアニズムが勢いを増した。それに抗する形で、80年代に登場したのが、個人の自立を尊重しながら、家族や地域社会のつながり、そこでの共通の「善」の実現を強調する政治思想が登場した。これがコミュニタリアニズムである。しばしば「共同体主義」と訳されるが、伝統的な保守主義の家族・地域強調とは一線を画したいと願っているのがコミュニタリアンたちである。まあ、コミュニズムを共産主義って書くとソ連と同じに思われるぅ、やめてーっていうのと同じですな(笑)。

 新自由主義が、中間的コミュニティを解体し、個人を原子のようにバラバラにしてむきだしで資本の暴風の前にさらすとき、その防波堤として、あるいは制御装置としてコミュニティを求めるのは、一つの流れである。この点で保守主義者とコミュニタリアンと社会主義者・共産主義者には共通点がある。〈「コミュニタリアニズム」という言葉は、もともと社会主義と関係の深いものです〉〈日本でも、マルクスの思想をコミュニタリアニズムのほうに引きつけて理解する試みもあります(青木孝平『コミュニタリアニズムへ』社会評論社、二〇〇二年)〉(菊池理夫『日本を甦らせる政治思想』p.34〜35)。

 後でも述べてるが、結局現代の社会主義というものは、コミュニタリアンたちが主張するような形(自立した個人、弱さをカバーするための共同体の必要)をとらざるを得ないであろうし、それをブルジョア的だとか修正主義的だというトーンで非難するのはまったく生産的ではない。コミュニタリアニズムの主張はむしろ今の民主党政権の色彩に近い。たとえば「友愛=連帯」の強調一つをとってみてもそうだし、イギリス労働党の「第三の道」(新自由主義でも計画経済でもない、というもの)との親和性をみてもそういうことがいえる。抽象的な社会モデルや政治理念では一致(あるいは目くじらを立てず)しつつも、具体的な政策や予算がどうなっているかを気をつけていく、という対応をした方がいいと思う。


 ちなみに先ほど紹介した菊池理夫『日本を甦らせる政治思想』のサブタイトルは「現代コミュニタリアニズム入門」であるが、この本のなかで広井が紹介されている(p.178〜181)。そこでは広井はやはりコミュニタリアニズムへの言及がなく、部分的には家族や村落共同体への敵視がみられるという批判をうけているものの、全体としてその政治哲学は〈リベラル・コミュニタリアニズムに近い〉(p.179)という評価を受けているのである。




審議会参加の学者臭のする文体、図式主義



 ところで、本書はいかにも学者的、あるいは「自治体とかの審議会に参加している学者くささ」が強くて読みにくいことには留意して読まねばならないだろう。

 〈都市、グローバル化、社会保障、地域再生、ケア、科学、公共政策などの多様な観点〉(本書カエシ)、果ては哲学的独我論まで飛び出す〈多様な切り口〉〈実に多彩な視点〉(朝日前掲の選者の言葉)で書かれていると評されているが、読みようによってはあっちへいったりこっちへいったり、一体なんでこんなに話題がポンポン飛んでいるのかわからない、そして一貫して何を論じようとしているのか見えない、ということになってしまう。
 しかも学者然とした結論を断じない思わせぶりな書き方や、分析の「視座」を与えるという言い方で自分の分析道具をまずは説明する叙述方法が、シロウトの読み手をイライラさせるに違いない。

 もう一つは、図式主義的な理解が目につくことである。今述べたことと一見矛盾するように見えるが、世の中の「トレンド」を取り込み、それを図式によって示そうとすることで、わかりやすさや説得力を出そうとしているように見える。あるいは「文明論的な横断」をして「学際的」なところを見せたいためであろうか。
 たとえばコミュニティを論じるさいに、サルの社会や父親・母親との関係のメタファーとかとか、〈稲作の遺伝子〉とか、そういうのが萎える。
 あと、近代科学の展開を〈その基本コンセプトは「物質→エネルギー→情報→生命」という形で展開してきたととらえることができる〉(本書p.221)とか……もういっぱいあってアレなんだが、とにかくもろもろのそういうやつだ!




極端な政策を想定すると本書は理解しやすい



 多様な切り口に惑わされず(笑)、本書を貫く問題意識を書いておけば〈日本社会における根本的な課題は、「個人と個人がつながる」ような「都市型コミュニティ」ないし関係性というものをいかに作っていけるか、という点に集約される〉(本書p.18)ということになる。

 そして、一つ極端な政策を想定するとわかりやすくなる。

 それは、小さな地域単位で自立しうる経済・エネルギー自給圏の想定だ。職住は接近し、経済は地域内で循環し、再投資され、エネルギーは低レベルに抑えられている。そこでは、住民が主体者意識をもって「都市経営」にかかわり、あるルールを守ればその共同体に誰でも入れることができる。同時に、小さな地域単位であるがゆえにその地域住民は同胞意識をもちやすい。

 その自給圏地域=共同体は、土地を初めとする資産に累進的な課税をおこない、それによって土地や経済資源をかなりの程度コントロールすることができる。土地利用を計画的に行ない、福祉も単にフローのお金をそこに回すかどうかだけでなく、空間配置を自由にできるようになることで、地域全体がかもしだす「空気」や可視化されないような様々な措置によってケアされるようになる。もちろん、その共同体はみんなが都市経営に主体的にかかわっているような場だから、そのコントロールは官僚や政治家が独占するようなエリート主義的ではなく民主主義的、しかも熟議型民主主義である。

 経済資源は共同体がコントロールするので、資本主義的な働きすぎや失業は抑制され、過剰な生産は不足補填や時短の原資に回される。
 かといってこの共同体では全体に個人が従属するのではなく、個人は自立したうえで共同体につながっており、市場経済が前提にされている。公正な競争や個人の自由の基盤を整えるために、公的介入が積極的に行なわれる──。

 このような極端な社会像を想定してみる。おいおい、これはお前が想定しているコミュニズムだろ、と思う人もいるかもしれないが、まあまあ。

 だが、本書は、このような「ユートピア」を一方の極におきながら、そこへの間合いを常に測り続けて書いているように思われてならない。つまりこのようなユートピア像をまず読む側は頭に入れておくと、各章において論じているテーマがそのどれに該当し、現代日本でそれを実現するにはどれくらいそれが可能なのかということを検証しているようにラクに読んでいけるだろう。
 まあ、広井はこんなことを聞けば怒りのあまり、ワナワナと震え出すかもしれない。「お、お、おれはそんなこと、ひ、ひ、一言も言ってねえ!」とかなんとか。うん。一言も言ってないよね。うんうん。でもこの本をシロウトが分かりやすく読むためにはそういうものを想定しないととっても読みにくいんだよね。だから、勘弁してね。





どう都市型コミュニティをつくるか、よくわからない



 一番肝心なのは、そもそもこの本は〈「個人と個人がつながる」ような「都市型コミュニティ」ないし関係性というものをいかに作っていけるか〉(本書p.18)ということを〈日本社会における根本的な課題〉に感じているはずなんだが、本書のなかでそれが明瞭になったかというとぼくはあんましよくわかんないんだよな。

 本書p.13でコミュニティの変化について図がかかげてある。農村共同体から会社・核家族へとコミュニティが変化し、「定常化時代」(高度成長が終わった時代)のところには「?」が来ている。〈カイシャや家族という存在が多様化・流動化している現在、こうした構造そのものが大きく変容する時代を迎えつつある。ここにおいて、“地域という「生活のコミュニティ」は回復しうるか”という問いが新たな装いのもとで浮上してくるのはごく自然なことである〉(p.12)とのべているが、普通に考えれば、その地域コニュニティ(生活コミュニティ)がどんな形で現れるかを理論的に予見したり、そのためにどんな具体的な方策がとられるべきかが提示されるものだと思うだろう。

 たしかに、たとえば広井は、新しい「定常化時代」(高度成長が終わった時代)のコミュニティの中心には福祉施設や公園・農園、寺社、大学などが来るだろう、ということを予見し、コミュニティの中心は、(1)寺社(2)学校(3)商店街(4)自然関係(5)福祉・医療関連施設になるということが書かれている。
 あるいは、都市計画と福祉施策をミックスさせた「持続可能な福祉都市」という構想が描かれている。

 しかし、それらは今ある地域コミュニティ(自治会・町内会、小学校区単位、行政区単位など)からどうやってそこにいくのか、あるいは今あるコミュニティ(他にも家族や会社)との関連はどうなっているのか、あまり示されないままなのである。

 いやいや、〈「個人と個人がつながる」ような「都市型コミュニティ」ないし関係性というものをいかに作っていけるか〉なんて高尚ないい方じゃないんだよ。もっと形而下の悩みとして書いてみよう。「町内会に新住民が入らないんだけどどうしたらいいかね」「民生委員のなり手がいないんだけど…」「商店街でまつりが維持できなくなっている。どうしようか」——そういう悩みをどう解決するのか、あるいはしないのかがよくわからないのである。




ぼくが考える都市型コミュニティの「再生」



 都市ではなかなかコミュニティづくりが難しいというふうにいえるのかもしれないのだが、見方を変えると、多様な姿のコミュニティがあることに気づかされる。
 とくに、衰えたとはいえ、「会社」や「家族」は依然として重要な都市におけるコミュニティ、もしくはその原型である。また、町内会・自治会は広井自身が〈その起源において地域の「自生的秩序」としての性格をもっていた場合が見られるということも含め、一概に否定されるべきものではない〉(広井本書p.75)と積極的な評価を与えているように、崩れているとはいえ、なお有力な地域コミュニティである。

 そればかりではない。

 広井は新しいコミュニティの中心として福祉施設をあげている。前にも書いたが、保育園のような場所は親と子どもがつどい、そこで子どもの生活の指導や交流を軸にして、貧困が発見されたりする場所でもある。

 広井がしばしばあげているNPOやそこに集っている人も都市型コミュニティの有り様の一つだ。「NPO」というと堅苦しいけども、たとえばちょっとした市民農園に来ている人たちとか、子どもむけの観劇サークルに集まっている人などもそうである。
 ぼくとなじみが深い、労働組合とか左翼組織の会合なんかに来ている人もそうだろう。和歌山県のテレビで「のどかな山村で突如共産党員が急増」という特集を総選挙前にやっていたのを見たが、「限界集落」とよばれる山村で、共産党員が増えていることが報道されていた。合併でさびれていく山村での生活相談とおしゃべりによる交流を共産党の支部が茶会めいた集まりでやっているという話だった。「要望に応えてくれる政党であれば別に共産党でなくてもよかった」とはインタビューを受けていた老人「共産党員」の発言である。


 若年者に目を転じてみると、たとえば中西新太郎・高山智樹編『ノンエリート青年の社会空間』という論集のなかには、自転車メッセンジャーという配達業務をする非正規の若者たちがつくる職場および職場外でのコミュニティが描かれている。あるいは若い派遣・請負労働者たちが工場で得た友人関係がその後も続いていくことを次のような描写で示している。

〈西野工場の請負を辞めたあとも、彼らはお互い携帯電話で連絡をとりあいながらさまざまな交流を続けている。飲み会や、河川敷でのバーベキュー大会、浜さんの家に集まっての鍋パーティー、山梨県下部温泉へのドライブ、工場近くの公園での花見、津久井湖へのワカサギ釣り、バンドのライブ、サッカーの練習など、互いに誘いあって何かと集まっていた。/そうした交流は、西野工場での請負労働者だけにとどまらず、広く地域の他の人々と結びつく可能性さえもつものだった〉(『ノンエリート青年の社会空間』p.252)

 インターネットにできる「コミュニティ」もまさにここでいうコミュニティに勘定してよいものかもしれないのだ。

 農村型コミュニティはかなり単一な姿をしていた。自然村落において神社を中心に「寄り合い」をくり返していたぼくの実家をみればその典型的な姿を見出すことができる。
 都市の場合はそのような姿をしていない。町内会や自治会さえおさえておけば、住民全員が網羅できるわけではないのである。
 雑多で多様なコミュニティが都市のコミュニティの特徴であり、アメーバのようにそれは自在に形を変え、消滅し生成する。特に都市に住む若い人たち、しかも非正規で食っている人たちのコミュニティは実に雑多でとらまえどころがなく、小さく、はかない。『ノンエリート青年の社会空間』の編者である中西はその世界を「『なんとかやってゆく』世界」と命名している。

〈開発主義体制下における社会標準と違い、職の見通しも生活の見通しも立てにくい状況に置かれながら、「なんとかやってゆける」仕方を案出し実行すること——それが、ノンエリート青年層の「漂流」のなかに存在する「戦術」であり、〈社会〉人たることのリアリティなのである〉(前掲書p.11)

 都市型コミュニティの「再生」とは、こうした雑多のものを否定して、たとえば町内会・自治会に「統合」させることではないし、会社や家族に埋め戻すことでもない。
 これらのアモルフな姿のコミュニティの多様さを許容し、それらがどこにあるかを知り、お互いをつなげやすくすることである。必要におうじて支援や情報が届けられることが大事なのだ。そのためにはどんなコミュニティがあるのか、どうなっているのか、という情報が命となる。それこそが都市型コミュニティを考えるさいの政策的課題の要ではないだろうか。

 行政がそれらのコミュニティの代表者を集めて会合を開くべきか? むろんそんなことはできるはずがない。そうした発想を持ち出した時点で吹き出したくなる。これができるのは、町内会・自治会、公的施設関係、行政と密接なつながりがあるNPOだけである。いや、これだけでもかなりカバーされているとは思うけどね。

 だけど、都市の片隅で他の誰にも知らないような形で生まれている小さなコミュニティには、そうした従前のような行政のやり方では絶対にアプローチできない。
 ではどうすればいいか。
 ぼくが思うのは小さいコミュニティの隅々まで出かけて、情報を集め、お互いをつなげたり、必要であれば行政につなげたりするような意識的な存在が必要だということである。これは「スパイ」といってもいいだろう。あるいは「オルグ」かな。

 行政や町内会長・民生委員がカバーできるような範囲はいいんだよ。そいつらにまかせておけばいい。大企業とかで働いているやつもそれでいい。
 そういうところから漏れているような人がいるだろう。
 そういうところにもぐりこむ「スパイ」を行政がつくる。行政が直接やらなくても外郭団体をつくってもいいし、NPOに補助を出してやらせてもいいだろう。そうした「スパイ」がどんなところにどういう人がいるのか、そしてどんな関心をもちどんな生活をしているのかを、まず「知る」のである。
 無理にヨソとつなげたり情報を与えたり支援を与えなくてもいい。まず知る。おしゃべりやイベントに参加して「スパイ」自身がつながってみるのである。孤立している人には、何かをするのではなく、まず話してみること、つながることだ(まあ、情報を蓄積されると嫌がる人も多いので、それは市民が自由に閲覧して自由に情報を削除できるようにすればいいと思うのだが、ここではそれは細かい話だ)。

 行政の支援策はしばしばスベる。かつて政府がつくった「若者自立・挑戦プラン」について〈これらのプランは、公的支援とはほど遠い環境のなかで「なんとかやってゆく」世界を形作ってきた層の実態や現実に届かないものとなっている〉(前掲書p.26)という批判がある。

 都市のアモルフさをつかまえるためには、行政としてまず「知る」ことが基本である。そのための機能を格別に強化しなければならない。コミュニティはすでに存在しているのだ。問題はそれをつなげたりしていく、その前提になる「情報」を得ることに特段の努力を割かねばならない。ぼくは行政による「スパイ」、民主主義的スパイ(笑)を提案する。

 本書『コミュニティを問いなおす』の書評そのものではないが、都市型コミュニティを「再生」させるうえで、地域の単位コミュニティをどう考えるのかはもっと論じてほしいところだった。 





共通善=普遍的価値の創出は机上の空論でなく



 本書『コミュニティを問いなおす』に書かれている個々の論述やデータは参考になること、同意できることは少なくない。
 だけど、明らかにコミュニタリアニズムを意識した枠組み、およびトレンドを必死に取り込もうとする図式主義が、選者たちの〈快刀乱麻〉〈専門領域を自在に移動〉という評価とは逆に、非常に窮屈で縛られた思考をもたらしてしまっているのではないかという印象を、ぼくに与えてしまっているのだ。

 たとえば、コミュニタリアンにとって核心ともいうべきものは、「共通善」をもつかどうか。つまりコミュニティの成員が共通して追求すべき価値というものがあるかどうかということだ。
 この問題について、広井は終章で「地球倫理の可能性」というテーマを設けて詳しく論じている。広井は現代の日本の都市コミュニティでは高度成長の終焉によってそうした「普遍的価値」が失われていると指摘し、いろいろ書いたあげくに、「有限性」と「多様性」が将来「普遍的価値」になるんじゃないかと控えめに書いている。
 よくわからんところもあるんだが、前者はものすごく簡単にいうと「地球環境は有限ですよ」的な倫理であり、後者は「宗教とか人種とか階級とかそういう排除グループをつくらないで尊重し合おう、助け合おうよ」みたいな倫理かなと乱暴に理解。

 だけど、それはちょっとトレンドや自分の理論に合わせすぎた理解じゃないのかね、とあやしい気持ちになってしまうのだ。リベラリストやリバタリアンたちのように「そんなの個々人によって違うから、考えてもイミないよ」というような立場をとるつもりは、ぼくもない。
 ぼくは、リバタリアンたちのいうように、人間には自分の私的な利益を追求しようとする側面は必ずあると思っている。それは必ずしも人間の歴史的(一時的)な側面なんじゃなくて、超歴史的に存在する一面として。
 しかし、同時に社会的動物としての人間は、それを抑制しようとする原理ももっている。それは「誰かのために役立ちたい」ということだろうと思う(市場経済というのは「自己の利益の追求」が「他者の役に立つ」という夢のような状態を実現したはずのものだったが、資本というモーターが加わることで、それはまったく疎外されたもの、もしくはしばしば裏切られるものになってしまっている)。

 手塚治虫という漫画家が戦後日本において大きな人気を獲得してきたが、その根底にある倫理について、漫画編集者である中野晴行は次のようにのべている。

〈戦争で失ったものを取り戻すために、がむしゃらに働き続けた結果が高度経済成長であった。しかし、高度経済成長が生み出した歪みが、公害であり、受験競争であり、仕事漬けの人生だった。戦争で失ったものを取り戻してそれ以上に物質的には豊かになったのに、ちっとも幸せではない。それは、本当の目的を見失っていたからだ。本当の目的とは「生きがい」である。
 物語のラストで、どろろは父親の遺志を継いで農民たちのために戦う決心をする。どろろは、ようやく自分の「生きがい」を得たのである。「生きがい」とは結局誰か他者のために役立つことである〉(『そうだったのか手塚治虫 天才が見抜いていた日本人の本質』p.136)

 たとえばこの「誰か他者のために役立つ」ということは、日本社会において「共通善」たりえないだろうか。環境のことなんか気にかけもしない、ウチの親たちだって「誰か他者のために役立つ」の大事さは必ず口にする。
 コミュニタリアンたちが、共通善の議論をする際にアリストテレスを持ち出すが、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で強調したのは「友愛」(!)であったことと近いかもしれない。

 まあ、別にいまここで「共通善が『誰か他者のために役立つ』である」と声高に主張するつもりはない。話を元に戻すと、広井は「地球倫理」だのなんだのという前に、つまり自分の図式に現実をあてはめる前に、現実にあるコミュニティのなかに実際に内在している(あるいは芽生えている)普遍的価値についてもっとよく耳を傾け、自由にそれを記述してもいいのではないか、とぼくは思うということなのだ。マルクス主義者であるぼくは、「現実のなかに生まれている未来社会の萌芽をよく見ろ。一切の図式を排せ」ということを言いたい。




余談。東浩紀「民主主義2.0」批判



 余談。
 「オルタ」誌最新号で書いたのは東浩紀の提唱する「民主主義2.0」への批判である。ツイッターとかSNSとかを知らない人に東の構想をていねいに解説したためにちょっと字数が足らなくなってしまったのだが、ベースは以前に書いたことである。
 東は、地方議員の機能を、純粋な「政策製作」ということだけで考えている。そしてもう一つは、「生徒会役員みたいに熱心さがないと政治に参加できないというシステムが嫌い。好きなことだけしていると自動的に参加しちゃってることになれるような『動物的』システムがねーかな」というのが発想の根本にあるということだ。
 だが、コミュニティの代表者として登場する議員たちは、自分を支援してくれる人たちの言葉だけでなく、声には出せない生活や仕事の有様、果ては顔色や気分、空気までを読み込んで自分の振る舞いを決める。
 東の構想にはそのようなものを折り込む具体策が提示されていない。それゆえに、彼の構想では、オタク的道具理性が支配するものになってしまうと批判せざるをえなかった。





『コミュニティを問いなおす——つながり・都市・日本社会の未来』
広井良典 ちくま新書800
2010.2.7感想記
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