いくえみ綾『カズン』



※2巻の短評はこちら。つうか、2巻では評価をまったく改めたよ!


 ふるい世代が「若者」を描こうとすることの難しさについて以前ぼくは書いた。ただ若い人が出てくるという話ではなく、「若者」というカテゴライズをしてつくった話の場合のことだ。そのカテゴライズを頭のなかでした瞬間にたちまち難しさが生じる。
 すなわち外側から「若者」像をかぶせてしまうという困難が。

 「フリーター」という視線の送り方は、この困難を身にまといやすい。

 さらに「脱出」の対象として「フリーター」をとらえようとすると、その困難はいっそう深刻なものとなる。

 いくえみ綾『カズン』は、女性のフリーターへの「応援歌」といえる内容だし、ぼくもそう読んだ。しかし、他方で、いくえみという作家が外側から「フリーター」像をかぶせてしまうという危険スレスレのところにあるというのもまた事実だろうと思う。

 主人公の「ぼん」こと白河つぼみが、女子高を卒業するシーンから物語は始まる。
 容姿は「ぽっちゃり色白で背が小さくて」、というのは裏返せば「チビ」で「デブ」になる寸前だということになる。「人あたりいーから誰にでも好かれてた」(同級生)といわれるが、大人しく引っ込み思案だということの言い換えのようにも聞こえる。
 卒業しても正社員としての就職先はなく、レンタルビデオ屋のアルバイトとして働きはじめる。典型的なフリーターだ。

 ぼんは、その自分の現状を、卒業する自分に対する言葉としてこう述べている。

「バイバイ
 かわり映えのしなかった
 学生のあたし」

 消極的でフリーターになっている自分を「なんかやばい?」と規定し、「変わりたい」と念じている。これがいくえみが設定した「ぼん」という人間である。
 作者は「白河野仁(ノニ)」という、ぼんと同い年の美人タレントを配置した。それはぼんのイトコ(カズン)なのだ。スタイルがよく人生の頂点に立っているかのようにみえるイトコと、その対極にあるパッとしない人生をおくっているぼんとを、まずいくえみは強烈なコントラストで描く。「芸能界デビュー」としてノニを大きく描き、「フリーターデビュー」としてぼんを大きく描く。この対比はまことに残酷で、フリーターであるぼんは、伏し目がちに、さえない顔つきと容姿で大書されている。そこにはいくえみのフリーターイメージがはっきりと投影されている。

 「自己肯定感がない」は今の「若者」をとらえるさいのひとつのキーワードとされる。
 いくえみは、これを「自己否定感」として読み替え、「かわり映えのしなかったあたし」を一つひとつ乗り越えていく物語に仕立て上げようとしている。

 たとえば、ぼんにとっては、キレイになるために化粧をすること自体が初挑戦だ。ガラはちょっと悪いが実は親切な友だちに教えてもらってメイクをしてみる。
 しかし、いきなりうまくいくはずもない。
 余談だが、ぼくが大学時代から知っているある女性がいまでは自然で綺麗なメイクをしているが、大学時代の最初の頃は「いなかっぺ大将」のように頬が真っ赤だったのを覚えている(つれあいのことではない。念のため)。
 はじめは誰でもそうである。
 だが、そんな自分の心のなかでふみだした大きな一歩など他人にとっては知ったことではない。高校を卒業してキレイになった友人に「なんの冗談かと思ったもん そのマスカラ」と、さくっと傷つけられてしまう。

 ぼんは、その淵から立ち直ろうとし、それが否定したい自分、変わろうとする自分をもつ人々への「応援歌」となる。

 このように、この物語は「変化」を前面にだし、そこには「否定したい自分」がいる。「自信のない自分 あきらめる自分 人を羨む自分 羨む気持ちすらない自分 進まない自分」――いくえみは第10エピソードのトビラにこう書きつけている。

 ぼくは、ぼんの健気さにひかれながらも、一面でこの自己否定感を強調する描き方に違和感を覚える。「それはやはり外側から『若者』像をかぶせてはいないだろうか」と。
 人間が変化するとき、自己否定感をバネにすることはあるだろうか、という疑問だ。
 あるかもしれない。
 しかし、それは内側に湧いてくる、強烈なエネルギーとはやはり別のものではないかと思うのだ。

 同じ「フリーター」や「若者」を描いた作品を少し考えてみたい。

 たとえば、『赤灯えれじい』(きらたかし)はどうか。
 この作品もやはりヘタレな主人公が自分を変えて自立をしていくが、その軸には強烈な「恋愛」がある。「チーコとつりあう男になりたいんや」とは、なんとまあみっともない自己変革の動機ではないか。しかし、そこには猥雑さにまみれた、変化のエネルギーがある。内側から迸る勢いがある。きれいごとでもなんでもない、ゲロと涙と汗にまみれた、ドロドロヨロヨレの青春のなかでは、「自己否定」がまずあるのではなく、衝きあげられほとばしる内側からのエネルギーがまず存在するのだと『赤灯えれじい』を読んで思う。『カズン』は衛生化されすぎている。

 あるいは『ジェリービーンズ』(安野モヨコ)はどうか。
 服飾のデザイナーとして成長していく主人公・マメのパッションは、やはり内側からほとばしるものだ。まわりの声がきこえなくなるほどのものに打ち込むものを見つけることでマメは成長していく。

 ぼくは、いくえみのこの描き方が何から何まで「まちがっている」とは決して思わない。さっきものべたように、主人公のぼんが、自分を変えようと足を必死で踏み出す姿にはやはり心うたれる。
 しかし、自己否定感を物語の出発点においてしまったことによって(そして随所でそのメッセージがくり返されることによって)、やはりそれはいくえみが外側から「フリーター」をみているような気がしてならないのだ。「なんかやばい?」という問いかけは、ぼんの叫びというより、いくえみのつぶやきのように聞こえる。いくえみは、「フリーター」にたいし、応援歌ではなく、いらだちをもっているのではないかとさえ思えてきてしまう。

 若い左翼でフリーターをしているやつらと話してみる。派遣でホテルの準備の重労働をやっている男性や、同じく派遣で交通整理をしている女性(赤灯えれじいだ!)。みんなキツそうだが、必死だ。労働条件に大いに不平を鳴らしながらも、必死で生きている。そこにぼくは自己否定を感じなかった。


 自己肯定感がもてない、ということと、自己否定感がつよいことは同義ではない。根拠をもてることで自己肯定はおこなわれるだろうが、その足がかりさえない人は、自己否定すらしえないだろう。また、抽象的に自己否定をすることで自己肯定ができるわけではない。具体的な根拠や足がかりを得られないということでは同じだからだ。

 この物語はまだはじまったばかりである。
 だから、どちらに転ぶのかは、2巻以降にかかっている。



カズン 1 (1)
カズン 1 (1)


『カズン cousin』
祥伝社 1巻(以後続刊)
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