ロンゴス『ダフニスとクロエー


 つれあいが静岡県に住んでいたころ、よく近くの湧水公園に出かけた。
 あるとき、学校帰りとわかる高校生のカップルがいて、
 それでもう、ぼくは萌えてしまった。
 いや、そこにいた女の子がかわいかったとかそういう話ではない。
 〈初々しいカップル〉に萌えたのだ。

 派手でも地味でもなく、見た目、まったくフツーのカップル。2人とも、そうだなあ、進学校で書道部、とかそんな雰囲気。
 ベタベタしてなくて、ちょっとお互いに距離をおいて歩いている。聞こえないけど、会話もときどき。かといってぎこちなさすぎというわけでもない。
 清純異性交遊とか、そういう形容状態。
 あまりにぼくが萌えていたので、横にいたつれあいが、半ばあきれていた。

 そのときのぼくの感情のたかぶりというのは、鴨居まさね『雲の上のキスケさん』に、「あいつら、まだやってないことがたくさんあるんだろうなあ」といって倦怠期にはいったカップルが他のカップルをうらやましがるシーンがあるけど、そういうものではない、はず。だと思うけど。自信ないが。
 倦怠感から眺めるというより、老人が若さをうらやむ、という感情のほうに似ている。

 もう二度ととりもどせない瞬間への後ろ向きな欲望。

 『ダフニスとクロエー』を手にとって読み始めたのも、そういうせんのない感情を脳内につくりだし、それを舐め回したい、というどうしようもない理由によるものだ。

 もともと、このタイトルは、ラヴェルのバレエ組曲として最初に知ったのだが、話の内容までは知らなかった。ハープやフルートが活躍する第二組曲のほうしかしらないので、なんとなしに、この話が牧歌的な空気のなかでの物語なんだろうな、とは予想していたが。
 つづいて、ミレーの絵によってイメージを植え付けられる。
 半裸の2人の男女が、無邪気に小鳥にエサをやっている場面だ。
 しかし、これでは、ようわからんかった。

 紀伊国屋で平積みしてあった、同文庫の表紙の紹介文をみて、あっと思った。
「エーゲ海に浮かぶ美しい島レスボスの自然に囲まれて育った山羊飼いの少年ダフニスと羊飼いの少女クロエー。春の田園に芽ばえた幼い恋は、やがて二人をはぐくむ自然と季節とともに移りゆくにつれ、しだいに成熟した愛へと深まっていく」

 そして、紹介文の上に、ボナールの挿し絵。
 ダフニスとクロエーが、抱き合ってキスをしているが、まことに初々しく、かつ、牧歌的な空気がにじみ出ている。

 もうだめ。
 こんな話だったのか。
 不健全といわれようがなんであろうが、一見すなわちレジへ向かい、猛烈なスピードで読んだ。

 読み終えて、残念でならないのは、ラスト、巻四である。
 ぼくは、なぜこのラスト付近で、ぼくの〈萌え〉が萎えていったのか、考えてみた。
 それは、この巻(章)では、ディオニューソファネースという、ダフニスらが住む村一体を所有する大富豪が出てきて、主人と奴隷という関係、そこでの恩寵や慈悲という問題がとたんに入り込んでくるからだ。
 ラヴェルの牧歌的な組曲にイメージを刺激されていたぼくは、この話が、いわば楽園的、桃源郷的な島の物語だとばかり考えていた。むろん冒頭から、身分差や戦争などがある話であることはなんとなしには感じ取れるのであるが、はっきりとそのことが前面にでてくるのは、ラストの巻四なのである。

 ぼくが読みたかったのは、つまらないといわれても、〈楽園〉での話なのであった。榛野なな恵の『ピエタ』のように、あるいは、あずまきよひこ『よつばと!』のように、ほんのわずかな生産と労働だけで社会が支えられ、あとは、えんえんと楽しいことがおこりつづけるという牧歌的環境のなかで、いわば、まるで夢のような社会状態のなかでの、話だったのだ。

 楽園のなかでエンドレスでくり返される、欲望の高揚。

 またしても〈甘い世界〉だ。

 とくに、ミレーが描いたダフニスとクロエーの絵(「春」)が後からダブってきて、この小説が楽園のまっただなかにある、という先入観が強かったので、いっそうその期待は高まった。
 いや実際、この小説は、田園詩そのもののような牧歌的空気のなかにあるのだ。
 とちゅうでおこる、「戦争」や「略奪」でさえ、それは、楽園に、外からおしよせたひとつの「イヴェント」のようにさえみえる。『よつばと!』のなかでおきる〈事件〉と、なんら選ぶところがない。

 ところが、巻四にきて、ディオニューソファネースだよ。
 この小説世界が、桃源郷なのではなく、総体的奴隷制のもとでの苛酷な搾取関係のもとにおかれている世界であることがわかってしまう。庭の花の手入れひとつで、主人の気紛れひとつで、自分の運命は決まってしまうのだ。

 だめだ、こんなんじゃ。

 ぼくだったら、巻四ははずす。
 そして、最初から最後まで、厳しい労働は何一ついらない超楽園という設定に変更してしまう。
 ダフニスとクロエーの造形も、ついでにいじらせてもらえば、美少年ダフニスは、志村貴子の『放浪息子』の主人公・二鳥修一のように、多感で気弱で自省的な少年にしてしまう。
 着飾った姿が「いかなる美女もおよばぬほどの艶麗な」クロエーは、やはり志村の『敷居の住人』のキクチナナコにやってもらいたい。
 「あの……ぼく……」とかいって、じれったくはにかんでいるダフニス。
 クロエーも「ダフちゃん、こわい話しよ」とか。

 でもやっぱりだめだよな。こいつら、リアリズムの世界の主人公たちだもん。
 あてつけかなんかでホテルにいって、破瓜の痛みに耐えきれぬクロエーが大騒動のすえ、ケンカして帰る、みたいなオチになっちゃうんだよ。たぶん。うん。ぶちこわし。



ロンゴス『ダフニスとクロエー』
岩波文庫 松平千秋訳
2004.3.19記
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