黒田硫黄『大日本天狗党絵詞』


 「ハウルの動く城」は未だ見る機会を得ない。
 得ないのであるが、先行して新聞で映画評を見てしまった。

 「赤旗」(2004年12月17日付)に載ったササキバラ・ゴウの映画評は、この映画の「わかりにくさ」について論じ、そのうちの一つに、宮崎駿の寓意にみちた作風をとりあげた。いわく、

「『千と千尋の神隠し』では、物語の寓意を生かすために、キャラクターや設定などの意味はきちんと説明されなかった。説明という一義的な決めつけがないからこそ、多様な寓意を読みとることが可能なのだ。そして今回の『ハウルの動く城』も寓意をふんだんに盛り込んでおり、下手な解説がない分、豊かな奥行きを持つ作品に仕上がっている」

 ファンタジーは、日常の凝り固まった思考から、ぼくらを解放する。
 しかし、それは必ずしも歴史や社会のもつ意味づけを捨てるということではない
 たとえば、宮崎駿は「千と千尋の神隠し」をつくり、日常からぼくらの精神を解放するけども、連れていかれる虚構世界は、きわめて強烈な歴史と社会に根を持った寓意に満ちあふれている。
 このような作風は、まさに宮崎の個性によって生じきたったものである。
 「マルクス主義を捨てた」という宮崎ではあるが、「近代の批判的継承」からすでに反近代の色彩を強く帯びている彼の創作態度は、あらゆる道具だてを使って、近代を、あるいはそれを準備した中世をさえ懲らしめようとする。
 「カオナシ」という、はじめは気の弱い存在が、やがて何かに気にいられたいという欲望を満たすために貨幣をあやつり、あらゆる物質的生産を浪費して肥大化し排泄していく様は、近代への寓意でなくてなんであろうか。「もののけ姫」では「寓意」ではないが、映画全体がまるで宮崎駿の論文であるかのように、登場キャラにしっかりとした役回りが与えられている。たとえば、「エボシ御前」は、女性であり障害者をも社会の中に位置付ける、おそらく最も聡明な人間社会の指導者として描き、その指導者でさえ、原初的な自然とは厳しく対立するのだ、という役回りを演じさせる。

 宮崎にしてこれである。
 ましてや、それ以外の作家は、どんなに抽象化をしようとも、いまぼくらが暮らしている社会、そして持っている歴史の意味づけからは逃れようもない。

 たとえば、うすね正俊『砂ぼうず』や荒川弘『鋼の錬金術師』にしても、国家と個人が語られ、理想主義と現実主義が語られ、個人のトラウマが語られる。日常の社会や歴史がもっている固定観念を、いったんバラバラにしてはみるが、その概念に附随している「意味」だとか、あるいは作者の思い入れのようなものはしっかりと残り、作品は日常とはちがった組み換えをしているだけにすぎない。

 これは必ずしも悪罵ではない。
 虚構は現実になんらかの根拠を持つ以上、逃れられないのは当たり前のことであり、また無理に逃れてどうなるというものでもない。思う存分に現実との連関を語ればいいと思う。

 しかし、黒田硫黄は違う。

 たとえば、天狗が日本をのっとって、天狗の国を興し、それが瓦解するまでを荒唐無稽に描いたこの物語――『大日本天狗党絵詞』をみるがいい。その不思議さは、ものすごい引力に耐えながら、なおかつ軽々と飛翔しているというところにある。

 たとえば、「天狗」という存在の民俗学的な意味合いを、ぼくらはどうしても言及したくなる。
 あるいは、うつろな「党」と「理念」と「運動」について訴えたくなる。
 または、幼女を誘拐したり、身内の女性に性的なまなざしをおくるという「欲望」について考えたくなる。
 はてまたは、裏切ったりのしあがったりする「組織」について話したくなる。

 黒田が使った素材は、不用意に説明をほどこしたくなるような、非常に強力な吸引力をもったものばかりである。
 たとえば、主要登場人物の一人である高間教授は、わざわざトロツキーそっくりに描かれており、しかもその役回りは、「天狗党」を外側から「邪眼」として監視しつづけ、「天狗党」に命を狙われつづけるという、まさにトロツキーそのものである。
 あるいは、世界の征服を宣言する天狗の首魁たる善界坊=Z氏は、ナポレオン似である。
 これだけでもぼくらは、何か意味をつけて語りたくなってしまう魅力にとりつかれる。

 あるいは「天狗」である。
 「我々は偉いのだ この国を支配するのは我々だ」と、堕落した天狗の理念を語る天狗党に対して、裏切り者として扱われている天狗の一人がこう叫ぶ。
「やめろこんな茶番 天狗とは三界に家なく自在に飛行するものだ 人で合った居所から去った者の名だ 人の世より見るときは天狗とはいなくなった者なのだ 人の世に国をつくったら我々は天狗ではなくなってしまう いないはずのものが居場所をつくるなんてナンセンス」

 ああ、なんだかこうしたセリフにさまざまな民俗学的、あるいは社会学的な解釈をほどこしたくなるではないか。「ユリイカ 詩と批評」2003年8月号の黒田硫黄特集に載った批評も、このような欲望に抗えずに、黒田の「天狗」や「天狗党」を語る言説が散見される。


 しかし。

 しかし、それにもかかわらず、黒田の『大日本天狗党絵詞』は、寓意からほぼ完全に解放されている。


 寓意、あるいは、歴史や社会が与える意味づけに塗れた題材をふんだんにもりこみ、その複雑な「意味」の山峡の間を、その障害物スレスレに、黒田は飛んでみせる。決して衝突することはない。黒田の作品に随行して飛行した文化人たちは次々とそのような「意味」の障害物に衝突していくのであるが。

 すなわち、黒田の『天狗』は、歴史や社会や思想が用意した数多くの寓意にとりまかれ、その素材を十分に使いながら、そのどれにも吸い寄せられていない、自由な物語として、ある。

 すでにのべたことであるが、黒田は、この「ユリイカ」の座談会において、「現象があって、それを見るときに、その背負っている意味とかをどんどん捨てていくと、すごく即物的に物が裸になっていくところがいいんです」「架空の戦記物などはもっと即物的なレベルで考えたら面白くなるのにといつも思う。ミリタリーマニアが好きなドイツのとかばかり読んだり描いたりしているのは、地に足が着いていない感じがするので、そういうのでないものを描きたいというのがあるんです」とのべている。

 座談会で黒田は、台湾映画の舞台になった街を訪ねるという自分の体験のくだりや、花輪和一の漫画におけるモデルガンと本物の銃の描写の差について、実に饒舌に喋りつづける。彼の料理(自炊というべきか)への執心も同じ文脈のうちにある。

 このように、黒田は、物語における「意味」を剥ぎに剥いでいった、丸裸になった対象というものを素材にする。そうすると、その物語や事物、関係、事件がもっている「おもしろさの構造・内在的論理」ともいうものが顔を出す。黒田が扱っている事件や物語、人物の行動などは、ひどく具体的なのに、黒田は、その外見的な具体性を素通りして、そのなかにある、いってみれば非常に抽象的な、「おもしろさ」のコアにのみ迫る

 さっきあげた例でいけば、「党」における空疎な理念をふりまわす指導者と、それに違和感を覚える一部の活動家、そして外側からそれを監視しつづけるトロツキー的存在、という「外観」はあるのだが、黒田はそういう関係がもっている歴史的な寓意などはうっちゃっておいて、「彼(黒田)の心を捕らえているのはむしろ…少数派がパルタイを築きあげようとするときに必然的に抱えこんでしまう政治であるように思われる」(四方田犬彦)というところまで突き抜けてしまう。
 いま四方田の言説を引用したが、これでさえ、まだかなり具象の衣をまとっている。
 さらにその奥にある、抽象化された、言葉には還元できないようなおもしろさにむかって黒田は対象にまとわりついた「意味」を剥がして捨てていく。

 だからこそ、多くの人が、黒田の作品を語る言葉がないことに当惑するのだ。
 そこに確かに心躍るものはあるのだけれど、言葉にはならない。
 黒田の一つの作品は、このような具体的歴史的な素材を使いながらその意味をそぎ落としていった抽象、その無秩序な連合体にすぎない。そうやって「丸裸にした即物的な物」を、黒田の主観のおもむくままに、できるだけ荒唐無稽に組み合わせていくのが、黒田のたくまざる方法論であろう。
 だから、ぼくは、黒田のある作品にたいし、たとえば「ひとつの全体のもの」として意味を求めることは、それこそ無意味な営為だと思う。

 したがって「天狗」がどうの、「党」がどうの、ということにもまた、黒田作品の批評の場合は意味がないと考える。
 ひるがえって考えれば、『大日本天狗党絵詞』と『茄子』という一見まるでちがうような題材を、黒田があっさりと行き来できるのは、外観の「意味」に何もこだわらずに、事物の内側にあるものの抽象的な面白さだけを観察しているからであろう。すばらしい、ぞくぞくするようなセリフとセリフ運びを黒田がモノにしているのも、同じ方法によるものだと思う。
 天狗が生成することへの黒田の興味と、女子高生が男子校の屋上で茄子をもらっていくということへの興味はまるで等価におかれている。

 「ユリイカ」の黒田特集に登場する識者の声は、相矛盾するものの集積体である。
 ある人は、まったく感情移入できないといい、またある人はつい感情移入してしまったという。
 別の人は、黒田の描く女の子がエロいといい、また別の人は、性愛の欠如が『天狗党』の特徴だという。
 それは、論者が自分で、「意味」の引力に吸い寄せられてしまったせいである。
 だからこそ、おのおのちがう、自分の趣味嗜好に合ったぶつかりかたをしているのである。

 七尾藍佳が「作者は場面を空中に放り投げ、無造作に扱うようにみえてその実、一切の無駄を排した、江戸俳諧で言えば粋、クールな美を生み出している」「突き放したクールな姿勢」と論評している箇所は、外側の意味にこだわらず、黒田の内的な方法をよくみていると思う。
 七尾は、黒田の描く女性が妙にクールなダンディズムをかかえていることに違和感をおぼえ、「もっと遊んで、キレたり怒鳴ったり、もう二度と思い出したくなくなるようなバカな恋愛を何度だってすればいいのに」と不満をもらす。
 社会や歴史上の「意味」ばかりでなく、個人のトラウマなどにもかかずりあわない黒田的態度は、まさにこのような感情をも素通りしていってしまう。
 越川道夫がそこでのべているように、「象とかなしみは何の関係もありません」ということなのである。すなわち、黒田的造形は「意味」や感情をよせつけないがゆえに、客観物がもっている強引さ、圧倒的な力によって、そういう読者の期待を残酷に裏切る。「黒田硫黄のマンガが優れているのは、『大日本天狗党絵詞』の例をみるまでもなく、人間の勝手な心象の仮託を最後の最後にひっくり返してしまうところにあるだろう」。


 黒田の斬新さは「構図」や「パース」などにはない。
 むしろ、黒田が、事物の意味を剥ぎ取って、即物的な態度に極限まで徹していること、それによって、黒田がまったく新しい「物語」を提示していることにこそ、黒田の新しさがあるのだと考える。




『大日本天狗党絵詞』 講談社アフタヌーンKC(全4巻)
参考:「ユリイカ 詩と批評」2003年8月号、青土社
参考:「クイック・ジャパン」vol.42、太田出版
2004.12.19感想記
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