海野つなみ『デイジー・ラック』


デイジー・ラック 1 (1)

 なぜかセックスの描写に目がいく。

 いや、そういう話じゃありませんが。

 30才になった、ならんとしている幼馴染みの女4人があつまって、月イチの会「ひなぎく会」をつくっている。その4人の一人ひとりの結婚やら仕事やら恋愛やらを集めたオムニバスで、ある意味で20代後半から30代前半の「もっとも正統な」女性漫画。
 実は、女4人ではなく男2人女2人にかえると、ぼくと非常に似たシチュエーションになり、しかも参加している女性がつけたネーミングも「盆暮会」(以前は盆と暮れにのみ会っていたから)ときていたから、自分の境遇との相似をどうしても考える。

 ただし、漫画作品としては、たとえば同じ世代を描く鴨居まさねのような鋭さやユニークさがなく、よくいえば典型的、わるくいえば平凡な話。ディープな漫画読みとか、漫画にドラマを期待するようなむきには、ちとつらいだろうと思う。

 20代後半から30代前半の「生き方」に関心や迷いがある人が、同世代のおしゃべりの相手のようにしてこの漫画に触れるのが正解。

 たとえば、うちのつれあいは、登場人物のひとり、ミチルの話に関心をいだく。

 ミチルは大学のときからオーダーメイドでバッグをつくっていて、卒業後もそれで食っている。「へえ、すごいじゃない」と思わず声をかけてみたくなる。もしミチルがファミレスでぼくの前にすわっていたなら、そんなふうに言ったかも。
 いわば腕一本で自分の生計を立てているわけで、それがオーダーメイドのバッグというのだから、なかなかすごいもんじゃないのと思うダロ。やっぱり。

 そのミチルについて、ぼくもつれあいも関心をもって読んだのは、「自由業の仕事の涸れていき方」である。
 はじめはマンションを買うような勢いだったのに、気づくと仕事がぽつぽつと少なくなってきていて、よくよく計算してみるとミチルの今年の年収はたったの120万円(フリーターの平均年収以下だ)。
 得意先もまわってみるが、どうもタイミングが悪く仕事がない。

「仕事のない日々は続く
 空白が怖い……
 自由業の最大の利点であり弱点
 忙しいときは もう
 嫌になるくらい忙しいのに
 突然 先がみえなくなる」

 ミチルはひざ小僧を抱えながら、ひとり落ち込む。

「このまま仕事がなくなったらどうしよう
 就職活動もしたことないのに
 今さら 別の仕事ができるのだろうか
 うう…… もう30なのに……

 ――30
 これがハタチなら……
 いや24ぐらいまでだったら
 もっと身軽だったのに

 もしかしてこれが
 転機ってやつだろうか?」

 ぼくには自由業の怖さはわからなくても、年齢から生じ来たる不安や焦躁はわかる。
 そして、ミチルは、これまで革の縫製などを注文する形で仕事を出していた双子の老人(鶴雄と亀雄)に「ミチルちゃん 暇ならうちに仕事を習いにこんか?」と逆に誘われる。そして、革の鞄づくりをこの老兄弟から習うときに、やはりこの鞄づくりの楽しさを再確認する。

「ああ わたし この仕事が好きだ
 心の底から そう思えるのが うれしい」

 ぼくが海野のこの一連の話を心地よく、しかもとても健全だと感じることのひとつは、登場人物が困ったり弱ったりしたときに、助けてくれたり、依存したりできる人がちゃんと書き込まれていることだ。オトナの責任はあるけども、目のつりあがった「自己責任」の強調、「ひとりで生きる強さ」ではなく、自然な依存や助け合いが気持ちよく描かれる。

 ミチルの話のまえに、宝石店店員からパン職人としての転身をとげる楓の話が出てくる。こちらは、ちょっと「いい子」すぎるなあと感じる。
 つれあいは、パン職人というテーマならもっと面白くエピソードもいじれるはずだと「仕事」にかんする部分に目を光らせていたのだが、ぼくは、「恋愛」のほうに目がいってしまった。
 途中から店にやってくる安芸という腕のよいパン職人に楓が恋心を抱き、仕事で認められることと恋を成就させるということを重ねて考えていくという展開に、たしかにありがちなことだが、あまりに「ありえてむべなるかな」という話の運びに、少々退屈なものを感じた。
 ただし、「仕事のできる私になってあの人にも認められたい」という心のうごきは、よくみかけることであるだけに、興味深い話題ではある。

 ぼくは、この重ね方は危険じゃないのか、と思う。

 恋愛と仕事は別のものだ、というごく単純な真実ゆえに。
 そういうときは、結婚して仕事をやめて家庭に入ったり、どちらかが仕事の内容・部署が大きくかわったりすると、根拠が消えてしまったりすることがある。そして、仕事のよくできる新たな同僚ができると、かんたんによろめいてしまうのではないかなあと。いや、そんなことを心配するのは、大きなお世話か。



 さて、冒頭にセックスのことを書いたけど、実はぼくがこの作品で好んで何度も見返しているのは、実はセックスとそのあとの描写なのである。ページにしてわずか6ページ、セックス自体の描写はわずか3コマしかない。

 別に、「すごい過激」とか、そういう話じゃない。

 おそらく、手にとってみれば(゚Д゚)ハア? ってなしろもんだとは思う。
 端的にいってしまうとセックスのシーンは、キスをしているコマ、耳元で名前をよんでいるコマ、笑って抱いているコマ、ただそれだけである。
 うーん、自分でもわからんのだけど、すごく幸せそうにみえるのだ。そのセックスが。

 セックスのさいに笑う、というのは、考えてみればいろんな漫画表現にあるような気もするんだけど、それでもなんだか久々に見たような気がした。

 そのあとのピロートークの様子も、つきあい始めた初期の緊張感が少しあるが、なんだかこれも幸せそうなのである。
 セックスのあと、男の側(大和)が世間話をしながら、お茶をいれる。

「あのあとに
 ブランデー入りの紅茶を
 いれてくれる

 今までこんな人
 いたかしら」

とは、女の側(薫)のモノローグである。
 こんな様子も幸せそうに思える。今度から紅茶いれてみよう……。


 実は『デイジー・ラック』とあわせて買ってきたのが、別天荒人・外薗昌也『ガールフレンド』の2巻(1巻はどこの本屋でも品切れ。つうか「どこの本屋」にも探しに行くほうもどうかと)で、そこではこれでもかとばかりに毎回ちがった男子高校生と女子高校生のセックスや性行動が描かれるのであるが、やはりヤンジャンの人気短編作品らしく視点がしっかりと男子中高生(中高年?)なのである。
 えーと、『センチメントの季節』を『BOYS BE…』で味付けしたっつうか。

 「性的恍惚のために歪む顔」というのがこの世界ではポイントとなる。

 『ガールフレンド』においては、セックスしている最中だけでなく、たとえば女の子が「恥ずかしそうにカーテンを閉める」というときの描写でさえ、その女の子はすでに「性的恍惚のために歪む顔」に酷似している。カーテンを閉める、服を脱ぐ、というときの羞恥は、リアルに考えてみればこんな表情をしていないだろう。もっと事務的で「あせっあせっ」というような顔をしているんじゃなかろうか。

 知り合いのブログによれば、明石家さんまが「笑いながらセックスするとはナニゴト」と某所で言っていたそうであるが、ある種のオトコにとってはやはりセックスとは攻撃的なものであるし、相手から「性的快感による苦悶の表情」を引き出す行為だということになる。そして、男性の漫画はそのことに御執心だ。そこでは、男も女も、セックスの最中は性的快楽を貪るだけの動物になっているものとして描かれる。

 「セックスのなかに笑いがある」というセックスの描写だけで、すでにこうしたセックス観からは距離がある。男性のぼくからみれば、ただそれだけで、セックスの自由さを感じる。

 30代の人間であるぼくは、セックスのことであれば、攻撃的でない、相互に交歓的である、というもの「も」見聞きしたいと思うし、仕事や恋愛のことでもそこに生じる細やかな悩みや逡巡を漫画のなかに見てみたいと思っている。

 ところが、そうした表現は男性漫画(いわゆる青年漫画)にはなかなかない。
 「荒唐無稽」なホラ話のような政治や経済の話、あるいはキッたハッたの第一線のビジネスの話がやけに目につく。30代が仕事についたときに自分のなかでうまれる小さな悩みや逡巡、喜びにはなかなか目を向けてくれない
 だから、ぼくのような男は畢竟、「女性漫画」へとむかう。

 『デイジー・ラック』にあるように、自分の能力が評価されて大きな仕事をまかされたとき、うれしさのあまりランチでシャンパンを頼んでしまい、見ず知らずの同席の人にそのうれしさをしゃべってしまう(たとえ引かれても)――そういう「小さな」うれしさや感情の細やかさが「男性漫画」には出てこない。
 だから、ぼくは、あまり「青年漫画」を読まずに、きょうも「女性漫画」を買い続けるのである。



※『回転銀河』の感想はこちら

講談社コミックスキス(全2巻)
2005.4.17感想記
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