小田扉『団地ともお』1巻


 『おもひでぽろぽろ』(岡本螢/刀根夕子)はレトロと懐古趣味の作品だ、という評。
 この評にたいして、関川夏央は、つぎのように批判をくわえた。(※1)

「わたしは、この作品はいわゆる『レトロ』ではないと思う」

「これは正統な少年(女)文学だという印象を受けた。より正確には少年(女)『画』文芸である。『レトロ』ということばには手垢がつきすぎて、昨今ではあたかも〈「あ、それ知っている」コンクール〉の略称のようだ。世に蔓延する退行症の別名といった方がいいか」

「このマンガ作品『おもひでぽろぽろ』は少年期の独特の感性のさまざまな側面を描くことで、一九六〇年代すなわち戦後史のもっとも核心をなす部分に形成されて現在に引き継がれている精神の原型と原風景を描くことに成功している、よってこの作品には普遍性があるといいたいのである」

 今は失われた古き時代の瑣末をとりあげているのではない、そこに今に通じる戦後精神の普遍的なものがあるのだ、という主張、特殊は普遍であるという関川の主張は、小田扉『団地ともお』にたいする雁屋哲のつぎのコメントに似ている(※2)。

「ここに昔の私がいた。私の子供たちもいる。読んだ後の心の明るさ。漫画はこうでなきゃ」

 『団地ともお』は、4人家族で団地第29棟に住む男子小学生であり、勉強がまったくできず、馬鹿なことばかりをしでかしているその日常を、1話完結形式で描く。
 その団地の風景、そこでしでかすともおの馬鹿さ加減、あるいはほのぼのさは、雁屋の幼少期にも、そして今の子どもたちにも通底する普遍をもっている、と雁屋は主張するのだ。


 だが、雁屋は決定的にまちがっている

 『団地ともお』はたしかにレトロ=失われた時代の断片や瑣末ではない。
 しかし、そもそも、『団地ともお』は現実世界のリアルとは断絶された、堂々たるファンタジーである
 『団地ともお』は、『おもひでぽろぽろ』的な前提、あるいはレトロを展開する前提――どちらも現実(・歴史)を前提としてしている(断片的瑣末にとどまるか普遍にまで広がっているのかの違い)――を採用しない。『団地ともお』は、この種の狭い意味での「リアル」とはまったく違う世界として設定されている。
 『団地ともお』のアマゾンのカスタマーズレビューで、「レトロではなくファンタジー」だとのべているコメントがあったが、問題の核心をついている。


 『おもひでぽろぽろ』のなかのあるエピソード――男の子と女の子が、恋という感情さえしらずに交わす会話の苦さ――を紹介した関川は、それをなつかしいという感情で振り返ることを拒否する。「これらのくだりには思いあたるところがある。自分もむかし似たことを感じた。あるいはおなじ体験をしたからなつかしいとはいわない。それなりに苦労と波乱に富んだ子供時代は、決して牧歌的でも楽ちんでもなかった、と当たり前の記憶につきあたるのである」。

 ところが、『団地ともお』では、この「苦労と波乱」も、「牧歌的でも楽ちんでもなかった」状態も、ない。勉強ができず、苦労ばかりしているともおの姿は、たとえば、バカボンパパが作品のなかでしている「苦労」に似ていて、『おもひでぽろぽろ』の主人公が味わった真の少女期の苦さ――苦労とは似ても似つかぬものである。


 『団地ともお』の世界では、笑いはもちろん、ヒューマンなシーンでさえ、子どものリアリズムとは無縁である。それは大人がかぶせたファンタジーであることを、くり返し証明している。

 ともおがカナブンの脚に糸をつけて振り回す遊びをはやらせる話がある。
 振り回すうちにカナブンの脚がもげてしまうのだが、子どもたちは興奮して次々とカナブンを集め、大量の「脚のもげたカナブン」を再生産していく。
 ともおは、カナブンを再び採りにいって、脚のもげたカナブンをみつけ、罪悪感にかられて、そのカナブン遊びをやめてしまう。そして、大量のダンゴムシを空き缶に入れて「飼っていた」のも放してやる。半分は死んでいたのだが。

 だが、子どものリアルからすれば、そのような自省はありえない。
 興奮の極限までこの遊びを飽くことなくくり返すのが子どもではないか。
 生命の尊厳に思い至るのは、対応する概念を、こうした経験とはまったく別個に手に入れたときであり、それはおそらくもっとずっと後だったはずである。
 筒井康隆に「鍵」という短編があるが、そのなかに、入れ物いっぱいにオタマジャクシをつめて、縁の下に入れておき、そのまま忘れてしまう、という子ども時代の思い出が出てくる。それが子どものリアルというものである。自分の行為をさりげなく反省してみせる〈ともお〉は、相当にオトナであり、であるからこそ、大人が外からかぶせたいファンタジーとしてよく機能しているのである。


 たしかに、使用される小道具は、「それってあるある」式の瑣末リアリズム、すなわちレトロじたてなものばかりである。
 大小便を使った毒薬づくり、ええ、やりました。
 「これでヘビを殺す」とかいって、牛乳瓶に植物汁、ドロ、水、そして小便をまぜて「毒々しい」液体を製造したのは、ぼくです。
 それをどうやってヘビが飲むのかという手続きは考えもせず。
 その「毒薬」を、家の回りにおいておいて、小動物がちかくで(偶然)死んでいるのを見ると「やべえ、かなり強力なモンつくっちまった」とか我ながら恐ろしくなっていたのも、ええ、ぼくです。

 しかし。

 それはあくまで道具だてであって、実は、展開されている世界は、リアリズムとは縁のないファンタジーなのである。
 子どもの世界と、子どもが読んでいた漫画の世界はまるでちがうのだ。

 つーか、『苺ましまろ』(ばらスィー)や『あずまんが大王』(あずまきよひこ)みてみろ。あそこには、だれ一人として、女子小学生も女子高校生もいねえぞ。ぜんぶ、読者である男ヲタが、女子小学生と女子高校生の着ぐるみを着て演じているだけだ。子どものちょっとした懐かしい遊びとかも題材で使うが、ンなもん、関係ねー。

 『団地ともお』も、題材だけはレトロだけど、あれは、小田扉の世代、つまり2〜30代の大人がともおの着ぐるみを着てやっているコントなんだよ。

 そゆこと。

 ぼくはつねづね、小田はわかりやすいギャグのフォーマットで勝負したら、イイものができるのではないかと思っていたが、それを実現したのが本作である。


※1 関川夏央『知識的大衆諸君、これもマンガだ』(文春文庫)
※2 『団地ともお』の第1巻のオビより

小学館 ビッグコミックス
1巻(以後続刊)
2004.3.24記
メニューへ