杉田聡『男権主義的セクシュアリティ』




 「あなたを信頼していたけど、あなたまでポルノを見ていたなんて死にたくなった。死ぬ。世の男性とあなたのせいで死ぬことにした

 ぼくが「アダルトビデオ」を見たことがある、とある女性に言ったら、こう言われた。

 彼女は、同じサークルで、しかも「進歩的」とおぼしき人々が集まる場所で、男性たちの手によって水着の女性のグラビアが載った雑誌が無造作に放っておかれることに、どうしようもないほどの不快感をおぼえていた。
 その女性から聞かれたので、ぼくも正直に答えた。「街を歩いている女性に劣情をもつことがあるか」、「ある」。自分もそんなふうに欲情されている対象だと思うと反吐が出る、と彼女は言った。

 男たちは彼女に問いつめる。
 「じゃあさ、ポルノって、グラビアアイドルもダメなの? 頭のなかで妄想するのもダメ?」
 彼女は怒る。
 「男は、すぐそうやって、『境界』を持ち出す。境界のあいまいさやグレーゾーンに逃げ込む。数少ない反証を見つけては勝ち誇る。あるいは、すぐ女性に聞く。『これはダメ?』『あれは?』って。自分で考えろ!
 彼女は本気で怒っている。
 「世のすべての男性に絶望した。まだしもましな男性がいるんだ、と思える最後の糸があなただったが、あなたもしょせん『男』だった。男はすべて敵だ」

 彼女は「死」という言葉をもってぼくに脅迫したのだが、それはあまりに重苦しく、しかしながらいっこうに動かない厳然たる現実を前にしておこした一種のテロリズムであった。自分、という無辜の市民を殺す、と脅すことで、このむごたらしい男権主義社会へ挑戦しようとしたのだ。
 そのテロリズム的態度をぼくが許容するかどうかは別としても、ぼくは衝撃を受け、自分の思想と行動を洗い直さざるをえなかった。

 ぼくは、ポルノというのは「性の現実=豊かさを断片化し、貧しくしたもの」だと思っていた。だが、彼女によれば、すでにそこに甘さがあるのだ、という。

 「ポルノとは女性に対する暴力である

 彼女が参照していたのが、本書である。
 この本を彼女から教えられたのは、もう数年前になるが、ポルノをいくらかでも批判的にとりあつかおうとする意欲や指向がある人間には、衝撃的な内容だった。(ただし、ことわっておくけど、上記の女性の主張と杉田の主張には少しばかりへだたりがある。杉田はポルノをあるていど限定的に取り扱っている)

 いっさいの容赦がない。

 以下、ノートふうにしながら、若干のコメントを書いてみる。

「女性をおとしめるポルノとは、『性行為において女性が、男の性的要求にヒステリックに反応するものとして描かれ、言葉で虐待・支配・卑しめられ、一般に身体的特質以外には何ら人間的性質をもたない玩具(おもちゃ)として扱われ(る)」ようなものをさす(Check&Guloien 163)」(p37)

 上記の女性が怒ったように、男性側は、あるいはポルノ擁護論者は、ポルノの定義を追及し、グレーゾーンを見い出すことでポルノ擁護をしようとする。杉田は、このしちめんどくさい議論につきあい、性的な素材全体を「セクソグラフィー」、そのうち、女性の性的モノ化をするものを「ポルノ」、パートナー双方の同意と親密さ・平等・官能を志向する描写を「エロチカ」といって区別する。
 杉田はグレーゾーンが残ることは認めつつ、抽象的にこう区分しておくことが大事だという。
 学問論争としてはどうかは知らないが、少なくとも自己のポルノへの態度を問い直そうとするなら、ひとつの重要な基準をしめすことになると、ぼくは思う。

「けれどもパーソナリティ(セクシュアリティ)は、一度形成されるやいなや、その後において確固としてありつづける構えではない。アドルノらも言うとおり、そうしたパーソナリティを実体化してはならない(17)。それはむしろ日々に選ばれ、刻々と確認されることでのみ、確固たる構えでありうる。それは行為の根拠であるとしても、逆に行為によって日々に実現され裏づけられないかぎり、行為の全体を秩序づけ統合づける十全な構えではありえず、依然として『潜勢態』『準備態勢』における構えにすぎない」(p32)

 ナチは、ユダヤ人に日々罵倒し唾棄しつづけることで反ユダヤ主義を確固とする。
 まさに男権主義イデオロギーを日々学習させつづけるものが、「ポルノ」である。
 少年たちは、どれだけ口ではバカにしようとも、「アダルトビデオ」から性を学習する。「アダルトビデオ」が発する負のメッセージに日々洗われていく(男子高校生の77%が視聴したことがある)。
 石原知事や一部の政治家(そしておそらく源流は統一協会=勝共連合)が、いまや「性教育」を「過激」だといって攻撃し、最近も教師100人以上を大量処分した。そのあいだに、石原が待ち望む男権主義イデオロギーは、日々少年たちの頭を洗い続けるのだ。

「女性がモノではなく、固有の意志や主体性をもつように描かれたとしてもポルノが与えるメッセージはイデオロギー(虚偽意識)である。これを見る男性たちは、これがしばしば本来の虚偽(デマゴギー)であることに気づかないことが多い。女性もまた同様である」(p39)
「ポルノにおいて、女性たちはいつもセックスしか念頭にないかのように描かれる。そして女性は男の性的働きかけにただちに反応する」(p39〜40)
「ポルノは強姦をエロチックなことであり、性的に楽しめ、興奮できるものとして描くが、それによって男本位の『セックス』や強姦・性暴力を扇動する」(p43)

 そう書けば、「いや、自分はポルノを留保をおいてみている」「行動にはうつさない。自分はみて空想しているだけ」という議論がおきる。杉田はこれに猛然と反論する。

「ポルノを見ることは、それ自体女性支配の行動であり女性支配の実現である」(p48)
「素材が生々しくリアルであればあるほど喚起される情動は強烈であり、視聴者は、ポルノに登場する女性の性的モノ化と虐待・陵辱を(喜びつつ、もしくはいやいやながらも)楽しみ、それに参加し、強姦者の視線で当の女性をみずから性的にモノ化し陵辱してしまうのである」(p49)
女性の性的モノ化と陵辱は、実は視聴者自身の行動となる」(p50)

 永沢光雄『AV女優』(文春文庫)には42人のAV女優のインタビューとおいたちがルポふうに紹介されている。それをよめば、女優たち一人ひとりが背負ってきた人生や歴史があって、そこにその人が存在していることがたしかな質量感をもって把握できる。女たちは、たいていはさびしいセックスの歴史をもっていたりするのだが。
 ビデオにおさまった「女」は、こうしたその「女」の背後にある歴史や豊かさがすべて切り取られ、性的なモノとして断片化され、陵辱の対象になっている。
 吉岡忍はさらに論をすすめて、あらゆる映像文化がこのような暴力性をもっているとまで言ったのだが。


 杉田は、さらにポルノと性行動の関係を研究した調査の紹介し、そのあとで、宮淑子の積極的なポルノ擁護論や宮台真司による変則的なポルノ擁護論、ポルノ規制をすべきでないという「リバタリアン」などを批判する。女性自身のなかに「男権主義イデオロギー」が浸透していくという問題も興味深い。「えー、だっておれの女友だちとか、エロビデオいっしょにみて喜んでるぜ」ということへの反論を試みているわけだ。
 さらに、本書の半分は「買売春擁護批判」にもあてられている。
 NGO関係者で、ぼくの知り合いが、「ソープランドにいったことがある」と言ったときには、正直おどろきをかくせなかった。


 反論はいくらでもできるだろう。

 本書の内容に最終的に同意するかどうかは、二の次の問題だと思う。
 問題は、「男性」であるということ、そして男性としての性行動を、いちど「相対化」してみること――ぼく流にいえば、歴史的にとらえること、すなわちモメントに落とす=批判してみること、を本書から学ぶことなのだ。



杉田聡
『シリーズ現代批判の哲学 男権主義的セクシャリティ ポルノ・買売春擁護論批判』
(青木書店)
2004.1.30記
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