近藤昭二『誰も知らない「死刑」の裏側』
——郷田マモラ『モリのアサガオ』にもふれて



誰も知らない「死刑」の裏側  仕事で出張したとき、空き時間に本屋に寄ったのだが、そのとき裁判員制度を考えるというようなコーナーで平積みにされていた、まったく「ふらり」と手にした本。

 いろんな意味で「面白い」本だったのに、アマゾンのレビューもネット上の書評もあまりなく(読売新聞2008年8月6日付の夕刊でとりあげられているようだが)、もったいないという感じがした。もともと1998年に刊行されたが、裁判員制度を前にして改訂・改装して再び出されたもののようである。いい本だと評価する編集者がいて、この流れの中で再度売れるかもしれないとふんだのであろう。

 オビには「2009年、裁判員制度が始まる! 死刑判決の実態、死刑囚の獄中生活、死刑執行の詳細……この事実を知らずして、死刑を含む裁判の場に一般市民が望めるのか!」とある。ブラフだ(笑)。まあ、ある種の意気込みとでもいおうか。

 そう言われてみて、たしかにそう思う。

 ぼく自身は死刑についてまとまって考えたことがあるのは学生時代くらいなもので、それも今あまりきちんとは覚えていない。学生っぽいといえば学生っぽいのだが、死刑の抑止力とかそういう「理屈」めいたところで議論したような気がする。



『モリのアサガオ』がぼくに与えた影響



モリのアサガオ 1―新人刑務官と或る死刑囚の物語 (1) (アクションコミックス)  その後死刑にかんするいくつかの本にも出会ったが、大きな影響を与えたものといえば、漫画であった。郷田マモラ『モリのアサガオ』(双葉社)である。

 『モリのアサガオ』を読んで何に一番心を動かされたかといえば、メインのストーリーであり、サブタイトルにもなっている「新人刑務官とある死刑囚」の交流などではまったくなく、死刑囚の生活、死刑囚のさまざまな反省ぶり/反省しなさぶり、そして死刑が執行される日の一日の描写であった。
 とくに死刑がどのように執行されるかということを詳細に追った部分は、心に焼き付いた。それまで抽象的に「死刑台へ送られる」というふうにイメージされていたぼくの死刑観はこの漫画によって鮮烈な具体的イメージをもたされた。

 郷田の絵はとてもデザイン化されている。
 ある意味で「絵本」のようである。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/technology/digital/art/bunkacho/CK2008040902102362.html
 もし劇画でそれをやられていたら、逆に芝居臭くなってしまっていただろう。郷田の絵柄によってむしろ生々しさが獲得されてしまっているのだ。

 この漫画によって、ぼくの心は死刑存置論へと大きく傾いた。意外と思われるかもしれない。主人公である新人刑務官は、一つひとつの事実の前で、死刑の存置と廃止の間で激しく揺れる。
 さまざまな理由があるのだが、死刑廃止に傾く最大のものはひとの命を奪うという具体的な行為の残虐さであり、死刑存置に傾くのは死刑という制度があることによって死刑囚は命がけで自分の罪と向き合えるのではないかということである。
 この「死刑という制度があることによって死刑囚は命がけで自分の罪と向き合えるのではないか」という論点は、死刑存置論においてしばしば唱えられる「被害者遺族の気持ちを考えろ」というそれ自体は重要な論点ではあるが「それだけではすべては決められない」という心情に響かない論点を超えるものであった。「死刑存置論へと大きく傾いた」というのはそのことである。

 しかし、だからといって必ずしもぼくが「死刑存置論者」になったというわけではない。
 いずれにせよ、『モリのアサガオ』は漫画という具体的なイメージを通して、そして何より郷田の筆力をもって、死刑制度の是非について存廃いずれの議論についても深く考えさせてくれるものになっている。読後、どちらの立場をとっても難しさが残るという、迷宮にはまり込んだ、イヤな感覚が残るだろう。それこそがタイトルの一部である「モリ」=迷宮の意味するところだ。ぼくはまんまと迷い込まされてしまった。
 
 余談ではあるが、郷田は本作で文化庁メディア芸術祭大賞を獲得したさいに、〈「死刑」に対する考え、そして、死刑囚や周辺の人たちの思いを精一杯に紙の上で表現してまいりました〉としながらも、〈しかし、連載を終えたいま、もっと別の描き方があったのでは……などと、失敗点ばかりが目につき、相も変わらず迷い続けています〉と続けている。ぼくはメインのストーリーになった「新人刑務官とある死刑囚」の交流がどうにも出来過ぎのような気がしていたので、郷田の逡巡はそこにあるのではないかと思っている。
http://plaza.bunka.go.jp/festival/2007/manga/000835/




死刑をめぐる現実の基本点を知るために



 さて、それで近藤の『誰も知らない「死刑」の裏側』である。
 そうした「下準備」のような読書体験はあったものの、ぼくは死刑制度そのものについて基本的なことさえ知っているわけではない。
 たとえば死刑になる犯罪は何か。すべてではないにせよ、あなたはだいたい答えられるだろうか。
 あるいは日本で死刑になる基準は何か。この間の光市母子殺害事件などで話題になったからご存知の人もいるだろうが、世間ではまだまだ知られていない。
 また、死刑囚はどこに収容され、どんな生活をしているか。
 そして、死刑が執行される日の一部始終など。
 なかには、「死刑になっても執行後息を吹き返すとそのまま裏口から出獄できる」という俗説についての事実も紹介されている。

 こうした基本点を多くの市民は知らないのではないか。少なくともぼくは知らないことが多かった。あるいは断片的に知っていることが多かった。本書はこうした基本点について、エピソードをまじえながら「読み物」として高い完成度で書かれている。




死刑執行までの53時間のテープ



 たとえば、死刑の執行がほぼ決まり、執行されるまでの間の死刑囚の様子については一般的に書くのではない。「大阪拘置所長が秘かに録音した、告知から死刑までの五三時間」としてそのテープの内容を紹介しているのだ(現在は告知から執行までこんなに時間はない)。

〈なぜかわからないが、刑場に連行されたのは午後だった。
 仏間にはすでにローソクがともされ、香がたかれている。饅頭と茶が供えてある仏壇には椅子がひとつ。そこへ彼〔大谷死刑囚——引用者注〕が坐る。そこへ玉井策郎所長、飯田昭検事、有田繁雄管理部長、吉川卓爾教誨師、医師らが入ってくる。両側に一〇脚の椅子が並べてある。
 狭い部屋のなかに、十二礼という経の読誦が響く。
 玉井所長が、はなむけの煙草を差し出す。
 なんとか雰囲気を穏やかにしようと思うのだろう。周囲の人たちの笑い声が大谷死刑囚の一挙手一投足に合わせるかのように終始聞こえている。「気にするな」とか「そうか」という声もまじっている。
 沈黙が怖ろしいとでもいうように誰かがつぎつぎに話しかける。
 所長「うまいか?」
 大谷「私は煙草が好きでしてね、兵隊の時分、機関車というあだ名をつけられていたんです。少年院入った頃からでねェ、まあ心臓も強かったんでしょうね」
 場違いの冗談に、周囲から苦笑に近い笑い声が起こる。
 一見おだやかにとりとめのない話がつづくなか、いざ執行と、いったい誰がいつ切り出すのか、はたして大谷の反応はどう出るのかといった張りつめた食う気が流れている〉(p.225〜226)

 たしかに穏やかにしようという配慮とそのことが逆にかもしだしている緊迫した空気が伝わってくる。
 この部分の前後には、刑場の図解や写真、絞首に使われるマニラ麻縄の写真などがあって、郷田の漫画とはまったく別のリアルさで読む者に迫ってくる。
 ぼくは引用の最初にあげた仏間(キリスト者むけには改装した祭壇が用意される)と読経が印象に残る。ぼく自身の実家の仏間の空気や葬式のときの独特の雰囲気を思い出す。あらためてこういう宗教装置というものは、音と匂いと視覚という異空間を出現させることで死を受容させようとするものなのだなあと思う。いま思い出すだけでも、クラクラするようなあの空気を思い出す。

〈結局、有田管理部長が、「こうしていても、いつまでも名残の尽きないことだし、それそろお別れにしましょうか」と切り出した〉(同p.226)

 言った。
 このあと、執行までがさらに描かれているが、引用はここまでとしておく。執行に際しての刑場の独特の緊迫感というものが充分これだけでも伝わってくるのではないだろうか。




通俗的・猟奇的読み物としての価値



 ぼくは冒頭にこの本について「いろんな意味で『面白い』本」だとのべた。その理由は、死刑の現実・実態について基本点がわかるというだけでなく、不謹慎であるが「死刑雑学」としての「読み物」になっているからである。

 というのは、本書の前半は死刑の残酷な歴史の叙述、アメリカにおける様々な死刑の方法とその「失敗」のエピソードの紹介で埋められているからである。

〈人間の残酷さが生み出した恐ろしい刑罰はいくつもあるが、そのなかでも、刑を受ける者にも、見る者にも耐えがたい恐怖を与えたのは「串刺しの刑」ではなかっただろうか。
 死刑囚の身体に縦に杭を打ちこんで死ぬまで放置される「串刺しの刑」は、通常、先を丸くした杭を肛門から入れる。腹這いになった死刑囚の手足を固定しておいて、肛門に油を塗り、杭を入れやすくする。できる限り身体の奥まで杭が打ちこまれると、その串刺し状態のまま、悔いは垂直に立てられ、地面に埋めこまれる。この時点で、死刑囚は苦痛のかぎりを味わわねばならないが、まだ死んではない。
 そのまま放置された死刑囚の身体の重みで、杭は徐々にではあるが、深く突き刺さってくるのだ。最後には……〔以下略——引用者〕〉(同p.62〜63)

 もちろん、著者・近藤にしてみれば、死刑は憲法36条で「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」に抵触するのではないかという指摘があり、死刑というものはその歴史においていかに「残虐な刑罰」だったかを示すために書いているのかもしれない。
 しかし、これを「猟奇的読み物」として読めなくはないのだ。目をそむけたくなる写真までまじえてここまで長々と書いてあるのは、実際にはそのようなものとしても機能することを考えたからではないだろうかと思うのだが、邪推だろうか。

 「はじめに」という一文のなかで近藤は〈本書では、基本的なことを踏まえたうええ、新しい材料を発掘し、よけいな論評を避けて、なるべく死刑囚のありのままを伝えるように心がけました。容易に手にとって、死刑制度の存否について話しあえる材料のひとつになればと願っています〉(同p.9)とのべているように、そのような「猟奇的読み物」の部分もふくめて、「退屈」な法律書や社会問題解説書ではなく、きわめて刺激的なルポとして「容易に手にとって、死刑制度の存否について話しあえる材料」になっている。
 同時に、「よけいな論評を避けて」とはいうものの、全編に著者の死刑制度への懐疑の感情がにじみ出ており(とくに冤罪のくだりなど)、あくまでそういう立場からの本であることは頭においておいた方がいいかもしれない。
 むしろ死刑存廃の議論よりも、「死刑判決をくだすということはどういう重さを引き受けることなのか」ということを裁判員制度が始まるまでに心しておくために必要な一冊というべきである。





二見書房
2008.10.15感想記
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