橘木俊詔『脱フリーター社会』


脱フリーター社会―大人たちにできること

 フリーターの現状論議をこえて、その「脱出策」を正面から論じた快作。
 橘木単独の著作となっているが、二部構成で、第二部は学生たち(京大橘木ゼミ)が堂々論じている。

 「快作」とのべたのは、丸山俊『フリーター亡国論』、山田昌弘『希望格差社会』、そして本書を比較してみたとき、解決策の提示がもっとも核心に迫っているのは本書ではないかと思ったからである。しかも、橘木というより、学生たちの提言が的を射ている。

 というのは、フリーター問題の解決を考える上で、まず経済行動における問題のカギをにぎっている部分を明らかにしなければならないわけで、もっと具体的にいうと、「こうなった原因は若者か企業か」という点を、少なくとも学生たちの提言は隠しようもないほどはっきりと述べているからである。



若者と企業どちらに原因があるか

  学生たちは、「若者原因」論(甘えている、パラサイトシングルなど)をある部分で首肯しながらも、その論拠を一つひとつつぶしていく(それが当を得ているかどうかは今はおいておこう)。そして次のように結論するのだ。

「我々は『自由気ままに現在を楽しむ』というフリーター像は正しくないと考える。フリーター増加の要因はむしろ企業のほうにあり、正社員採用抑制の犠牲となり正社員になれなかった若者が『やむを得ず』フリーターになるのである」(p.161〜162)

「企業が、給料・人材育成費用や社会保障にかかる費用といった人件費削減のために、正社員の求人数を減らし、パート・アルバイトの採用を増やすという戦略を採るならば、労働者はそのようなニーズに適応しなければならない状態に追い込まれる。したがって、フリーターの増加には、企業側の要因が大きく関わっているといえる。労働供給側、すなわち若者側に原因を求める見方というのは、若者の意識のみに着目し労働市場を見ていない」(p.146〜147)

 実は、学生たちがデータ分析につかっている内閣府『国民生活白書』(2003年版)でも「90年代後半以降の大幅なフリーターの増加要因としては、どちらかといえば企業側の要因がおおきい」とすでにのべていることではある。

 原因論をめぐる学生たちの立論は、大ざっぱにいってしまえば、“若者個人個人をみれば甘えや問題はあるが、それは一貫してある若者の未熟さであり、近年のフリーターの激増の原因分析にはならない”というものである。
 これは、ぼくは正しいと考える。



明確な財界の大戦略

  すでに1995年に日経連が有名な「新時代の『日本的経営』」という報告をだし、そのなかで正社員を中心にした雇用形態を破壊して、労働者をひとにぎりの「正規」、一芸でなんとか食っていける「専門職」、その他おおぜいの「流動」の三つに区分けすることをめざした。
 グローバリゼーションのもとでの大競争をうたい文句に、総額人件費の圧縮と、資本による変幻自在な労働編成の改変をするためにという明確な戦略的目標として追求されてきたものである。
 そして、その雇用形態に対応する形で、ローコストな教育で選別と差別で区分けしていこうというのが、支配層の先端部分が思い描いている戦略のもうひとつの側面でもある。


 斎藤貴男『機会不平等』(文芸春秋)のなかで、政府の教育課程審議会会長をつとめた三浦朱門は、ゆとり教育の導入について、あけすけに語る。

「学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。……今まで、中以上の生徒を放置しすぎた。中以下なら、“どうせ俺なんか”で済むところが、なまじ中以上は考える分だけキレてしまう。昨今の十七歳問題は、そういうことも原因なんです。/平均学力が高いのは、遅れている国が近代国家に追いつけ追い越せと国民の尻を叩いた結果です。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなればいけません。それが“ゆとり教育”の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」

 大企業がひとり勝ちをして史上空前の利益をあげていることと、フリーターの増加、階層化、学力低下は一体のものとして、そして明確な戦略として追求されてきた結果である。「甘えた若者の増加」が原因などではない。
 問題は、その事実認識にたったうえで、それを「グローバリゼーションのもとでの競争があるから仕方ない」というのか、それとも、「雇用に対する企業の社会的責任を投げ捨てるべきではない」というのか、というスタンスの差になってでてくる。


 『脱フリーター社会』では、残念ながら、そこまではふみこんではいない。
 しかし、企業側に原因があることをハッキリとさせている。そこが明確になっていることによって、学生たちの提言はおのずと企業側の経済行動にしっかりとふみこむことができるものになっている。『希望格差社会』を書いた山田昌弘が結局個人の行動の変化と、そこへの公的支援にしか言及できなかったのとくらべると対照的である。



学生たちの提言はすぐれている

  学生たちの提言を乱暴にまとめると、(1)サービス残業という明確な違法行為をなくしてその分、若者の正規雇用をふやすという「ワークシェアリング」、(2)フリーターが正規の雇用にたえうるように、そしてスムーズに就職できるように「職業訓練」をほどこすこと、である。
 学生たちは、この提言のなかで、企業側に割増賃金や新規雇用など、相応の負担を求めている。

 まったく正しい。

 学生たちの提言がすぐれているのは、この大枠の方向にとどまらず、この大政策を実施するさいに障害になる問題にも細やかに気を配り、そのための小さな政策もきちんと用意していることである。

●サービス残業を告発することにためらいのある日本的空気があるのではないか?
●サービス残業の削減分を、新規雇用ではなく、既存雇用の有償残業でおぎなってしまわないか?
●普通科高校を出てフリーターになる若者をどう正規雇用につなげるのか?

などだ。これらにたいし、学生たちなりの政策的回答を用意している。くわしくは本書を読んでほしい。
 ちなみに、提言で(2)の職業訓練や教育の要素が比較的大きいのは、学生たちがフリーターの定義を厚労省定義(若年のパート・アルバイトに限定)でおこなっているからで、この場合は「高校中退者、高卒」がフリーター像の中心位置をしめることになる。内閣府定義(派遣や契約をふくめた若年の不安定雇用全体)にすると、また別の比重のおきかたになってくるだろうと思われる。
 対象となるフリーター像をきちんとしぼりこんだ結果である。

 ぼくは自分の共産主義講義でものべたが、長時間労働をただすことによって不安定雇用に一定の解決をしめすという方向に、全面的に賛意を表明したい。
 学生たちがのべているように、それは自由時間=真の豊かさの条件を生み出す。
 「時間あってこそ人間は発達することができる」とはマルクスの言葉である。自由時間によって開発された能力が、労働(仕事)に反射することもあるだろう。長いスパンでみて、社会全体の活性化、真の「豊かさ」をつくりだす条件となる。

 ネット上のレビューを読むと、この本を「甘い」といっている人が少なくないが、まったく逆だろうと思う。


ぼくからの批判――3つの点

  そのうえで、フリーター問題の解決にさらに必要な論点を、学生たちの提言への批判をおこなうことで、ぼくなりに補足しておきたい。

 第一に、企業、とりわけ大企業の雇用に対する社会的責任の角度をすえるべきである。

 先ほどののべたように、大資本側には「グローバリゼーションのもとで競争してるんだから、しょうがねーじゃん」という反論がある。しかし、大企業は「おめこぼし」でも何でもなく、社会的な責任を果すことなしにそもそもプレーヤーたる資格がないのだ。それを果してはじめてグローバルな舞台で活動できるのだということは指摘されてしかるべきである。いくら競争の論理があっても、社会を維持発展させるための最小限コストは負担しなければならない。
 また、そのことにかかわって、『希望格差社会』の書評のところでも述べたが、実際には日本の企業の税・社会保障負担は国際的にみて低すぎる。

※松竹伸幸『ルールある経済社会へ』(新日本出版社)によれば、日米の大企業もこのことば(企業の社会的責任)を盛んに使うのだが、これは意味がまったく「軽い」。欧州の場合、この言葉を使うことによって重大な責任が発生するほどの重い言葉である。


 第二に、学生たちの提言には、フリーター(不安定雇用)の現場における困難を緊急に解決するという問題が、あまり視野に入っていないということである。
 フリーターたちから聞き取りをすると、賃金の不払い、違法な長時間労働、セクハラ、極度の低収入などに悩まされており、現行の法制を活用すれば解決する問題も多く存在する。無知につけこまれて、やりたい放題やられているのだ。また、「正社員と同じだけの働きをしているのに、待遇になぜこれほどの差があるのか納得できない」という声も少なくない。
 国会での追及によれば、請負労働者の賃金は、正社員の3分の1、35%も請負会社にピンハネされている。

 これらは、知識の啓蒙、トラブル解決の窓口、派遣や請負の権利強化などを求めている。だとすれば、フリーター(不安定雇用)と正社員の、均等待遇を求めていくことが必要になる。たしかにクビを切りやすい(むろん、現行法制でもパートだからといって自由にクビは切れないが)というデメリットはあるものの、それ以外の点では正社員に近づけていくということである。すなわち、「不安定雇用」というスタイルを一定認めながら、その範囲での待遇改善をもしていく道をつくっておくべきなのである。


 第三に、そのこととかかわって、学生たちの提言はやや「正社員一本槍」に傾き過ぎているきらいがあり、「多様な働き方を選択しうる社会」をめざすことも視野にいれるべきである。
 丸山の『フリーター亡国論』では「正社員」の廃止を結論づけたが、これは現状では暴論である。
 現在の、使い捨ての形で不安定雇用を激増させているという財界の戦略、これ自体は是正されねばならない。
 しかし、派遣やパートなどの若年労働者からとったアンケートでは、「自由な時間に働けるから」という理由を述べる人が決して少ない数ではないことにも注意する必要がある。すなわち、パートタイム的な労働やスポット的な労働が、「多様な働き方」として求められている側面もある。
 ただ、くり返すが、現状ではこのような願望は、資本の側の「使い捨て」のえじきにされるのがオチである。
 実際には「財界の戦略が変えられてから」などという具合にキレイな形で物事が進むわけではない。おそらく人々は、そのような「使い捨て」戦略とたたかいながら、安定した雇用も企業の社会的責任にふさわしく増やさせるし(サービス残業の削減で)、不安定雇用の待遇改善もすすめるという同時平行でしか進行していかないとぼくは思う。
 そのような混沌のなかでの社会的にぶつかりあう合力の結果、競争にも配慮し、雇用への社会的責任にも配慮し、フリーターの現状改善にも配慮した、「よりよい経済状態」が作り出されるのだと考える。





『脱フリーター社会 大人たちにできること』
東洋経済新報社
2005.3.11感想記
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