小畑健・大場つぐみ
DEATH NOTE デスノート』





 批評家などの間で昨年(2004年)、非常に評価が高かった作品。
 むろん、少年ジャンプ誌上でも絶大な人気を誇ったわけで、青少年読者にも歓迎された。

 『このマンガを読め! 2005』(フリースタイル)を読むと、「まるで浦沢直樹のようなミステリー仕立てで、少年マンガとは思えない」(夏目房之介)、「21世紀版『罪と罰』」(斎藤宣彦)、「この人(小畑)じゃなかったら、こんなネームだらけの心理戦ばかりの展開の話を漫画に出来ないですよ」(江口寿史)などと絶賛の言葉が並ぶ。

 ちなみに同書での竹熊健太郎のコメントは「行き詰まる頭脳合戦はまことにスリリング。非常によく練られた設定と展開」、というものだった。
 「行き詰ま」ってどうする。


 そのノートに名前を書かれた人間は必ず死ぬ、という「デスノート」を拾った主人公・夜神月(ライト)は、それを使って犯罪者=「悪人」の抹殺を開始し、世界の浄化を目論む。犯罪者の不可解な大量死に疑問を抱いた警察は、「L」と呼ばれる謎の人物に依頼して、その原因をつきとめさせようとする。
 この主人公の夜神と「L」が、頭脳合戦を繰り広げ、そこに様々な撹乱要素が入り込んで、話をもりあげていくのである。

 「ミステリーとしての面白さを持つ原作を、週刊誌とは思えない完成度の高い作画が作品のクオリティーをさらに押し上げている」(八田真佐子)という評価もあるので、ミステリー好きの友人に、「君が面白いと思う漫画だよ」と渡したら、意外にも不評だった

 くわしく尋ねてみると、心理戦、というけども、心理戦などとはおこがましい。どちらかというと単なる言葉のあそびだったり、あまりにも単純な心の動きを要素にしている、というのである。
 嫉妬や猜疑、本人さえ気づかぬ欲望や羞恥など、幾層にも複雑に交差し、反転し、屈折する心理を前提にしてこそはじめて小説の「心理戦」たりうるのだ、とその友人は言いたいらしい。

 たしかに、この『デスノート』の「心理戦」はミステリーファンが喜ぶような心理劇ではない。

 ぼくは、ある種のパズルや対戦ゲームを想像した。
 たとえば「碁」である。(『デスノート』の作画担当である小畑健は、『ヒカルの碁』の作画担当でもあるが、いずれも原作者ではないので、両者の間には絵以外に何の関連もない。ぼくがここで「碁」を持ち出したのは偶然である)

 子どもがトランプの「神経衰弱」に強いのは、思考が単純だからである。
 「碁」というゲームも、ルールそのものはシンプルで、夾雑物がいっさい入ってこない。しかしながら、「神経衰弱」と違って、そのシンプルなルールが複雑きわまる形で分岐していくので奥が深い。この「複雑なシンプルさ」を徹底的に究めることができるかどうかが「碁」の力量にかかわっているのであり、だからこそ、このゲームで、子どもの名人が山のようにいるわけである(碁が子どもむけのちゃちなゲームだと言っているわけではない。念のため)。

 あるルールを設定して、そのなかでパズルを解くように、あるいは相手の出方を見ながら、コマを動かすという『デスノート』の展開は、こうしたゲームそのものの単純な世界観であって、そこには真の意味での「心理戦」は入り込みようがない。あくまでお子ちゃまが理解できる範囲での心理であり、ゲームをめぐるやりとりでしかない。

 かといって、それがつまらないというわけではない。

 ぼくは、面白かった。
 
 たとえば、福本伸行の『カイジ』などもこういう「ルールを設定したゲーム、そこでの頭脳戦」という要素をもっているけども、福本には『最強伝説黒沢』を描くような心理戦描写だとか、世界観の問題がまわとりついていて、『デスノート』ほど単純にぼくは受け入れることはできない。

 『デスノート』の面白さというのは、単純にゲームとしての面白さである。
 少なくとも4巻までにおいては、設定におかれている「犯罪者の粛清は世界の浄化か」とか「人が人を裁く」「少年犯罪は…」などという問題は、この作品の価値にとって、まことにどうでもいいことである。

 4巻では「L」が夜神を犯人ではないかと疑いながらも、夜神を指して「私の初めての友達ですから」というシーンがあり、そこなどは『カイジ』ばりの、「苛酷な死闘のなかでしか友情のリアリティは生まれない」という説教も垣間見れるのであるが、それもまたどうでもいいことである。


 同じ「ゲーム」を扱いながら、『カイジ』と『デスノート』では、絵柄が絶対的といえるほどに異なる。福本は、別の作品では自分は原作にまわって、かわぐちかいじに絵を描いてもらっているものもあるが、ぼくなどはそれを読んでいても、どうしても福本の絵に直して読んでしまう。福本は艶のある異性(女性)が描けないという一点をのぞいて、福本的な心理戦には、あの絵柄は決して不向きではない。
 ではもし、福本の絵柄で『デスノート』を描いたらどうなるか。
 これは、あまりに単純なゲームすぎて、福本の絵柄ではとてもまかないきれなくなる。
 ぼくは、夜神の才気走った顔、「L」の狂気じみた表情を飽くことなく見続けていたいのである。ちなみに、「L」の狂気じみた表情は「目」ではなく「手」である。長い「触手」でつまむようにモノをとりあげる仕草こそが、常人たらざるゆえんである。ちょっと真似して紅茶のカップなどを持ってみたら、たちまちこぼしてしまいました。

 それにしても、小畑の描く弥(あまね)ミサというのは、欲望惹起的だよなあ。
 というより、小畑の描く女性というのは、すべてそのように描かれていて、小畑が女性キャラに入念に欲望の視線をこめているのが、もんんんんんんのすごく、よくわかります。はい。



原作:大場つぐみ 漫画:小畑健
集英社ジャンプコミックス 1〜4巻(以後続刊)
2005.1.5感想記
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5巻の感想

 設定におけるお子ちゃま度が120%アップ。

 イキナリ、巨大ビルを建ててしまう設定に苦笑。自分でも「資金はどこから?」なんて突っ込みをいれている始末。
 さらに、やはりイキナリ取締役会にのりこんで、飛び込みでタレントの売り出しをするなどというのも苦痛にたえないのであるが、そこからミサミサの自宅で飲み会、マネージャーの「転落死」、ミサの「私にまかせて」の一言で全員が一斉に退散、などという設定は、もはや言うべき言葉もない。

 ゲームを楽しむのだと思わねば、とうてい読んではいられない。

 この種の漫画は、前提の空想性(この漫画の場合は死神とデスノートの存在)以外には周密に設定を練り、細部にこだわるものである。しかし、本作はブッチギリだ。ゲーム以外のすべてを犠牲にしている。

 漫画を担当している小畑も、こういうご都合主義がたえきれないのか、この巻はやたらと「ギャグ」を入れている。ギャグこそこの漫画にふさわしい。この漫画で泣いたりしたことのあるあなた(たとえば捜査陣の一人が死んだりしたとき)、その涙は100%ムダです。人間ドラマに期待する漫画じゃありません。

 本巻はいわば、場面の転換をさせるだけの役割をになった巻で、すじがき自身に、たいした知的なゲーム性をもった展開はない。

 雑誌のほうは読んでいないし、ぼくの読みが浅いせいかもしれないけど、なぜ警察を撤退させたのか。被疑者を拉致して密室で監禁するなどというくだりが、あまりに不整合すぎたのかなあ。警察にとどまることの不都合が、あとの巻で何か使われるのか。
 それとも、いよいよ「非合法」な手段をもりこんでの応酬にしたいがために、警察にとどまるのは煩雑な弁解を入れなくてはならなくなるので、思い切ってやめてしまったのか。そこんところ、どうなんでしょうかね。

 つっても、もはやそういう設定自体、どうでもいいんだけど。

 死神も出てFBIも出て、いまさら何が出てもおどろかねーよ(と決意)。たとえ、ライトがドラえもんを連れてきたり、Lがイタコ使ってナポレオンを呼び出したとしても。