宮本博文『出会った相手がわるかった!? 札つきのフェミニストを妻にして』


出会った相手がわるかった!?―札つきのフェミニストを妻にして

 結婚したあとで妻が自分の生き方に違和感をおぼえ、フェミニズムに出会ううちにフェミニストにかわっていった。
 これにたいして、古典的な男らしさを誇りドメバ男だった夫は、初めはその変化にあわて、怒り、とまどう。しかし、自分自身がフェミニズムについて学んだり、フェミニストである妻に接するうちに次第しだいに変化していく。

 本書は、200ページのうちの大半をつかって、この妻(ユキ)と夫(「私」)の、印象的な事件におけるやりとりを、シナリオ調で紹介していく。ときに、夫の独白をはさんで会話が進行していくのだ。
 まあ、実際に読んでもらったほうが早いだろう。
 ちょっと引用してみる。

------ 引用ここから -----------

【私】オレは疲れて帰ってきてるんや、そんなときぐらい優しく気い遣って欲しいやろ、だれでも! それもあかんのか、フェミニズムやってる人には。
〈なんのための女房やねん、ったく。フェミニズムでもなんでもやったらええけど、こっちは迷惑や〉
 寝耳に水、というような顔をしたユキ、落ち着いた態度で、
【ユキ】わたしは別に何も思ってないよ、ただ疲れているだけ。フェミニズムがどうしたの?
〈ああそうか、疲れてんのか……、せやけどお帰りぐらい言えよ……? カアッ……俺はそんなに疲れてないっちゅうのか!〉
 腹は立ったが、疲れていると聞けば、どうしたんやろ、と少しは気になる。
【私】疲れているのか……でも(中略)ちょっとはニコニコしてくれてもいいんちゃうの、そんなにしんどそうにされたらこっちまでしんどいわ。……中略……オレが帰ってきてるんやから、ニコニコしてえや。
【ユキ】今はそんな気になれないよ。
【私】なんでや、いいやろ、ちょっとぐらいは。いつもちゃんと考えてるやろ、ユキの生き方……。別に大したことないやろ、アイソするぐらい。簡単なことや。
【ユキ】ちょっとぐらいって言うけど、どうしてわたしにそうしろって言うの? わたしはソンナこと言われたくないよ。
〈ソンナこと! 求める? あたりまえやろ、旦那が女房に求めて何が悪い、他の女に求めたら、それこそあかんやろが、ったく〉
【私】当然のことやと思うでオレは!
【ユキ】そうかなあ?……中略……それって、心で思ってるのだったらいいよ、いくら思ってくれても。でも、わたしに言わんといてくれる。どうしてそういうふうに求めてくるのよ、言われるほうはしんどいよ。……中略……
【私】心で思ってたらええの!? あのなあ、心でイヤな女やて思てるほうがよっぽどあかんのや。そんなもの裏切りや、相手への裏切り行為やと思うけどなあ。
【ユキ】だったらわたしは裏切り者やねえ。
【私】えっ!

------- 引用ここまで ------------

 こういう調子のやりとりがエピソードごとにずっとつづられる。

 ほかにも、夫のコーフンする下着をセックスのときに妻につけてほしいと要求するエピソードや、「フェミニズムの考えに従って」夫が自らのポルノを全部捨てるという態度をとるが妻は喜んでいるふうでもないというエピソードなどがある。

 上記のエピソードでは、フェミニズムというのは自分のことしか考えないんやな、と夫が皮肉をいうのだが、妻は自分は相手に無理して合わせるのは生き方は止めたんだと言い放ち、そういうことに合う人といっしょにくらしてくれても「かまわない」とだめ押しする。
 夫は妻のその「凄み」に慌てふためくのだ。
 夫の側は、ある意味、気分まかせに怒ったり要求したりするのだが、フェミニストである妻の方は、離婚してもかまわないと、このやりとりさえ「本気」で跳ね返す。

「〈フェミニストは真剣勝負で生きとるんや、ほんならこの女もそうなんや……〉」

 夫はこの妻の「本気」にひるんでおまえのことをあたたかみがないなんて思ってないよと詫びるのだが、妻は「どう思ってくれてもいいよ。無理にわたしに合わそうとしなくても」と言う。妻自身もものすごく疲れているのだが、それは別に気づかってくれる必要はないのだとも述べる。
 夫にたいして、自分のことを気づかえとか、自分の評価を正確にせよ、というのが、この妻の方法ではないのだ。では、この妻のとる方法とは何か。

「こうこうこういうことで今苦しいから聞いてくれるって言ってくれればね。それだったらそっちが今どういう状況か把握できるし、こっちは責められてるんじゃないってわかるもの」
「さっき(あなたから)言われたことは強制でしょ、それは一方的な押しつけだけど、聞いてくれるって言われたら、どうするかはこちらに選択の余地があるってことでしょ」

 自分の思っていることや必要な情報だけを与えて、相手に強制や命令をしたり、変化を迫ることをするな、相手とのかかわりを相手の選択にゆだねよ、というのがこの妻のとる方法であり、それでこそ「自然な関わり方ができる」とするのである。もちろん、その方法自体も、彼女は「押しつけ」はしない。そういうことが自然ではないかと伝えるだけだ。じっさい、この夫は考えをたいして変えぬまま数年をすごすのだが。

 このエピソードには、この妻が実践しているフェミニズムの精髄(の一部)がふくまれている。

――フェミニズムとは生き方であり、それも真剣勝負の生き方であること。
――自分が女であることを、「しんどい」思いをせずに、あるいは男や社会の強制にいっさいわずらわされることなく、自然体で謳歌したいと考えていること。
――夫婦といえども完全に独立した個人であり、おたがいにいっさい抑圧や支配をすることはできないということ。それは男から女にたいしても、女から男にたいしても。
――その目的をうまく達するためのコミニュケーション・スキルを実践していること。

 ところで、筆者である夫のほうは、自分自身をどう規定しているのかといえば、「フェミニスト」ではなく、「フェミニストのような生き方をしようとしているけど、なかなかそうは生きられない」と迷いを書いている。
 それがどうなったのか。
 きっかけは会話をしていて、妻からこう問われたことだという。

「女が男から受ける抑圧、感じられる?」
「女に課せられているダブルスタンダード、あなたは感じた?」

 夫は「そら無理や、女ちゃうもん」と“自然に”答えてしまう。いわゆる「気づき」である。こうして夫は「俺はフェミニストではない」ときっぱりと自己規定することができるようになる。

 この本は、夫婦のやりとりを通じて、フェミニズムの精髄をできるだけ自然な形で伝えようとする本である。とくに、会話の最中にはさまれる夫のモノローグは、男がおちいりがちな思考のワナを、体よく代弁していて、「フェミニズムに理解がある」「女性の生き方には理解をしめしている」式の身振りをするヌルい男性――ぼくのような――には、自分の醜態をみるようなイタさがある。
 この位置にいる男に一番効果のある本であり、その層がもっとも読むべき本であろうと思う。

 また、こうしたシナリオ調のエピソードを入れることで、フェミニズムにはまったく縁がないオトコをフェミニズムの世界に「ひきずりこもう」という効果もあるのだと思う(むろん、筆者の宮本博文自身は、「アサーション」の表現を心がけているのであろうから、相手に変化をせまる「抑圧的」な叙述はない。自分の変化や気づきの体験を叙述することによって、自然と相手が受け入れられるようなものをめざしているのではあるが)。さきほどのべたように、会話エピソードである第一部に大半をついやし、自分の思想歴とフェミニズム解説になっている第二部(「私が妻を理解できるようになるまで」)と、やや特殊体験と思われがちな第三部(「ドメスティック・バイオレンス――私の経験」)にはあまり紙幅を割いていないのは、演出としてよく計算されている。第二部のようなところから書きおこしたのでは、その種のオトコはまったく受け入れられまい。

 
 ただし、やはりフェミニズムにまったく縁もゆかりもなかったという人には、この妻(宮本由起代)は理解しがたいとまず印象づけられるのはまちがいないだろうと思う。
 だから、上野千鶴子がこの本に推薦のオビを書いているのだが「ふつーの男がパートナーとのディスコミに傷つき、とまどいあわてふためく…さまを、ここまで書くか!? その正直さに爆笑!」まではうなずけるにしても、「爆笑!しているうちに、あなたもフェミニストと愛しあいたくなるでしょう」というところまでは、なかなか微妙だと思うのである。

 しかし、フェミニズムはただ一冊の本で「理解」できるものではないのだろうと思えば、それもよしとするほかない。まずは何か感じてもらえればいいのだ。
 それに、“フェミニズムとは相手に思想や行動を強制する運動ではないか”という初歩的な誤解はとけるだろうと思う。


 前にも書いたが、フェミニズムは自然体に女性が生きていけるようにする思潮と運動であるが、それには抑圧をかけている社会やオトコとしばしば断固としてたたかわねばならない。あるいは、抑圧をおたがいに避けるための独特のコミュニケーション技術をもたねばならない。
 そうすると、そこに世間からズレたような「奇妙さ」や、「硬直」「肩ひじをはった生き方」という外観が生まれてしまうのである(実践している本人にはごく自然体のつもりでも)。あるいは、そういう生き方をおしつける思想と運動だという誤解も生じる(※)。
 したがって、この本にも、そしてそこに描かれている妻の姿にも、その苦労が色濃く反映している。






※これを政治的に悪用したのが昨今の「教育の場でのジェンダーフリー攻撃」だ。女性がどんなにフリフリの服を着ようが、リボンをつけようがフェミニズムはいっさいそれを非難などしない。それどころか、個人が選びとったものであれば、大いにそういうタイプの「女らしさ」の謳歌もアリだと考えている。しかし、公権力の行使である教育において、社会が強制しているイメージにならないように、あくまでどんなスタイルも個人が自由に選択できるように、と手だてを講じることが、保守系の議員などから「ジェンダーフリーは無性化運動だ」という攻撃され、古典的な女らしさの強制の口実にされている。

かもがわ出版
2005.5.21感想記
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