齋藤孝『読書力』/77点



 「私は、この国は読書立国だと勝手に考えている。国家にこだわっているわけではない。自分の生きている社会の存立基盤を考える、読書を核とした向学心や好奇心が実に重要なものだと思えてくるである。
 読書力がありさえすればなんとかなる。数多くの学生たちを見てきて、しばしば切実にそう思う」

 『声に出して読みたい日本語』の著者は、この本(『読書力』)の冒頭でこうのべている。
 ぼくは、たぶん職業的な人からみれば、そんなに本を読んでいる人間ではないだろうけど、それでも、この冒頭の齋藤の言葉にはついうなずいてしまう。

 齋藤は読書を国のいしずえにまでまつりあげ、その読書力をつけるために、機械的ともおもえるような基準をならべはじめる。「文庫百冊、新書五十冊が読書力があるかないかの基準」「楽しい読み物ではなく精神の緊張を必要とする本を読んではじめて1冊に数える」「そのボーダーは司馬遼太郎あたり」……。
 だが、本好きにとっては、実は齋藤があげる一つひとつが、しみ入るように響く。
 「そうそう、そうなんだよ」
 「ああ、おれもそれ思っていた」
 という具合に。

 たとえば、冒頭の「読書力がありさえすればなんとかなる」という指摘は、ぼくもそう思う。
 受験勉強が一定水準クリアできても、読書力がないと、やっぱりその後、奥行きをもった成長がむずかしくなるような気がする。
 齋藤はこの問題を、読書とは自己形成=教養(ビルドゥング)の問題だといって、読書によって自己形成がどのようにおこなわれるかを、理論ではなく、自分の体験をエッセイ風に書いている。このエッセイ風のものの書きようが、また本好きにはたまらない。
 たとえば「一人になる時間の楽しさを知る」という項をおこして、読書とはすぐれた人間との対話であるとして、その時間がじっくりつくれるのが読書だといっている。
 これはまったく当を得ている。
 ぼくが、食事のとき、必ず絶対本を読みながら食べるのは、それが著者との「対話」だからだ。
 マルクスと対話するのは緊張するし、大塚英志のような評論家と対話するのは楽しい。
 「あれ、きみ、そんなふうに思うわけ?」
 「そうそう、おれ、お前のいっていること、すごくよくわかるよ」

 文庫本サイズの本を筆者がすすめているのは、それがいつもポケットに入って、もちあるけ、どこでもすぐひらくことができるサイズだからだという。これもぼくにはよくわかる。ぼくも、本を読むクセがついてからは、どこへいくにも絶対に本なしには出かけない。ちょっと郵便局にいくときでも本を必ずもっていく。少しでも待ち時間があれば、必ず読む。そういう習慣をつけるうえで、文庫や新書は絶対に欠かせない。
 また、筆者がいう、文庫本というのは、「子どもの読書」から「大人の読書」にかわるときの、アダルトな世界をのぞくドキドキ感があるという指摘もまったく共感する。
 年の離れた兄貴の部屋にあった文庫の山は、大人へのパスポートのような気がして、「いつか読みたい」とぼくなんかも、ずっと思っていた(だから中学時代、筒井康隆や星新一の文庫を夢中になって読んだ)。

 しつこいが、さらにつけくわえると、「書き言葉で話す」「漢語と言葉を絡ませる」「本を引用する会話」などを齋藤はあげ、それが読書をしている人間とそうでない人間をわける、とのべている。これもぼくなんかは、首をぶんぶんとタテにふってしまう話だ。
 大江健三郎は、あるシンポで、わかりやすさがウケるために本がすべて話し言葉になってしまうことの危ぐを表明していたが、書き言葉は、大掛かりな思考を組み立てていく力をもっており、書き言葉の衰退はその機能がこわれていくことを意味するというのである。齋藤の指摘は、この大江の指摘にダブる。

 とまあ、そんな具合に、本好きのエリート意識もくすぐりつつ、読書党のたからかな宣言となっている。

 ぼくは、読書力を国民的につけていこうという主張にもちろん賛成だ。

 そのこととは別に、齋藤がいまもてはやされているのは、日本の支配層の強烈な危機意識が背後にあると、ぼくは思う。というのは、この本でも、教養主義の崩壊、伝記を読もう、日本の名文を声に出して読もうという主張がされているけど、そのあたりが彼らの危機意識にぴったり重なっているのだ。

 とくに教養。教養(ビルドゥング)とは自己形成という意味が多分につよい。
 齋藤は、旧制高校や大学の学生たちが、かつてはドイツ哲学やロシア文学に熱中し、やがてそれを批判するマルクス主義にもかぶれていったことをふりかえりながら、それらが自己形成としての教養の役割を果たしたとのべている。ところが、すっかりそういうものがなくなってしまったというのだ。
 いまの政界や財界の中心にいるようなメンバーの経歴や読書歴をみてもそれはよくわかる。
 たとえば、西武グループの堤清二なんかは、ドイツ古典哲学やロシア文学に熱中し、自分自身は共産党員となる。

 こうした教養の崩壊は、日本をになう支配層が育たないことを意味する。それは支配層のはげしい危機感でもある。日本の知が、ネット情報のような分断された細切れの知の集積と、他方でのジャンクな心の癒しの言葉に二極分解されていく。これでは、筋道だったモノを考える人間は育たない。オウム真理教の教義は、まさにこのようなジャンクな癒しの言葉と、切片化した情報の集積体だったわけだが(たとえばその終末思想はまるで『エヴァ』のストーリーだ)、それが一定の若者をひきつけ、あのような破滅を生んだ。

 戦前までは、日本人の自己形成とは、近代人としての自己形成であり、日本的には「イエから自立した個人となる」ということをめぐる葛藤だった。近代文学の多くはそれについやされている。
 戦後は、ぼくは核時代をめぐる生き方の確立、もっといえば平和と民主主義をめぐる生き方の確立ということが、かなり大きな柱になっていたとおもう。
 手塚治虫をみてみるがいい。
 戦後の世代の多くは手塚マンガで自己形成をした。
 そこには、平和やヒューマニズム、科学をめぐる教養にあふれていた。
 まがりなりにも日本国憲法が維持され、人権というものが定着した戦後日本は、手塚マンガによる自己形成なくしては考えられないと、ぼくは思う。

 いま、それをうけついでさらに発展させる、新しい国民的な教養が必要なのだ。
 その答えはまだみつかっていないけど、齋藤が読書力に注目し、浅田彰たちが『必読書150』などといった“正典”を選ぶ作業をしているのは、その模索の一つだと思う。

 ともあれ、それは読書からうまれるしかないのではなかろうか。


(岩波新書)

採点77点/100

2003年 1月 19日 (日)記

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