読書感想文を一律に課すのをやめよ
『頭がよくなる必殺!読書術』『マンガの社会学』『わが子に教える作文教室』にもふれて




パクリ自由の読書感想文を求める群れ


 アクセス解析をみると、きのう(2006年9月3日)ぼくのサイトに、「博士の愛した数式」「読書感想文」「宿題」「夏休みの宿題」「パクリ自由」というキーワード検索によって来た人間は、実に650人に達した。

 そう。ぼくは、小川洋子『博士の愛した数式』の感想文を載せているのだが、これを「パクリ自由の読書感想文」だとしているのだ。

 Googleでは「読書感想文 博士の愛した数式」で検索のトップ、Yahoo!では10位でひっかかる(06年9月4日現在)。こりゃあ来るはずだ。

 さらに、中高生とおぼしき人から「先生に検索されるとイヤなので、削除して」という要求も来るし、「コンクールに出すといわれたらどう対処すればいいか」などという“悩み相談”まで来た。


 最近は、All aboutでさえ「【例文つき!】5分で完成!読書感想文」などという特集をしているし、はなはだしきは「小学生・中学生のための 著作権フリー!! 自由に使える読書感想文」というサイトまで登場した(これはボリュームも質もすごい)。


 ぼくもこの一味である(All aboutはもう少し品がいいが)。

 学生のレポートがインターネットからのコピペでつくられるという問題がとりあげられて久しいが、読書感想文についても、ぼくのサイトをふくめ、この種の不良サイトに、現場の学校教師は頭をいためているにちがいない。
 いや、すでに学校現場では検索対策がとられていることだろう。ましてやコンクール本部とくれば、こうしたパクリ感想文をたたきおとすことなど、朝飯前だろう。

 ぼくは、すでに『博士の愛した数式』の感想のところで書いたのだが、「読書感想文の宿題を一律に課すのをやめるべきである」派である。



子どもに読書感想文をかかせるのは無理がある


 小中高生に読書感想文など書かせることは、至難なのだ。うん、まだ高校生なら何とかなるかもしれないが、小学生や中学生に書かせるのは、本当に酷だと思う。少数の例外をのぞいて、書けるはずがない。

 「国語の授業で教えたことを実践する場だ」と反論する人がいるかもしれない。なるほど、国語では、教材になった文章にはどんな主張がされているか、登場人物の気持ちはそのときどんなだったかを読解させる訓練を積む。
 しかし、それは、「何が書いてあるか」をつかむ作業でしかない。
 まず、何が書かれているかをつかむことさえ、学校でじっくりと時間をかけねば習得できない。そのために、山のようなテストさえする。そこに一山も二山もあるのだ。
 ところが、読書感想文は、まず「何が書かれているか」をつかんだだけではダメなのだ。
 書かれていることを理解したうえで「それを自分がどう思ったか」を対象化せねばならない。これが一苦労である。前にも書いたとおり、あなたは自分が読んだ小説や漫画の「何が面白かったか」を聞かれて答えられるだろうか。これはぼくも、対面で聞かれると困ってしまうことが多い。あげくに、「とにかく……すごくいいんだよ!」「すっごいリアルなんだ」くらいしか言えずに終わる。ぼくは口頭の感想で、「読みたいな」とか「見たいな」という言葉を聞いたのは、つれあいと前の職場にいたある人以外には、ほとんど思い当たらない。
 それくらい、対象化させることは難しい作業である。

 いや、読書感想文はそれでは終わらない。
 対象化したうえで、文章、しかも一まとまりの分量をもった文章に仕上げねばならない。もう気が遠くなる作業だ。

頭がよくなる必殺! 読書術 齋藤孝の「ガツンと一発」シリーズ 第4巻  齋藤孝は「齋藤孝のガツンと一発シリーズ」の第4巻『頭がよくなる 必殺!読書術』のなかで「読書感想文必勝法」という章をたてている。彼はそのなかの「必勝法」の一つに、「らくがき読書術」を紹介している。
 齋藤お得意の3色ボールペンで本にメモれという指南なのだが、大事だと思うところを赤、まあ大事なところを青、そして自分でおもしろいと思うところを緑で印をつけろとのべる。
 学校の授業は、この「赤」(ないしは赤と青)をつける作業までしか教えない。たいてい「緑」をつける作業やそれを表現させる作業はすっとばしている

 齋藤は、もう一つの「必勝法」として、「読んだら人に話す!」ということをあげている。これも子どもがやりやすいように提起した「対象化法」である。そこに腐心しているのだ。まったく正しい。

 世の多くの学校や教師は、そんな教育を学校でやってきてもいないくせに、夏休みになると生徒にいきなりやらせるのだ。いかに無謀かわかる。



阪大生はいかに漫画の感想文がかけなかったか


マンガの社会学  阪大の助教授であるヨコタ村上孝之は『マンガの社会学』(世界思想社)という本のなかで(ちなみにこの本のヨコタ村上の執筆部分は夏目房之介に手ひどく批判された)、自分のゼミ生に「マンガを批評する」という行為をさせているのだが、これにひどく苦労している様子が書かれている。

〈学生に好きな作品を選んでもらい、それについて批評をさせたのだが、受講生は一体、何を発表したらいいのかさっぱり見当もつかなかったようである。たとえば、『北斗の拳』が好きだから取り上げると言う。それなら、オノマトペの使い方に特徴があるから、それをまとめてみたら、とか、英雄叙事詩と考えてホメロスや騎士道物語と比較してみたら、とか提案してみるのだが、ぴんとこなくて、まとまって筋の通ったことが言えない。好きだから好きということ以外に、何を言っていいか分からない、という状態が続いた〉(p.34)

 阪大生にしてこれだ。
 小学生に押し付けることの愚がわかろうというものである。



すぐれた読書感想文を読む


 それでも、世の中にはそんなことをやってしまう生徒というのはいるもので、「青少年読書感想文全国コンクール」のサイトをのぞくと、過去の総理大臣賞の作品が載っているが、もうぼくなど絶対かなわないというすごい作品ぞろいだ。


 第51回に受賞した水野綾子さんという高校3年の人の感想文を見てみよう。


 共同通信社が編集した『和紙とケータイ』という本の感想であるが、〈その日、復元模写された「源氏物語絵巻」の前で私は立ちすくんでいた。予想もしなかった絢爛豪華な色彩に射抜かれたからである。そして静かに染み入ってきたのは、剥落し褪色した原本の姿だった。ハイテクを駆使して甦った絵巻は、九百年の時を超えた強さで私をつかむ。〉という出だしからして、すでに尋常ではない。そして結びは〈私も未来に向けて、自分自身と約束を交わそう。今、静かに高揚している。〉である。

 高校生とはとても思えぬ文章力と対象化力ではないか。
 おまいら、こんな文章書けるか。常人のおよぶところではない。

 つまり、そういうことを書ける子もいるし、そういう子にはどんどん書かせたらいい。しかし、それができるのは、高校生まででは、一部の子なのだ。むしろリスクの方が大きいのだといいたい。一律に課すことが問題なのである。

(ところでこのコンクールのサイトには、過去6年分の入賞作が載っているが、高校生は女性ばかりだ。この年ごろはやはり女子の方が精神年齢が高いのか)



読書感想文は読書嫌いをつくる――清水義範の主張


わが子に教える作文教室  作家の清水義範は、『わが子に教える作文教室』(講談社現代新書)という本のなかで、

〈私の考えでは、読書感想文を書かせるのはいい宿題ではない。あれはむしろ害のほうが大きいほどだと思う。/なぜなら、小・中学生にとって、読書感想文を書くのはむずかしすぎるからだ。本を読んでその感想を書けというのは、要するに書評のようなものを書けと言っているわけで、そんな高度なものが子供に書けるわけがない〉(p.133)

ときっぱり書いている。そのとおりだ!

 齋藤孝は前掲書の該当章の冒頭で、〈本というのは、ほんとうは、読んだら人に話したくなるものなんだよ。つまり、読んでみて、だれかに話したくならないような本で感想文を書くな!と言いたい。ここ重要。かなり重要。/おもしろくない本を読んで、感想文を無理やり書くのは、はなっから無理だということを知っておこう〉(齋藤p.85)とのべているが、学校の読書感想文には、子どもたちが「ワクワク」しそうな本、漫画はもちろん、ライトノベルさえ外していることが多い。そして、「課題図書」「推薦図書」などという「ワク」を押しつけられた日にはもういけない。こうしたやり方は、齋藤が説く〈おもしろくない本を読んで、感想文を無理やり書く〉行為になってしまうだろう。なるほど思わぬ感動を得る生徒もいるだろうが、読書嫌いになる生徒のほうが、たぶんずっと多いだろう。

 清水はこのことを、齋藤とは別の角度から、こういっている。

〈しかも、読書感想文を書くということには、よい子ぶりましょう、おりこうぶりましょう、という臭みがプンプン漂っている。推薦図書の中から一冊呼んで感想を書くというやり方の中に、とてもいい本で感動しました、と言うしかないという圧迫がある。/何かうまいお世辞を言わなきゃいけないんだ、と思って読む本なんて苦痛で、本を読むことまで嫌いになってしまうのだ〉(清水p.133)

 清水は、そのあと、『ノーベル』という偉人伝を読んで書いた読書感想文と、『我が輩は猫である』を読んで書いた、読書感想文の体裁をまったくなしていない、「面白いことだけを書いた」感想文を比較し、いかに後者がすぐれているか、楽しさだけが伝わってくるかを語っている。説得力のある事実材料だ。


〈とにかく、子供に本を読ませたとして、感想をきいてはいけない。感想とは、本を読んだだけで、胸の内に生じるもので、しかも時間がたつにつれて育ってくるものなのだから。それをすぐさま、何かうまいことを言ってごらん、と導き出すなんて、本嫌いを育てているようなものだ〉(清水p.134)

 このような理由から、ぼくは、読書感想文を全員に一律宿題として押し付ける方法に反対するし、もしするなら、そのための教育を夏休み前にきちんとやった教師や学校だけがその権利をもつのだ、と主張したい。



ブログでレビューを書くさいの参考になる


 なお、清水の本も、ヨコタ村上の本も、齋藤の本も、ブログやネットで書評を書くさいには、とても役立つものだ。

 齋藤の本は、小学生むけのものだが、あなどれない。
 ぼくのように同じような駄文をくり返し欲望を舐め廻すように書いている馬鹿は放っておいて、毎日書評やレビューを書くという行為は、実はなかなか大変なものである。
 自分は漫画をよく読むから、ミステリーをよく読むから、ブログの題材は無限にある! と始めることはよくあることである。
 しかし、実際に始めてみると、「飽きる」という以前に、書くことに詰まってしまう場合が多い。「すごくこれがスキです!」「超オススメの作家さんです!」という文章しか出てこないと、一週間も立てば自分でも苦痛になってくるからである。
 そんなとき、齋藤の「読書感想文必勝法」は実は意外と役立つかもしれない。彼はどこが面白かったかを3色ボールペンで色分けすることの他に、「本の文章を写そう!」という「必勝法」、すなわち引用を奨励する。

〈引用というのは、本の文章をそのまま写すこと。これは、メチャクチャ字数が進みますよ。/「ええぇっ! 写すなんて、ずるいじゃん!」と思ったかな? /いいや、ずるくない、ずるくない。なんでかというと、一冊の長い話から、どこをおもしろいと思ったか、そこを見つけて切り取ってくること自体が、大切な能力だからだよ。/大事なところ、おもしろいところをうまく切り取るだけで、その人は、それを読んだという証明になるんだね。力の証明だよ。読む力があるという証明。この力のことを、“編集能力”といいます。/これは、プロの物書きもやっているやり方です。プロは、じつは引用で食ってます(笑)〉(齋藤p.95〜96)

 ヨコタ村上孝之の場合は、ゼミで関川夏央の『知識的大衆諸君、これもマンガだ』(文春文庫)を読ませ、その批評を相手にして自分の批評を彫琢させるという方法をとったという。
 ブログであれば、他人のブログの感想を読むことで、それに同意したり反発することで自分の感想を築き上げていけるということだ。そしてヨコタ村上によれば先行批評を参照する態度こそが、批評や研究にとって本来的な姿勢なのだ。

 好きな漫画や本を一通り(30冊くらい)紹介したら書くことがなくなってしまったという漫画レビューのブロガーの人は、ぼくのように恥も外聞もなく欲望をくり返し舐め廻す道か、これらの本を読んでみてはどうか。





齋藤孝
『齋藤孝の「ガツンと一発」シリーズ第4巻 頭がよくなる 必殺!読書術』
(PHP研究所)
宮原浩二郎・荻野昌弘編『マンガの社会学』(世界思想社)
清水義範『わが子に教える作文教室』(講談社現代新書)
2006.9.5記
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