湯浅誠『どんとこい、貧困!』




ある生活保護報道をめぐるネット上の「攻防戦」



 マスコミで紹介された生活保護のケースが2chで話題になり、それがはてなブックマークでもとりあげられている。
 まず2chでは、いかにこの生活保護家庭が「ぜいたく」かということで非難をあびせるものがほとんどで、付随して自分がいかにがんばっていて貧乏であるかを「自慢」するというコメントがつけられているものが目立った。

痛いニュース(ノ∀`):「私たちに何が必要かを考えてほしい」…月24万円の生活保護受ける佐藤さん一家(携帯代2万5千円・食費5万円)
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1329072.html

ニュー速クオリティ
http://news4vip.livedoor.biz/archives/51385573.html

はてなブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1329072.html

これ、真面目に働いて給料が少ない人間はマジで殺意が芽生えるだろw
生活保護の人間は、背中に生活保護と大きく書かれた制服を義務付けるとかして欲しいよ。
働いてない分際で24マソも貰えてるのかよ・・・
ガキが多いのはそれだけ中出しセックスしまくっただけで、計画性がないだけなのに

携帯代はどうかんがえても多すぎ。
ウチはかみさんと2人で月5千円。

ありえん。

働いてないなら、携帯は不要だろ!?

こいつが働けない事情はなに?さぼってんなら死ねばいいのに

人間として腐っている構図

 同時にこのニュースを検証するブログも次々出てきた。

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20091026/1256542971
http://d.hatena.ne.jp/fut573/20091025/1256564216

 くわしくはそれらのエントリをみてほしいのだが、批判者の多くは(1)4人家族であること(2)この記事の人が少なくとも9月からは働いていること、という単純な事実を見ようとしていない。さらに旅行会社の添乗員の派遣という仕事柄携帯の利用については特殊な事情がありそうで、そのことについては批判者にはほとんどまともな検証がない。

 湯浅誠は『どんとこい、貧困』のなかで〈この数年で貧困問題に対する社会の見方はずいぶん変わった。一進一退しながら少しずつだけど、それでも数年前にくらべれば、えらい変わりようだ〉(p.215)と感慨をのべている。むろんいい方に変わっているということだ。
 もちろん決着はついていないし、今後も終わりはないだろうが、という留保はつけているものの、その変化にいい意味で驚いている。
 2chのような取り上げ方や声は以前からあったものの、ただちにその反撃が準備されるところが社会の健全さの成長を示している、とぼくは思った。





自己責任論からくる「疑問」に徹底反論



 さて、娘の絵本を探しているときに偶然みつけたのが本書『どんとこい、貧困!』である。

 児童書のコーナーにあったように、この『どんとこい、貧困!』を収めている「よりみちパンセ」という理論社のシリーズは、もともとは子どもたちにむけて、「そもそも」をていねいに書いていくというものだ。「アップ・トゥー・デイト、かつ普遍的なテーマを、刺激的な書き手がコンパクトに書き下ろします」「学校でも家庭でも学べない、キミが知りたかったことを、魅力的なおとなたちが心をこめて書き下ろします」「生きていくためのリアルなテーマが満載です!」というのが出版社の売り出しで「中学生以上のすべての人の」という「対象」が書いてある。つまりは子どもだけでなく、大人にむけても書かれている。

どんとこい、貧困! (よりみちパン!セ)  『どんとこい、貧困!』は貧困への挑戦を意図した言葉で、内容も書き手である湯浅誠が貧困の問題をわかりやすく書いている。といっても、貧困についてデータや事例をあれこれのせているわけではない(必要な範囲では載っている)。
 中心は「自己責任」をめぐる問題を、これでもかというほどていねいに、一つひとつの疑問に応答・反論する形で書いているのである。だから、本書は貧困をめぐる本というよりも、貧困問題を軸とした「自己責任」論をどう考えるかという本である。そして、そのことを通じて社会的連帯というものを考える本になっている。

 今述べたとおり、ここで対応している疑問の声は実に詳細だ。ちょっとみてみよう。

「努力しないのが悪いんじゃない?」
「甘やかすのは本人のためにはならないんじゃないの?」
「死ぬ気になればなんでもできるんじゃないの?」
「自分だけラクしてずるいんじゃないの?」
「かわいそうだけど、仕方ないんじゃないの?」……

 これは典型的な5つの質問だが、さらにそれを細分化して詳細な疑問を立てている。

 回答は徹底的だ。徹底的だということは、哲学的だということである。ものごとがつきつめて考えられている。たとえば、「努力しないのが悪いんじゃない?」の一変種として「結局さ、仕事を選んでいるからみつからないんじゃないの?」という疑問に湯浅はこう答える。

〈選ばなければ仕事はある。人を殺してもお金を稼ぐ仕事もあるらしいから。合法的な仕事ばかりを選んでいるなんて選り好みだ。食べられないんだったら、強盗でも人殺しでもなんでもしなきゃ。

 でも、そうは言われない。それはどんなに困ってもやっちゃいけないと言われる。法律違反だから。人に迷惑がかかるから。

 じゃあ時給百円の仕事はどうだろうか? 食べられないならやるべきだろうか? 時給百円だって、一時間働けばハンバーガーが食べられる。でもこれも法律違反だ。「最低賃金法」という法律に違反している。

 じゃあ時給八百円で毎日八時間仕事があるけど、雇用保険に入っていない仕事はどうだろうか? 一日働けば六千四百円になる。これなら拒否しちゃいけない? でもこれも法律違反だ。フルタイムで働いているのに雇用保険に入っていない仕事はやっちゃいけない。なぜって、そういう働き方はほかの人たちの働く条件を引き下げるから。人に迷惑がかかるから。

 雇用保険に入ってなくてもいいですという人が増えると、会社が雇用保険に入ってなくても働く人が集まるので、会社は雇用保険に入ろうと思わなくなる。そうやって、働く人たちが使い捨てられていく社会になってしまう。

 だから、募集する側は時給百円とか時給八百円でフルタイムだけど雇用保険がないとか、そういう条件を出しちゃいけないし、たとえ出していても、応募する側はよく吟味して、引っかからないようにしないといけない。選り好みしちゃいけないけど、ある程度は選り好みしなきゃいけないということになる。

 その「ある程度」ってどの程度なんだろうか?

 ひとつの目安は、「ハローワーク」で出ている仕事ということだろう。……ところが困ったことに、ハローワークは自分たちの紹介している仕事がどんな仕事か、よくは知らないらしい。……求人票に「社会保険・雇用保険完備」と書いてあっても、本当に完備しているかどうかを、当のハローワークは調べていない。面接の段階やじっさいに働き出したところで、じつはウチには社会保険も雇用保険もない、と言われてしまうことがある。

 となると、ハローワークで紹介された仕事だからといって安心はできない。ハローワークにある求人票を丸ごと信じたら、うっかり信用したあんたが悪い、と言われかねない。

 そうすると、自分があとで困らないためにも、人に迷惑がかからない仕事をみつけるためにも、よくよく吟味しないといけないということになる。最初の話(「選ぶのが悪い」)とはずいぶんちがう結論になってしまった。最初の話がまちがっていた、ということだ。

 誰に迷惑かけても自分さえよければいいというんだったら、人殺しでも最低賃金以下の仕事でもやればいいけど、それだと私たちの社会が困ってしまう。社会全体のためには選り好んでもらわないといけないし、吟味しているあいだは、その人の生活を社会全体で支えていかないと、結局は私たち全員が損をする、と私は思う〉(p.40〜42)

 万事この調子で、一つひとつを詰めるように追い込んでいく。俗な感覚のなかでは「あいまい」になっていることをひきずりだして、徹底的に吟味し、白黒をつけていく。これはまさに哲学という思考の作業である。




自己責任論が適用できる範囲、できない範囲



 ぼくがこの本で一番印象的だったのは、自己責任論を適用できる範囲がある、ということだった。本書では中盤p.149から始まるページで、〈自己責任論は上から目線——そんな社会で、まだ暮らしたい?〉というタイトルのところだ。赤く縁取りがしてあるからすぐわかるだろう。

 この文章は〈私の知り合いに営業(セールス)職の得意な女性がいる〉という書き出しになっている。どんどん飛び込んで、契約をとってくる、「やり手」の営業なのだ。〈そんな彼女のモットーは、「やれるかやれないかじゃないんです。やるんです」というものだ。いいわけせずに、四の五の言わずに、とにかくやる、やってみせる、という意味だ〉。この発想について湯浅は〈彼女の自分の律し方は、ある意味ですごく「自己責任論」的だ〉と評している。そのとおりだろう。

 ところが、その文章に続いて、意外な一文が載る。

〈その彼女は、私と同じ団体でボランティアの生活相談もしている。今日明日もう食べていけなくなってしまった、という人たちの事情を聞き、どうやったら生活を立て直せるか、そのアドバイスを行い、役所にいっしょについていくなど必要なサポートをする、という活動だ〉

 ふつうに聞いたら少し驚くんじゃないだろうか。
 「やれるかやれないかじゃないんです。やるんです」——そんなことをモットーにしている人がこんな団体でサポート活動なんかしていたら、大変じゃないか。家を失って明日の生活にも困っている人に「やれるかやれないかじゃないんです。やるんです」と職探しにかり出させる、説教をする……そんな不安を感じてしまう。ところが、さらに意外な一文が続くのだ。

〈「できるかできないかじゃないんです。やるんです」と自分に言い聞かせる彼女だが、「今日明日食べていけない」と相談に来た人たちに、それを言うことはない

 ぼくは驚く。さらに湯浅の文章はこう続く。

〈なぜなら、それを言っても意味がないことを知っているからだ。やればできるなら、やればいい。しかし、その前提にはそれを可能にする条件(“溜め”)がある。その“溜め”のない人に、「やるんです」と言っても、やれない。いくら「飛べ」と言われても、人間である以上、鳥のようには飛べないのと同じだ。
 他方で彼女は「立ち直る力は、その人の中にある」とも言ったことがある。最低限の条件をととのえれば、そこから先は本人がもともともっている力でやっていける。でもその最低限の“溜め”をつくらなければ、いくら「やるんです」と言っても、言われても、できない。できないことを強いても意味がない。意味がないから、言わない〉

 条件をつくらずにただ言い放つ行為を湯浅は「説教」だと呼んで批判する。〈説教からはなにも生まれない〉。

 「やれるかやれないかじゃないんです。やるんです」的な言葉に真実を感じ取る人は決して少なくはないはずだ。自分の「成功体験」のなかにこうした「やれるかやれないかじゃないんです。やるんです」的なものというのは必ずある。
 経験主義はここから一直線に自身の普遍化へと傾斜してしまう。
 「やれるかやれないかじゃないんです。やるんです」と俺は信じて「やった」。だからあいつも「やれるかやれないかじゃないんです。やるんです」と信じて「やるべきだ」と。

 理論の力があれば、その間に見えない「溜め」というもの、つまり自分を支えてくれている条件の違いというものを考えることができる。しかしそれがなければ、ひとは単純な経験主義へと真っ逆さまに落ちていってしまうのだ。

 左翼仲間やぼく自身にもこうした知的怠惰がある。
 自分史における「成功体験」的なものと、社会にむけた自己責任論批判とが分裂したまま自分のなかに「共存」していることがあるのだ。そして「成功体験」を無前提に他人にむけて押しつけていることがままある。

 だからこそ、この「溜め」を媒介にして相手と自分の違いを考えることは画期的な整理だとぼくは思った。〈彼女は、自己責任論的な考え方を、自分のそのときに可能な範囲で自分に向けることはあっても、けっして他人に向けることはない〉——これこそ今もっとも必要とされている哲学的仕分けの一つだ!

 湯浅はこの本の最後に、谷川俊太郎からの4つの質問に答えているのだが、「何がいちばんいやですか?」という問いに〈ごうまんな考え方。ごうまんな生き方をする人。他人を批判していい気になっている人。他の連中はバカで、自分は頭がいいと勘違いしている人。徹底的にやりこめてやりたくなる〉(p.294)と答えている。

 この本の前半部分は、こうした湯浅の「怒り」が根底にある。
 ぼくは、自己責任論をふりかざして「他人を批判していい気になっている人」の発言を実に醜いと思う。湯浅も〈その姿は、ひとことで言うと、醜悪だ。醜く、かっこ悪い。なぜなら、その人たちは自己責任論的な考え方を他人にだけ向けているから〉(p.153)と述べる。しかしぼくと違うのは、まさにその怒りを〈徹底的にやりこめて〉やろうというところまでトコトンやりつくしていることである。それがこの本の前半である。
 そこには論理としては納得いかないというものもないわけではない。
 しかし、ぼくはそこに湯浅の実にまっとうな、人間らしい健全な怒りを感じる。




「活動家」になろう! そして活動家は本書を読もう!



 そうかと思うと、本書の後半では、〈「こうだろう」という意見を言いながら、でもどこかで「そうじゃない意見もあるでしょうね」ともう一歩引いた視点をもっている。我を忘れてはいない。反対意見を受け入れる余地(“溜め”)がある〉(p.265)とのべ、〈怒りに任せて、活動し、発言すると、どうしても言動に人格がどーんと乗っかってしまう〉(同前)という状況を批判している。

〈同じ状況下でも、どこかでそれが自分の全部じゃないという留保がかかっている人がいる。「私もいいかげんですけどね。へへ」っていうところが残っている〉(同前)

 そのような余地を残しておくことを湯浅は自戒し、他人にも勧める。〈黙らせること。それが自己責任論の目的だった。私たちの目的は逆だ。しゃべってもらうこと。モノ言える社会にしていくこと。自己責任論と同じになっちゃいけない〉(p.267)——そのような理由から湯浅は反論をむしろ引き出し、問題を共有したり説得されたりする余地を残しておくことを大いにすすめるのだ。

 たとえば自己責任論のなかにだって、そこに積極的な要素をみいだして、たとえば自立につながるヒントがあるかもしれない。そういうつもりで相手のいうことに耳を傾けるというのはたしかに必要な姿勢なのだ。お互いをモメントに落としてより高い見地で総合しようとするこの態度はまさに弁証法である。

 本書の後半は、ではどうしていけないいかということを真剣に説く。社会的連帯とはどういうことかをわかりやすく書いている。そしてそうした活動にうちこむ「活動家(アクティビスト)」や「プチ活動家」たることをすすめている。そのなかで活動家とはどういう態度でなければならないかを論じたところで、こうした「みんなにしゃべってもらう」溜めをつくることを述べているのだ。


 ぼくは読書会や勉強会のチューター役をつとめることがあるけども、「黙らせる」ことになっていないかどうか気になるようになった。ある講演で「紙屋さんの話は問題を開かれた形で提起しているので、いい」と言われると心の底からうれしかったし、逆に質問が一つもでないと「黙らせてしまった」と心底がっかりする。「みんなにしゃべってもらう」活動家でありたいとこの本を読んで強く思った。

 「活動家」である人には、本書は必読である。
 できれば「独習指定文献」(笑)にでもして、ぜひとも討論したい1冊だ。





理論社
2009.11.1感想記
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