藤子・F・不二雄『ドラえもん』11巻精読
世界の設定を緻密におこない、できうる限りディティールの「リアル」さにこだわる昨今のファンタジーからすれば、藤子・F・不二雄、すなわち「F」のSFのなんと簡潔なことよ。
ストーリーも絵柄も「大ざっぱ」で、そんなトゥリビャルなことにはいっこうかかずりあう様子もなく、ジャイアンの母親が「買いものに、バスにのって行ったよ。」と状況をあっさり説明し、ジャイアンが「あっ、みんな楽しそうに遊んでる。」と叫ぶ。それだけでするすると物語が流れていってしまう。細部に神を宿らせようとする凡百の試みがアホらしく見えてくる。

説明の簡潔さの妙(藤子『ドラえもん』11巻p.20)
Fは「もしもボックス」という道具一つで、日常生活のまっただ中であっさりと社会原理の転倒をやってのける。Fの他のSF短編でもしばしば登場し、Fが好んだ手法の一つだ。
本巻では「もしもたこあげも羽根つきもない世界だったら」という世界を設定する。
Fはキャラで遊ばない。
のび太、スネ夫、ジャイアン、しずかちゃん、というのはまさにキャラ遊び、キャラ依存ではないのか、という疑問もおきるかもしれないが、これはたんなる物語をすすめる上での「役割」にすぎない。じじつ、「オバQ」でも「パーマン」でも似た役回りの人間が配置されている。「モジャ公」冒頭で出てくるピテカンとそのとりまき、主人公にやさしくする女の子、という構図もまた同じ。安定の構造。そこに過剰な思い入れをするのは、キャラクターで遊ぶことにすっかり馴れきったぼくらの側が、そのような思い入れをしているにすぎない。
「テレビ局をはじめたよ」のエピソードでは、自分がテレビ出演(のど自慢系)したことを自慢する、あきらかに「スネ夫」的役回りを「木鳥高夫(きどり・たかお)」なる人物が演じ、スネ夫は登場しない。そこにはキャラクターには何の執着ももたないFの姿がある。
ところが、それを逸脱して思い入れをする瞬間というものもある。
「ジャイアンの心の友」というエピソードは、おそらく本巻中もっとも有名なものであろうが、ジャイアンが「歌がヘタで、聞かせたがっている」という性格づけで作者はしっかりと遊んでいる。
ジャイアンのレコードジャケットに影を入れるのは、相当な思い入れである。
このようにキャラ依存をしないFの精神の均衡が崩れた一瞬こそ、キャラの魅力が爆発する。だれもがこの回のジャイアンを、その横暴ぶりにもかかわらず愛しているのではないか。

Fの思い入れ(同前p.170)
「からだの部分とりかえっこ」は、オトナの空気がただよう短編である。アダルト指定。
物語の始まりの空気が、他の短編とちがって、思わせぶりであるところがすでに違う。
さっき、「ドラえもん」においては、実にさくさくと話がすすむことを述べたが、この回の冒頭では理由もいわずにのび太がしずかちゃんをつれだすシーンが1ページ(7コマ)も使ってゆるゆると描かれる。しかも思わせぶりで、何か企みげなのび太の様子。
「いっぺんでいいからスラスラッとやってみたかったんだ。
宿題をね。
なんのくろうもなく……。
いい気持ちだろうな。
(「やればいいじゃない」――しずかちゃんのツッコミ)
そうはいかないよ。
ぼく 頭悪いだろう。
きみはいいけど エヘヘヘ……。」
目的もつげずにしずかちゃんを連れ回し、「ちょっと! どこまでいくのよ。」ととがめ立てされるほど遠くにつれていく。ついた先は雑木林。のび太の友人であるドラえもんが待ち受ける……相当にエロティックな展開だと思わないか? 「機械が大きくて家の中じゃできないんだ。」とのび太が説明するが、なぜ遠方の雑木林である必然性があるのか。
そして、「カラダの交換」をそこで行うのである。
しかも、しずかちゃんの美脚、白ソックス、ミニスカートを興奮して眺めるドラえもん。

興奮するドラえもん(同前p.140)
やがて、ドラえもんが、ジャイアンが、スネ夫が、次々に「しずかちゃんのカラダ」を自分のものにしてしまうのである。
うわー、いやらし。エロエロ。
便所のエロ落書きが、女性の胸と尻と性器をくり返し描くように、性が商品化される社会では、胸も尻も性器も人格やその人の歴史とは切り離された「パーツ」として偏愛の対象とされる。
「ロボットペーパー」。
紙ずもうでさえ弱いのび太。紙の細工がそのままロボットとなる道具を出してもらい、勝利する。ぼくも一人で1日10場所くらいやっていたから、その熱中ぶりは理解できるんだけど、今の子どもって、紙ずもう、やるの?
「いやなお客の帰し方」。
のび太のパパの会社の社長が、正月の来客対応の煩雑さをさけるために、のび太家に転がり込んで、勝手なことを言う。それを追い返す話。
「運動会 抜くなその子は課長の子」というサラリーマン川柳が詠まれたのは、バブル末期。人格的従属をともなう日本型経営の変容は、このような物語を過去のものとしたのであろうか。
「雲の中の散歩」。
スネ夫に借りたたこを探しに、体の中にガスを生成する「ふわふわぐすり」を飲む。雲の間で遊ぶ大きなコマは、まさに子どもの夢そのもの。
タケコプターがあるのに、ガスを体内に生成する「ふわふわぐすり」を考案したところに、Fの細やかさを見る(この話の中でタケコプターも登場し、Fが両者を使い分けていることがわかる)。
「おおかみ男クリーム」。
丸いものをみると狼に顔が変身してしまうクリーム。まちがってのび太のママがつけてしまい、事態の拾集のためにのび太ではなく、ドラえもんが単独でママを追跡する珍しい話。
そもそもドラえもんが丸いんじゃねえの?
「ネジまいてハッスル!」。
勉強でも遊びでもせっかくのび太が決意をするのに、「のろま」であるがゆえに評価されず、すべて意欲をそがれていく。そこでドラえもんが出したネジを体にまいてみると、ものすごいスピードで仕事がすすむのである。
しかし、これは子どもではなく、大人の欲望であろうと思う。
「名刀〔電光丸〕」。
宮本武蔵の話に感動したジャイアン。実験台にならぬようにジャイアンの演説中に逃げ出そうとしたのを見とがめられ、ジャイアンの怒りを買うのび太。決闘を申し込まれる。
そこでどんな敵にもレーダーで相手の動きを捕足して倒してしまう「電光丸」をドラえもんに渡される。立ち向かう度胸さえあればいいのだ。
ジャイアンをさんざん待たせたあげく、風邪をひかせて帰らせてしまうというオチは痛快であるが、風邪が治ったあと、のび太は半殺しにされたのではないか。コートを着て伝達のために夜中まで立っているスネ夫もすごいなと思う。
「おすそわけガム」。
「どうも近ごろ……。おやつがひんじゃくだなあ。ピーナツ一皿なんて、こりゃハトのえさだよ。」というのび太のセリフに激しく共感した覚えがある。自分がそうだったというより、あえかなるのび太の身を思って。
他人の食事の、味と舌触り、歯ごたえ、満腹感が共有(正確には一部の窃盗)できるガムである。「食べる」ということを要素に分解すればこのようになるのではないか、というFのいたずらっぽい考察の産物。オチが、ジャイアンだけ野良犬にガムをくわせてしまったために生ゴミを味わされるというのは、きわめてブラック。オエー、オエー。
「さいみんグラス」。
くり返し「目覚めるジャイアン」の絵。「雲の中の散歩」でも出てくるが、かわいいよな、ジャイアンの目覚めって。
「Yロウ作戦」。
二軍落ちを不安視するのび太が、それを回避するため、それを渡せば絶対に依頼をことわれない「Yロウ」を使う。領収書の存在、記者会見の拒否、答弁不能におちいる不合理など、すべてが金権政治への典型的な政治風刺。
目が白くなったまま、すなわちYロウの機能に操られるまま、「約束」を果たさせるために雨の中のび太にボールをなげさせるジャイアンの姿は、子供心に強烈に記憶に残った。
「化石大発見!」。
ドラえもんとのび太による、化石捏造。在野学者の有頂天と落胆の描写は、今日では、まったくしゃれにならない。
「自動販売タイムマシン」。
過去と未来の品物が買える自販機。昔のものを買って高く売ってもうけるのび太。「みんながよろこんでくれて、ぼくはもうかって、こんないいことあるかしら」。スミス以来の「市場原理」を、ナイーブかつ臆面もなく称揚するのび太(下図)。
管理通貨制度のもとではインフレが恒常的なのだと、子どもたちは学びます。

「中谷巌」化するのび太(同前p.152)
小学館てんとう虫コミックス
全45巻
2005.1.19感想記
※画像については必然性、一部性、出典明記という引用の原則によりました。
※15巻の感想はこちら
この感想への意見はこちら
メニューへ戻る
|