三田紀房『ドラゴン桜』



※13〜14巻の感想はこちら

ドラゴン桜 (1)  ずさんな経営で破産状態におちいった龍山高校。
 ヤンキーあがりの弁護士・桜木健二がその再建にとりくみ、「小学校低学年の問題でさえ危うい」生徒ばかりの高校を、毎年東大に百人進学する「超進学校」に変えようとする。まず最初の年は、水野という女子と矢島という男子の二人を東大に入れることでこの計画を承認させようとするところから物語ははじまる。

 こう書くと、男性青年誌漫画の荒唐無稽さが大爆発したパターンだよなあ。
 ストーリーを聞いただけで漫画を放り投げて、どっかへいってしまいそうなやつがごまんといそうだ。

 ぼくのつれあいもそのひとり。
 毎週「モーニング」誌を読む機会があるようだが、「なにこれ? 馬鹿じゃないの」と鼻で笑う。斎藤孝はうさんくさい、と決めてかかるあの態度と同じだ。

 たしかにうさんくさい。


生理的に拒否したくなる原因

 この漫画を生理的に拒否したくなるのは、まず絵である。
 青年誌に載せているくせに、女性の造形が壊滅的で、ここまで欲望を惹起しない描き方というのも、ある意味ですがすがしい。井野という若い女性教師などは、後ろを結っているのだがどうしてもちょんまげに見えてしまう。顔も、しみじみ見ていると人間ではない何かである。

 さらに拒絶反応を精神に引き起こすのは、物語の図式化だ。反吐が出そうである。
 学校の破産状態をつげる教職員の会議で突然演説し出す組合のリーダーは、頭に「団結」という鉢巻きを巻いてこうアジる。
「我々はあ… 聖職者であある! 資本家の利益追求の手先ではない! 今こそ団結し生徒と我々の権利を守ろう」
 あるいは、桜木の再建策に反対する青年数学教師・高原は、「現実的」再建方針を青臭い言葉で次のようにのべる。
「それはつまり生徒にとって魅力ある学園 一人一人の個性を尊重し人間性と思いやりの心を育む環境に整備し直すことです」
 いかにも居酒屋談義の場で矮小化されたような人物形象が設定され、それを主人公の桜木やらが、胸のすくような快論でブッタ斬っていくという構成なのだ。

 低学力で荒れ放題だった高校生たちが、もうしわけ程度の葛藤で「成長」していく様子も、現場を知る人からみれば失笑を禁じ得ないだろう。



『素直な戦士たち』を思い出す

 そして、この漫画の核心である、受験のテクニックとそれを駆使することの大義名分も、おそらくぼくのつれあいのような人間からみると、そのうさんくささの最たるものかもしれない。
 ぼくは、この説きように既視感があると思っていたのだが、ああそうだ、城山三郎の小説・『素直な戦士たち』で息子の英一郎を東大に入れようとする母親の千枝が話すことによく似ているのだ、と気づいた。

 たとえば、桜木は水野と矢島に、東大に入った後はなにをすればいいのかと聞かれ「んなこたあ 知ったこっちゃない」と突き放す。

「大きな関門通してやるんだ あとはてめえでなんとかしろ いいか! 学校ってのはな 言うなりゃキップ売場だ 目的地までのキップは用意してある それを決めて買って乗るのはお前らだ だがな俺が売ってるのはそこらのキップとはちがう 東大行きという超極上のプラチナチケットだ これを買えば旅の初めは大変だがあとには見事な絶景と快適な列車が待っている 買わなきゃ一生ボロ汽車で断崖絶壁走るんだ」

 これは『素直な戦士たち』の千枝が“東大に行かせてやればその子はあらゆる選択肢を手に入れることができる。一流企業の社員になるのも乞食になるのも自由だ”といって受験競争の勝者となることが子どもにとって最善の利益だと説くのに、非常によく似ている(小説では英一郎はそのときに比喩で出された「乞食」に興味をもってしまうのだが)。

 また、『ドラゴン桜』では、しょっぱなに水野と矢島は数学の強化合宿をさせられるのだが、その説明のときに、桜木はこう説く。

「朝は数学など思考力を必要とする問題を解くのに適しているからだ さらに起きてから3〜4時間後 最も脳は活発に動く ここで数学をやるのが一番なのだ」
「昼食をしっかりとったあと昼寝を30分 昼寝をする直前 緑茶などカフェインの強いものを飲む これは寝すぎないためだ」

 これも、『素直な戦士たち』で千枝が、なにそれを食べた方がいいとか、どういうおもちゃの方が脳に刺激があるかとごたくを並べるのを想起してしまう。
 城山は千枝のこうした受験生理学を冷笑的に扱っていたが、そういう雰囲気というのは世間一般にあって、まさにぼくのつれあいなどもその一人だろう。


 このように、『ドラゴン桜』は、あらゆる角度から「うさんくささ」や「拒絶反応」に囲まれている。



方法や技術に自覚的な人には面白い

 にもかかわらず、ぼくは面白く読んだ。
 その証拠に、現在出ている7巻まで一気に買って読んでしまったからである。
 夢中になった、といってもいい。

 それは、物語の図式主義ぶりや人物造形の粗雑さを無視すれば、おのおのの場面で説かれている受験技術、そしてそこから普遍化される教育、ひいては対象にとりくむ方法は、非常に正しいからである。

 「方法」や「技術」についての自覚がない人間、あるいはそれらを意識化しようとしない人間には、この本はひどくうさんくさいものにしか映らないだろう。名選手が必ずしも名コーチではないように、自分が体得してきた過程を言語化し、さらにそれを他人に教授するには特別の技術や方法が要る。そのことをこれくらい微分して、しつこく説いている漫画はちょっと他に例がない。そのことをたえず考えている人には、これほど面白い漫画はない。



「英語はどう勉強したらいいですか?」

 任意の巻、3巻をとりあげてみよう。

 特別進学クラスには、教科ごとに教師が現れ、そのテクニックを披露する。
 3巻には英語の教師・川口が登場する。

 まず、川口は水野と矢島がどこで英語が嫌いになったか、どれくらいダメになっているかをチェックする。
 人力検索などを見ていると、中学生・高校生が受験のカテゴリなどで「英語はどう勉強したらいいですか? もうすぐテストなんで焦っています」などと質問してくるのをよく見る。
 中高生だから仕方ないのだが、「英語はどう勉強したらいいですか?」などという質問の仕方が、もうダメだ。自分が中学生なのか高校生なのか、つまりどの段階のなのか何も情報を提供しない。
 くわえて、その人がどこでつまづいているのかが問題になる。この中高生の質問はやはりそのことに何の情報も提供していない。ダメ質問の典型だ。
 受験英語や学校英語というのは、努力が正確に反映する教科で、基礎からつみあげていけば必ず高得点をとれる教科であるとぼくは思う。したがって、どこでつまづいたかがわかるとそこまでさかのぼればいいのである。
 そしてそれはたいてい、最初である。
 水野も次のように告白する。

「いつって……もう中1の5月とかには授業チンプンカンプン」

 川口は、水野や矢島が書いた英文の日記を読んで、「なんとか単語をならべて書こうとする意欲」があることを評価しつつ、「英語に対して身構えてしまって気持ちが硬い」とみて「“英語は難しい”という意識を壊す」ことからはじめる。

 川口は二人を体操服に着替えさせてビートルズを歌わせながら踊らせる。
 もちろん、聞き取れたようにデタラメでいいから、である。

「そうなんだ! 特にビートルズはほとんどが中学英語で理解できる また歌詞が抽象的じゃなくストーリー仕立てになっているからわかりやすい これらを分解すると結構よく使われて試験にも出る基礎的な熟語も多い」

 ぼくも受験とは意識しなかったが、ビートルズにハマッていたのがちょうど中高生のころで、ほとんどこれしか聞いていない時期もあった。はじめはこの水野と矢島のように聞き取れる言葉だけを声に出すだけ。だから、フランス語だって歌える。そう、清水義範のパスティーシュのように。ぼくは「ミッシェル」を次のように歌っていた。

「ミッシェル マベル サンキソンデエイキュセナソン レフュナソン アイラビュー アイラビュー アイラビュー」

「シー・ラブズ・ユー」はこうである。

「シロッチューイエーイエー シロッチューイエーイエー シロッチューイエーイエーイエー」
「シセズロッチュー アンジュノウザッキャンビーバッド イエシロッチューアンジュノウユシュビグラー」

 しかしこのままだと恥ずかしいので、歌詞を正確に覚えて歌いたくなる。

「何度も繰り返し聞いて歌ったあと 歌詞を和訳してみる わからない時は前後から想像してみる それでもダメなら歌詞カードを見る 内容を把握してまた聞いて歌う これを毎日1時間やれば中学の教科書はもうだいたい勉強したことになってしまうのさ!」

 この川口の言葉はまことにその通りである。
 ここまでキッチリとはやらなかったが、書き出したり必死で覚えたりしたもので、かなりルーズな英語だから、学校で痛い目にあったこともある(ビートルズの「イット・ウォント・ビー・ロング」の「It won't be long till I blong to you」のtillはbeforeでないといけないとされた)。だが、受験英語を自分に身近なものにしていくうえで、たしかにビートルズは役に立った。しまいには、ギターや歌詞本まで買ってすべて覚えようとした(挫折したが)。

 つづいて、川口は大学受験では覚えるべき必須単語は限定されているとして『英単語ターゲット1900』をすすめる。また、英単語は無意味なアルファベットの羅列ではなく、漢字の熟語のように意味で構成されているものだと教える(たとえばcultivateにはcultureのcultが入っていて、どちらも「耕す」を語源としている)。
 この二つは、中高生には革命的なことだ。前者は、高校受験に出る単語は中学の教科書からとほぼ決まっていたが、大学受験はそうはいかないので、頭を悩ませる問題だが、「これだけでいい」とはっきりと限定されることで目標が明確化される。
 後者は、「呪文」のようにみえるアルファベットの羅列が日本語のように意味のあるものに見えてくるので、中学生のときに知っておくといい。
 この二つを兼ね備えていたのが、有名な『試験に出る英単語』(青春出版)で、ぼくも結局これにお世話になった。

 そして最後に、英作文を重視する。
 川口は、日本の英語教育は欧米へのキャッチアップを重視した近代草創期型の教育で読解が中心だったが、これは「畳の上の水練」だと批判し、まず水にとびこんで必死にもがいているうちに泳ぎ方が身につく、とのべそれが英作文なのだ、と主張する。

「読み方や文法の学習はどうしても受身の勉強 気持ちが受け身ではダメ 始め(ママ)は訳がわからなくても 無理矢理使って積極的にならざるをえない勉強法がいいんだ そして“英語”を“使う”というのは“英作文をする”ということなんだ」

 ぼくは大学受験のとき、1つの問題集を使って1日10の英作文をつくるようにしていたのだが、たしかにこれが一番英語のなかでは楽しかった。創作的だからだ。そしてキレイな英文にはならない。中学英語の組み合わせのような文章になる。しかし、それでいいのである。川口は東大の英作文として次のようにのべる。

「英作文は自分のよく知っている単語 熟語 文法だけを使うこと…… これは鉄則だ!」「(東大の自由作文は)自分の知っている英語だけをミスなく使えばつたない英語でも満点は無理として減点は極力抑えられる つまりかなりいい点が取れるんだよ」

 人力検索で、さっきのような質問(「英語はどう勉強したらいいですか? もうすぐテストなんで焦っています」)にたいして、英語の映画をみたりすることをすすめる人がいるのだが、それは一般的な英語取得方法であって、「受験英語」の方法ではない。対象を明確にし、ある期間で点数をかせず、という明確な目標を考えた場合、方法はおのずと定まってくるのである。


 おそらく、どの教科にしても方法にかんする「エッセイ」であるから、それこそ三田がこの本で国語教師・芥山を使って説いている「筆者との心のキャッチボール」をすることができる。方法や技術について自覚的な者だけが。



受験技術だけではない面白さ

 教科だけでなく、それ以外の問題でも『ドラゴン桜』は、「方法」について説く。

 7巻では、「もしA大を受けるといっていた生徒が目標を下げてB大にしたい」といってきたらどうするか、を考える。
 そこでは「相談を受けるポイント」をつうじて、桜木がヘルプとサポートの違いを明らかにする。

「正解は 生徒の言ったことを繰り返す……だ」
「相談を受ける時に最も重要なポイントは……会話を切らずに続けること 話をしている人は自分が言ったのと同じことを少し違った言い方で繰り返されると言ったことが理解されたと思って話がしやすくなる 心の扉が開けば自然と言葉は出てくる 生徒が悩みごとを自ら言葉にして話せるだけで問題は解決に近づく 生徒を信頼して生徒が自力で答えへたどりつけるよう話をする気にさせるだけで十分な手助けだ」

 この相手の力を信頼し、その力を引き出すことに努力するのが「サポート」だというわけである(ヘルプはなりかわってしまうこと)。

 あるいは、2巻で桜木は、「カタにはめるみてえなことを連発されると頭にくる」と怒鳴る矢島にこう毒づく。

「“カタ”がなくてお前に何ができるっていうんだ 素のままの自分からオリジナルが生み出せると思ったら大間違いだ 創造するってことはまず真似ることから始まるんだ! 基礎となる“カタ”をまず身につけそれを工夫とアイデアでアレンジしていくんだ! てめえにその基礎があんのか!」

 これは戦後の民主主義教育運動が説き続けてきた「国民的基礎学力」観そのものである(これが反動派によって曲解され「戦後民主主義は悪平等をめざす教育をしてきた」などと言われてきたわけだが)。

 こんなことがずっとつまっている。
 ぼくは面白かった。圧倒的な面白さだ。
 ときどきに挟まれるドライな人間観を別として純粋に方法や技術の問題として読めばもう夢中になるしかない。いいんだ、ホリエモンがいくら推薦文を書いていても恥ずかしいことなんかない。



中高生が読んで面白いのか?

 しかし、はたと考える。
 これをいま勉強している最中の中高生が読んでどれくらいピンとくるのだろうか。さきほど人力検索の中高生の質問を例に挙げたが、「英語っどうやって勉強すればいいの? 明日テストなんだけど」という質問からは、明確にされた障害を具体的にとりのぞうこということがまるで見えずに、英語の勉強一般というものが存在しているという錯覚があるのだということがわかる。そういう人が『ドラゴン桜』をどれくらい「なるほど」と思って読むのか。

 つまりぼくが危惧するのは、これは受験勝者だった人間が後から振り返って納得できるものであって、いま受験にもがき苦しんでいる人には、「まあ、そういうこともあるのかな」程度には納得できても、それほど強い説得性はもたないんじゃないかということである。

 だから、この本は受験生が読むのではなく、それを教える側の教師、親、あるいは上司や指導的地位にいる人が読むべきではないかと思う。

 もし中高生でこれを読んでピンときた人がいたら教えてほしいのだが。






補 遺

 と書いたら、高校2年生だとおっしゃるかたがメールをくれました。一部変えて、本人のご了解をえて、転載させていただきます。

(引用ここから)

 高2の●●と申します。
 紙屋研究所さんの「ドラゴン桜」についての記事の中に、『これをいま勉強している最中の中高生が読んでどれくらいピンとくるのだろうか。』とありましたが、私は「ドラゴン桜」が面白いと思いました。
 最初、親が買ってきたのですが、そのときドラゴン桜の話を聞いたときは「うさんくさ〜‐‐;」と思っていました(笑)でもしつこく薦められて読んでみると、なるほど、と思うことばかり。高校受験のときほとんど勉強せず、大失敗をしたためかそれから結構勉強について考えていたので、読んでみてとても勉強になりました。
 これから、最新刊まで全部集めて色々勉強させてもらおうと思っています。

(引用ここまで)

 そうか、やっぱり面白いと思うわけですね(親御さんが買ってくるというのもすごい)。
 それにしても、『ドラゴン桜』はあくまで勉強「法」なので、勉強そのものはがんばってくださいね……。



講談社モーニングKC 1〜7巻(以後続刊)
2005.6.17感想記
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