逢坂みえこ『永遠の野原』


永遠の野原 (1)

※ネタバレがあります。


 ある知り合いの女性に、彼女の読んだ少女漫画の歴史を聞いたとき、満タンの水袋の底に針で穴を開けてしまったように、次から次へ次から次へ次から次へ次から次へ次から次へ次から次へ次から次へと溢れ出してきてびっくりしたことがある。
 外見的にはそのようなことには縁がなさそうに見えただけに、二重に驚いた。

 男の子と違って、少女漫画は女の子にとってかなり重要な教養で、世の女性は少女時代、だれでも漫画ヲタであり、虚構の主人公に夢中になり憧憬し、恋をしたことがあるはずだと、その知り合いの女性はのべた。そうであるはずなのに、大人になれば「あら、そんなことございましたかしら」という顔をして、仕事をしたり主婦をしたりしている、というのである。

 ふつうはコンパクトに小さくしまいこんでしまうものだが、少女漫画によって培養された〈叙情〉を、女性はどこかに飼っているというのが、その知り合いの仮説である。

 少女漫画に埋もれている、ということだけにとどまらず、当たり前だが、ひとは、子どもの時代、自分と世界の境界を明瞭に欠いた、甘ったるい叙情的な存在である。


 〈少女の叙情〉から、〈大人の現実〉へは、切断したように突然切り替るものではなく、当然だが過渡期がその間に横たわっている。高校生から大学生、社会人といった、おおむね結婚前までの時期である。



過渡期のバイブル――甘ったるさとリアルと

 1991年講談社漫画賞を受賞した『永遠の野原』は、この過渡期に読むべき、偉大なバイブルだ。
 ぼくは、学生時代につれあいにこの作品を読まされたことによって、ついに「女性漫画誌」という禁断の扉をあけるハメになってしまったのである。
 おそらく、虚構や空想に生きるその前の時代に読んでも、あるいは、社会人・既婚者になった後の時代に読んでも、ダメであっただろう。過渡期の人のみが読むことができる、限られた人のための、しかし絶対必須の青春のバイブルである。


 男子高校生・古屋二太郎を主人公に、その姉の小説家・古屋一姫、友人の石田太、野沢ひとみなどを主要な脇役として物語が展開されていく。二太郎の恋愛と、その傷つきながらの成長をえがく、ビルドゥングス・ロマンだ。
 二太郎はどう贔屓目にみても二枚目のように造形されているが、そこはそれ、読者サービスということで、漫画の設定上では特別美形でも醜悪でもない、いたってフツーの高校生として設定されている。ちょっとシスコンだったりする以外には、特別な個性=歪みを持っていないキャラクターで(ふつうに屈折し、ふつうにコンプレックスをもっている男の子なのだ)、その「ありきたりさ」がこの物語に童話的な普遍の枠組みを与えている。
 女子高校生ではなく、男子高校生であることによって、女性読者は、二太郎を客観的に見ることがおそらくできるだろう。

 くわえて、この物語には、かならず「みかん」という、古屋家の飼い犬が登場する。
 「みかん」は不安のあまりもらった骨をあちこち変えてみたり、嫉妬のあまりクツの上に粗相をしてみたり、自分の体に訪れている初潮という変化を理解できなかったりする。
 犬であるから、何も衒いがない。
 喜怒哀楽を、わかりやすく、極端にあらわす。
 物語は必ずこのみかんの感情の起伏を比喩にして進む。二太郎そっくりの、あるいは登場人物そっくりの感情を「みかん」は示す。だから、読者は「みかん」という犬、すなわち十分に客観視しうる形象を通じて、その気持ちの揺れというものを対象化することができる。

 二太郎という男性、みかんという犬――こうした女性そのものではない存在を通じて、逢坂はわかりやすく、実にわかりやすく、少年少女にたいして自分たちの気持ちを客観視させる。以前、逢坂にたいしてぼくは「とてもわかりやすい」と評したが、シェーマを用いた「わかりやすさ」を提示する逢坂の真骨頂がここにある。

 しかし、それは、吉野朔実のような徹底した、つきぬけた客体視とはちがっている。
 『永遠の野原』というタイトルが示すものは、ひとがそこにくり返し立ち返る叙情の場所を指すもので、その場所が実体験にもとづくものであろうとなかろうと、その場所は「永遠の野原」のように叙情に包まれ、少女の内的な世界のままである。そこでは自分の意識と、他者や世界との区別があいまいなままだ。
 『永遠の野原』は、半身がたえずこのような叙情性に浸かっている
 それを抜け出してリアルな現実世界にうつる過渡期、世界は客観的なものであり、自分の意識とは独立しているのだという唯物論的な観念が、ぼくらのなかにすべりこんできて、叙情のヴェールを急速に剥がしていく。

 たとえば、二太郎は通学の途上、マリコという女性を好きになる。
 マリコは髪の長い美少女だ、とまず二太郎には見える。そして漫画造形的にもそのように描かれている。ただ、最初に、二太郎の友人である野沢と太が遠くから検分したとき、その二人には少なくとも「その車両のなかでは一番の美人」であるかどうかは判断がつかなかった。それは「二太郎のヴィジョン」にとって「最高の美少女」でしかないのである。
 また、二太郎は、聖メアリー女学院附属に在学するマリコに対して、髪の長い、深窓の淑女のように勝手なイメージを抱くのだが、実際に話してみると、まったく逆の、むしろ二太郎が「メスゴジラ」として忌諱する野沢ら同校の女子生徒たちな趣味と生活の持ち主であったことに気づく。

 ちょうど少女漫画の虚構を一つひとつ種明かししていくように、叙情のヴェールが剥がされていく。

 かといって、逢坂はこのあたりを、たとえば安彦麻理絵のように露悪的に描くわけではない。
 たとえば、二人が誤解をときあってお互いの犬のことを夜までベンチで語り合う。しかし、犬のことを話しているようで「拾ってきたときは 人みしりのはげしいこまったちゃんだったけど あせらずに 時間をかけて つきあったら 気持ちっていつか通じるものなのね」とまるで自分たちのことを話しているかのように移行していく。そして、突如雲間からあらわれた月をみつめ、「……! きれい……!」と叫ぶマリコに見蕩れながら、二太郎は「…うん きれいだ ほんとうにきれいだ」とつぶやくのである。
 あるいは、二人がはじめて野原で犬をつれてデートする。親と同居していないことをめぐってつい「自分語り」をしてしまった二太郎を、マリコは少しうれしそうに眺める。「うれしいっていったらいけないかもしれないけど うれしかった 古屋くんがお家のこと話してくれたの初めてだもの お父さんのことも お母さんのことも 子供のころの思い出も 今 古屋くんが考えてることも 古屋くんのことなんでも知りたいもの」。そういえば自分も大の親友である太にもこんなことを話したことはなかった、といって少しはずかしそうに野原でみつめあうのである。
 ここには、高校生男女のリアルはなく、叙情があるだけである。

 ことほどさように、みかんの比喩を通じながら、二太郎の恋と成長を客観視するまなざしとともに、その恋愛は、いまだ揺籃のなか、甘ったるい叙情のなかに埋もれている。ここにこの漫画の最大の特徴がある。

 マリコと二太郎の恋愛は順調にいくようにみえて、実はマリコが怖がっていたはずの太に、マリコ自身も気づかぬまま惹かれていたという波瀾の展開を待ち受けさせている。
 あのやさしかったマリコが、まるで何かに憑かれたように太にまとわりつき、二太郎に冷たくあたるという様は、読む者の心をしめつけずにはおかない。まさにドラマ。そのけれん味は、たしかに少女漫画のそれであるが、しかし、「いい人」である二太郎が、ある種の女性にとっては、魅力に欠けるという存在であるというのも、また人生のリアルな真実ではある。



「永遠」とはなにか

 逢坂が示す「永遠」とは、あるいは、その叙情とは、ラストのモノローグにしめされている。

「雲が流れるより速く
 僕たちは変わっていく

 永遠に変わらないものなんて
 ありえない

 だけど

 色褪せない
 なつかしい光景を思い出すだび

 みずみずしい
 幸福感がよみがえるたび

 やっぱり僕は
 永遠を信じてしまいたくなるんだ」

 これまでも述べてきたように、『永遠の野原』のあいだ中、現実に流れている時間は、過去の甘い記憶や、あるいは幻想を絶え間なく打ち破っていく瞬間でもある。とくに、最初にのべた「過渡期」という人生の時期は、こうした甘い叙情が生み出されていく「最後」の時代ともいえ、その甘さがその場で否定されていく時代でもある。なぜなら、彼/彼女らが甘い恋愛の頂点を生きていると同時に、大人になりつつある主体自身のなかにすでにきびしい客観主義の視線が育ちつつあるからである。
 たとえ、そのとき恋愛が進行していようとも、ぼくらはそのときを精一杯生きているわけで、たいがいは、それが「永遠」を生み出している瞬間だとは思いもよらない。ぼくらは、逢坂のしめす「おとぎ話」、ひとつの虚構の枠組み、わかりやすい図式の世界に戻ることによって、初めて自分たちが今生きている瞬間に永遠が生まれているかもしれない、ということを知るのである。

 吉田秋生『櫻の園』には、「初体験」のときのことを自分はいつまでも忘れないだろうという「叙情」が出てくる。姉が、自分は初めての人のことを永遠に忘れないだろう、と涙を流して語るシーンがある。そしてその妹もまた、初体験をしながら、あたしはたぶん今日の日のことを忘れないと、感じるのである。大人になって、そばにいる人がこの人であるかないかにかかわらず、自分はこの瞬間を永遠に封印しておくのだと涙するのだ。

 『永遠の野原』第44話「遠い日の花火じゃない」は、このことを端的にしめすエピソードである。
 「恋は、遠い日の花火ではない」は、1994年にうちだされたサントリーオールドの宣伝文句で、小野田隆雄の秀逸なコピーである。すべてがぼんやりとしてくなかで、美しさだけがいやましていくという様を実に見事に表現している。
 タイトルでは「遠い日の花火じゃない」と否定しているが、話のなかで出てくるのは、マリコが太に恋狂った日のこと、あるいは、二太郎が電車でマリコを見かけた日のこと、であり、それはまさに「遠い日の花火」そのものである。
 永遠に封印された美しさや叙情は、「遠い日の花火」であり、それこそ「永遠の野原」の核心である。
 この話が「〜じゃない」と否定のタイトルをつけているのは、いったん破たんしたはずのマリコと二太郎の物語が再生されようとしているからである。今日いまこの瞬間に、まさに「花火」といいうる美しさを生産しつづけているのだという決意であり自負だ。だが、このような力強さは、おそらく過渡期特有のものだろう。

「花火をするたび
 きっとこれから思い出すわ
 今日の花火と二太郎さんのこと」

 いま「永遠」を生み出しているのだというこのマリコのセリフは、過渡期の人間のみが言いうるセリフである。

 だからこの本は、必ず過渡期に読まねばならない。





『永遠の野原』
集英社文庫 全9巻
2005.3.15感想記
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