森薫『エマ』

(ネタバレがあります)


エマ (1)

 第4巻を読む。
 メイドであるエマと、貴族であるウィリアム・ジョーンズの再会シーン。
 身分違いの恋、という、いったい現代で受容されるのかどうなのかわからないとあやぶんでいたテーマは、見事に炸裂し、激しく感動した。
 心はスタンディング・オベーション状態

 1巻より2巻、2巻より3巻、3巻より4巻とどんどんよくなる。
 やめずに読んでいてよかった。


 この漫画が、メイド萌えの漫画であるかどうかずっと悩んでいたが(いや、世界にはもっと悩むべきこともあるのだが)、結論として、やはりメイド萌えではないだろう、ということになった。

 メイド萌えの中核にあるのは、主従という人間関係への欲望である。
 メイド服はその主従関係の象徴にすぎない。すべてのフェティシズムがそうであるように、人間と人間の関係が転倒し、物にたいする関係としてあらわれ、自立したイデオロギーとして動き出す。
 だから、メイド服があるかどうかは、ある人々にとっては重要なことかもしれないのだが、本質的なことがらではない。『藍より青し』(文月晃)のようなものや、別のヴァリアントとして「エプロン萌え」もある。

 エマとウィリアムのあいだには、身分の違いはあるが、主従関係は存在しない
 メイドらしい「慎ましさ」「従順さ」はあるが、それは別の主人にむかってのものである。
 だとすれば、『エマ』には、メイド萌えの中核が、微妙な形で欠落していることになる。

 もちろん、全体にあふれるメイド感はむせかえるほどで、だからこそ、メイド萌えでないと規定することはかなりの困難をともなう。
 「奴隷」ではなく「メイド」という造形を欲望する人々にとって、大事なことは、社会全体では主従という人間関係が消滅している、あるいは消滅しつつある、という前提であろう。そのなかに奇妙に残された主従関係に萌えるというわけである。

 だから、森がヴィクトリア時代のイギリスを舞台にしているというのは、実は正鵠を射ている。

 ほかの主従関係、たとえば奴隷ではなく、あるいは領主と家臣ではなく、すでに近代賃労働制が成立しているもとでの主従関係(『エマ』が産業革命後のイギリスを描いているのは偶然ではない)。人格的隷属は公式には廃止され、すべての人間は労働力商品の持ち主として平等であるのだが、そのタテマエのなかに擬制的な主従関係として残存しつづける。メイド労働自体は近代契約にもとづく賃労働なのだが、メイドの労働内容は、家内奴隷の名残りである、人格的隷属に似た「絶対服従」を要求される。
 世にあふれるメイド漫画のなかは、単純にメイドを家内奴隷のように描いてしまっているものがあるが、これは逆に「メイド感」を損なうものであろう。

 だから、『エマ』の奇妙さは、凡百のメイド漫画をこえ、ほとんどすべての条件を「メイド萌え」にむけてそなえながら、最後の一点、エマとウィリアムの人間関係においてだけ、その萌えを外している、というところにある。

 ではぼくらが眼差しをおくっている「エマ」とは、ウィリアムとの関係において、「メイド」でなければ一体なんであるのか。

 〈エマ〉とはだれなのか。

 それは、女子のクラス委員長(すなわち級長)である。

 いや、小中高時代のクラス委員長なんて、個人によってまったく体験が異なるのだから(たとえば森真之介の『HAPPY☆LESSON』ひとつをとってみても、クラス委員長の造形はこうではない)、こういう乱暴なまとめ方もないと思うが、無理矢理進もう。

 まずエマにかぶせられた高い「知性」が、おのずと「クラス委員長」的存在を彷佛とさせる。かつ「メガネ」であるというのも、「クラス委員長」的存在感にとって、非常に重要な点である。
 さて、ここまではいいかもしれんのだが、最後にのこるのは、エマの「謙虚さ」や「慎ましさ」といったキャラ規定だ。現実の女子のクラス委員長などというものは、このようなものとはだいたいにおいて無縁である。生意気。うるさい。正論家。攻撃的。すなわち非常に人間的。現実にぼくらが好きになったり恋をしたりするのは、そういう人間くささであるのだが、そういう人間としての豊かさは、欲望のための妄想のなかでは余計な夾雑物としてあらわれる。知性によって制御された結果として謙虚や慎ましさが立ち現れる。

 徹底して美化され聖化された女子のクラス委員長として「エマ」がある。その前にぼくは拝跪しているわけだ。


 森の公式ホムペや作品からみるに、女性である森が「メイド狂い」(なんかすごい表現…)であることはまちがいない。あとがきでも、関心のある時代のメイドをグラフにしているのだが、それを「主従関係」と表現している。森がメイドの核心を「主従関係」にみていることはうたがいない。

 にもかかわらず、森のメイドへの執着は巷間にあふれている男性諸兄の「メイド萌え」とはちがうものではないかと思うのだ。
 エマとウィリアムの関係は、いっそ少女漫画のそれに似ている。書き手が発信しているものはこちらに近いのではないだろうか。
 メガネをとると思わぬ美人に変身する。モテない女の子とあこがれの男子との「身分違いの恋」――これらは実は正統な少女漫画のテーマではないか。

 女性の書き手がまったく別の発信をしながら、受容する男性は、そこを外し、ある者は「メイド萌え」だと思い、ある者は「クラス委員長萌え」だと思っている。

 女性がメイドに「狂う」心情について、知り合いの女性からメールをもらったことがある。

 この女性は、森が「13才少女メイド!! バチーン 変なスイッチが入る」「すみません 自分の願望をつめ込みまくりました」と書いていたのを、「自分のなかにある少女性と解した方がよい」とのべていた。ウェディングドレスを着たい、という願望に似ているのだ、という。
 このメールを読んだとき、ははあ、女性なりにそういう願望をこの漫画に込められるのだなあ、とちょっとおどろいた。
 『シャーリー』でメイド服をきたシャーリーがくるっとまわってスカートをふわりとさせて喜ぶシーンがあるんだけど、これについても、その女性は「そういうフレアーのきれいなスカートをそうさせたくなる」とのべていた。ぼくなどは、このシーンをみて、植芝の『ディスコミ』に出てくるアレね、などと、男性欲望モードのつもりですっかり眺めていたのだが。


 ちなみに細かいことであるが、4巻のp.106の会話で、「ベルリンで社会党員」というのは、「社会民主党員」というのが正しいのではないか。


(念のため言っておきますが、ぼくには「メイド萌え」はありません)


※ウィリアム・ジョーンズは正式には貴族ではなく「豪商」の家柄。




『エマ』3巻の短評はこちら
『エマ』5巻の短評はこちら


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