松山剛『閻魔の弁護人』
――時雨沢恵一『キノの旅』にもふれて



ぼくの「地獄」の原体験


 家から3キロほど離れたところにかなり大きな閻魔を祀った祠があって、小さいころ祖母とそこを通るたびに、「ほれ閻魔さんだ」などといわれて、怖いような、遠いような気持ちになった。うす暗い祠のむこうでこちらを睨みつけている閻魔が原体験になってか、なぜか地獄思想に畏怖の感情を抱いている。

 「地獄草紙」に図鑑で初めて出会った時、食い入るように見た記憶がある。どこでだったか忘れたのだが、博物館で見た時も、つれあいとともにかなり長いこと見てしまった。
 「地獄草紙」は平安時代に描かれた絵巻物で、国宝になっているだけあって、絵そのものが秀逸だ。
http://www.emuseum.jp/cgi/pkihon.cgi?SyoID=1&ID=w002&SubID=s000

 燃え盛る炎のなかを裸で鬼に追い立てられる亡者、大量の糞尿のなかを巨大な蟲に襲われ続ける亡者、何度でも蘇生させられその度に鬼たちに体を引き臼でひきさかれる亡者……どれ一つとってみてもトラウマになりそうな出来栄で、これが平安末に地獄にたいする戦慄を引き起こしたであろうことは想像に難くない。

 しかし、それは果たして「絵」だけの力であろうか。
 たとえば『絵本・地獄絵本・地獄』という子どもむけの絵本が現代にあり(宮次男監修・風濤社、2003)、やはり食い入るように見入ってしまう。この子どもむけ絵本は、平安末の六道思想さながら、地獄の恐ろしさをもって道徳を説こうという、おどろくべき本なのだが、思わず「説かれて」しまったよw
 これは絵本であるが、国宝ほどの絵の力はない。
 やはり「地獄」という世界があらかじめもっているようにみえる異世界感は強烈なものがあり、それがぼくを惹きつけてやまないのだ、と考えざるをえないのである。



読ませる世界設定


閻魔の弁護人  松山剛『閻魔の弁護人』は、地獄が舞台である。
 そして、ストーリーに乗せてではあるが、前半ではかなり長く世界観(物語世界の設定)の「説明」をおこなっている。むろん平安時代の仏教での六道・地獄道の世界観そのものではなく、それを使いながら独自のアレンジをほどこしているのだが。
 設定の説明を長々と聞かなきゃならないなんていかにもウザそうであるが、少なくともぼくの場合、そうではなかった。ついつい読みふけってしまったのである。いやもう、このテのライトノベルでフツーこんな細々した設定が書かれはじめたら、ぼくはいつも投げ出しちゃうんだけどね! 
 ぼくが本作の設定をするすると読みついでいけたのは、地獄的な異世界についての解説を聞くのがもともと楽しいというか不思議な気分になるというぼくの原体験もあるのだが、それだけではないようにも思う。

〈地獄は、大きく八つに分類され、八大地獄と呼ばれている。……中略……八大地獄にはそれぞれ十六の小地獄がある。都合、百二十八になるわけだが、地獄にはこれ以外にも新興の地獄があり、大小合わせていくつの地獄があるかはハッキリしない。外にいくほど治安が悪く、閻魔大王の統治も及びにくい。/八大地獄を支配する閻魔は八大閻魔と呼ばれ、八大閻魔の中から閻魔大王が選ばれる。/百二十八の小地獄には、それぞれ担当の閻魔がいる。/彼らは「百閻魔」と呼ばれている、百閻魔以外の閻魔は「内閻魔」「外閻魔」に分けられる。/八大閻魔の審査を受け、閻魔帳登録をしたのが「内閻魔」で、それ以外が「外閻魔」、いわゆるモグリだ。弁護人業界では「闇閻魔」と呼ばれている〉(p.19)

 このような中心−辺境の世界観というのは、たとえば現代の経済、わかりやすくいえば銀行・サラ金とヤミ金のような公式−非公式の感覚、よそよそしい公式性と生々しいウラの現実を想起させる。
 これが地獄という世界設定のもっている「なじみやすさ」と合わさって、ぼくのなかにたちどころにこの作品世界のイメージをつくりあげさせてしまった。
 

 正直なところ、本作ではキャラクターたちの会話や行動よりも、このような世界観設定こそがぼくをひきつけた。
 もっとぶっちゃけていえば、ぼくはこの小説で描かれたキャラクターたちにはほとんど魅力を感じ得なかった。どれもそのへんのライトノベルに転がっていそうな平均的な描き方だ。この小説はライトノベルなのだが、キャラクター小説としてだけ読もうとすると難がありすぎる。

 むしろこの作品の面白さを支えているのは、世界設定そのものだ。

 先ほど紹介した内閻魔−外閻魔という中心−辺境の構図もそうなのだが、たとえば天道に滅ぼされた修羅道、そこで燃えたぎる憎悪という設定には、キャラクター小説として「私」の物語ではなく、「民族」の物語をむしろ感じる。
 世の中が絶対正義と感じる体制、ここでは「極楽」や「阿弥陀如来」といった形象への不信。その体制への叛乱。大量破壊兵器たる無量光(アミターバ)。戦災復興。民族差別。勝者による暗黒裁判――こうした話が後半は続出する。

 いまあげたものを見てもらえば、本作が第二次世界大戦、対テロ戦争、あるいはボスニア紛争といった、ぼくらのすぐそばにある現実にかなり近い物語として紡がれていることがわかるだろう。

 その意味で本作はライトノベルとして異色である。

 たえず「私」の物語として描かれようとしてきたライトノベル、ぼくらの外側を囲繞している現実はたいがい原型をとどめぬほどに溶融され「私」の物語に適合的な範囲でのみ道具として使われてきたライトノベルと比べて、ものすごく直截に「すぐ外側の現実」を呼び込んでいる

 繰り返しになるが、これはライトノベルにおいてかなり挑戦的なことではないかと思う。



ライトノベルは「戦争」をどう描くか


キャラクター小説の作り方  かつて大塚英志は『キャラクター小説の作り方』のなかで、「君たちは『戦争』をどう書くべきなのか」という章をおこして、アメリカのハリウッド映画と日本のまんが・アニメの違いについて論じた。

 911事件のあと、そしてイラク戦争の前に書かれたこの文章で大塚は、911をめぐる報道と物語の作り方がまるでハリウッドの脚本術にそっくりだ、と指摘する。「戦争」で死なない身体ばかりのキャラクターをつくてきたハリウッドのアメリカと、第二次世界大戦の記憶をベースとして「死ぬ身体」を開発した手塚治虫の日本を比較するのだ。

〈ハリウッド映画が「ダイ・ハード」主人公を生身の人間が演じるドラマでありながら民話やアニメの「平面性」からなるキャラクター〔死なない、あるいは死ににくい身体をもつキャラクター〕を無批判に継承してしまったのに対して、手塚に始まる戦後まんがは「記号的」で「平面的」な主人公でありながら生身の人間のように傷つき死んでいくキャラクターを創り出すことになっています〉(大塚前掲p.278)

〈「スニーカー文庫のような小説」はまんがやアニメのような記号的リアリズムによって支えられています。一見、写生的リアリズムの極地と見えるハリウッド映画と対極のように見えます。けれどハリウッド映画が先に見た「主人公」と「敵」の単純な対立を「ダイ・ハード」主人公によって演じるのに対し、日本の記号的リアリズムは逆に「死にやすい身体」を抱え込んでいます。にもかかわらず、「スニーカー文庫のような小説」は記号的リアリズムで「死にやすい身体」を描くという作業を全く行ってきていません。そのことは明らかにこの分野の小説の可能性をまんがやアニメに比して小さくしています〉(同p.278〜279)

〈〔手塚治虫のアニメ、海の〕トリトンは主人公の男の子が敵と戦いつつ成長していく、そして思春期の少年少女であったぼくたちはそれに自分の成長を重ね合わせて見ていくという、前述の『ハリウッド脚本術』のセオリーに忠実な物語でした。それがとても心地よかったのです。
 ところが最後にそれがひっくり返されるのです。トリトンが正義と信じていた行動は、ポセイドン族の側から見れば侵略であり、彼は「敵」を倒したつもりだったけど、その結果、ポセイドン族の側の一般市民をも殺してしまった、という「戦争」の持つ現実を突きつけられて物語は終わるのです。
 それは中学生のぼくにとって今まで一度も見たことがない物語でした。お話の中の正義を子供たちの前でひっくり返してみせることで、当時の視聴者たちはこんなふうに「戦争」は描き得るのかということを学んだのだ、といえます。……そんなふうに、ハリウッド映画とは違うやり方でぼくたちは「戦争」を描けるのです。少なくともこの国のまんがやハリウッドとは異なる「戦争」の描き方を積み重ねてきました。そういう視点や方法を「スニーカー文庫のような小説」が受け取れるのか受け取らないのかは、あなたたち次の世代の書き手の問題として残されています〉(同p.281〜282)


 大塚は、「スニーカー文庫のような小説」すなわちライトノベルが、「戦争」を、あるいは「戦争」を最も先鋭的な象徴とする外的な世界を描く経験を積んでいないと述べている。それをどう描くのか、あるいは描かないのかは、次の世代の課題なのだと。

 もちろんライトノベルの主人公たちは年がら年中、何かと戦っている。
 だが、それらの多くはたとえどれほど「強大な敵」であろうとも、自分の内的世界にとどまりつづけている。それは畢竟、「自分の物語」なのだ。世界はざらざらした違和感が自分を洗い続けることはなく、どこかしら心地よさがある。

 こうしたなかで本作は、対テロ戦争やボスニア紛争にイメージされるような「現代」をあからさまに作品のなかにもちこんでいる。キャラクター小説としては失敗している、ないしは薄味すぎることが、逆に、「私」ではなく「世界」の物語という側面、叙事詩のような側面を前面に押し出す結果となったのである。



『キノの旅』と比較してみる


 「私」の内的世界ではなく、ざらざらとした違和感にあふれた「現実」をライトノベルはどう描くか。それはまだ模索段階にあると大塚は言った。

キノの旅―The beautiful world  一つの試みの例として、たとえば時雨沢恵一の『キノの旅』をあげることもできよう。
 『ガリバー旅行記』ないしは『銀河鉄道999』の体裁を借りて、主人公のキノが次々とさまざまな価値観の国々を通り過ぎていく物語だ。

〈緑の海の中に、茶色の線が延びていた〉(p.16)

ではじまり、淡々とした情景の描写が続く。

〈道の真ん中を、一台のモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)が走っていた。後部にあるキャリアには、薄汚れた鞄がくくりつけられている〉(p.16)

〈運転手の体躯は細い。黒いジャケットを着て、腰を太いベルトで締めていた。ベルトにはポーチがいくつかついて、後ろにはハンド・パースエイダー(注・パースエイダーは銃器。この場合は拳銃)のホルスターをつけている。その中には自動作動式パースエイダーが一丁、グリップを上にして入っていた〉(p.16〜17)

 別にくらべることでもないし、単に個人の嗜好の差にすぎないのだが、『閻魔の弁護人』のような暑苦しい一人称の文体に比べて、このような温度の低い事実描写がぼくは好きである。こうした文体の洒脱さだけでなく、キノという中性的な少女という設定がまたぼくのココロにグッとキテしまう。そういう意味で、時雨沢は手練である。

 うむ、そうだ。文体に象徴されるように、『閻魔の弁護人』と比べて、『キノの旅』はとても乾いている。
 なにしろ、キノは『閻魔の弁護人』たちの登場人物のような「当事者」ではなく、さまざまな国=現実を通り過ぎていくだけの旅人であり、徹底した傍観者である。
 事件にまきこまれたときも、卓越したパースエイダーの技術によってほとんど「不死」の身体をもっているといっていい。

 たとえば1巻の終わりに出てくる「平和の国」には、「戦争」が登場する。長らく戦災に苦しんだヴェルデルヴァルにもたらされた「平和」とは、ヴェルデルヴァルの国民が痛みを絶対的に感知しないところで膨大な犠牲の上に成りたっているという戦慄すべき事実が描かれる。
 自分たちの「平和」が、自分たちの感覚に何もひきおこさないところでの犠牲によって成り立っているかも知れない、という不安感は、とても現代的なものだ。
 こうした描き方は「うまい」と思う。
 直截に現実をもちこむこともなく、ライトノベルの空気にふさわしく、かなりの抽象化を経て物語化している。
 〈世界は美しくなんかない。そしてそれ故に、美しい〉(p.9)というトビラの言葉は、「私」の外にある世界が「私」にとって違和に満ちたものだという事実を承認していることを意味している。唯物論だ!


 しかし、それでもぼくはこのキノのクールさが気になる。
 キノはこの「戦争」を前にしてあくまで「旅人」であり、傍観者だ。
 この事態を怒るでもなく嘆くでもなく、旅人としてそこを通過していくキノの姿は、現実にたいする無力感、そこに憤ることだけの「偽善」への嘲笑を表しているかのようで、ある意味「リアル」な感覚だが、ぼくはそういうクールさが不愉快である。キノが言った意味で〈世界は美しくなんかない〉という言葉のあとに、〈そしてそれ故に、美しい〉という受容の言葉を続けてしまえるのは、キノが左翼ではないからであるw
 世界は「私」の意識の外に独立して存在し、多様で豊かさに満ちている。しかしそれゆえに変革に立ち上がらざるを得ないほどの予期せぬ悲しみや痛みもあふれている。キノが左翼ならば、こう書いたはずだ。「世界は美しい。そしてそれ故に、美しくない」と!

 『キノ』のスマートさに、だれか唾をひっかけてやってほしい。




空気が読めないライトノベルをもっと!


 それに比べて、いきなりぼくらのすぐそばにある「現実」を不粋にもちこみ、暑苦しさいっぱいの『閻魔の弁護人』。

 たしかにここには洗練はない。
 ライトノベルという方法のなかにある「空気」も読めていない。

 しかしその分だけ、作者の熱い思いは伝わってくる。

 さっきまるで松山がキャラクターの描写に失敗したから「世界」の物語になったみたいな書き方をしたのだが、それだけ言うのは松山に失礼だろう。
 この作者にはこの作者なりの意図があるらしい。
 松山は、あるネット新聞のインタビューに応えて、こう述べている(関係ないけど、このウェブの写真、松山が芥川龍之介のような超越的文士然としたポーズをとっているのに、背景にまな板とか調味料とか生活感あふれる品々が見えてひどく可笑しい)。
http://www.futsunohito.net/2007/05/post_14.html

〈執筆し始めた頃にイラク戦争が長期化していたこともあり、作品には戦争への問題意識も投影されている。「普通は法のもとに地裁、高裁、最高裁などと様々な手続きを踏んで死刑が確定するのですが、戦争状態に陥ると手続きなしに人命が奪われてしまうんです」。そんな重いテーマをライトノベルの「気軽さ」に乗せて表現することで、「若い人が社会問題について考えるきっかけとなれば」との想いも秘めている〉(東京ふつうの人新聞07.5.15)

 また松山は〈ファンタジーで社会を描く〉と題した別のインタビューで〈小説の分野で、貧困や差別、戦争を描けないか〉〈これからは架空の設定を生かしたエンターテイメントと社会風刺を統合させた作品をつくりつづけたい〉〈むしろ戦争をとめようとする世界を描きたい〉と旺盛にのべている。


 ライトノベルは「戦争」を描くためにもっとこういう暑苦しさ、生々しい現実を遠慮会釈なくもちこんでいいかもしれない。
 もちろん松山の本作がそのことに必ずしも立派に成功したというわけではない。しかし、ライトノベルに新しい可能性をもたらすかもしれない実験のひとつなのだ。松山はそのような「不粋さ」にもっと挑戦してよい。

※『怪獣工場ピギャース!』の感想はこちら




松山剛『閻魔の弁護人』新風舎文庫
※ぼくがレーベル一般についてとっている態度はこちらを参照
2007.5.31感想記
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