中山公男『絵の前に立って』


 つれあいの親は教師なので、実家には児童向けの本がたくさんある。
 その中の一つがこれ。
 ああ、こういう本がほしかった、と思い、義母にいってゆずってもらった。

 他のひとはどうなのかしらないけど、ぼくは田舎の中学だったというせいもあって、美術の教師は「絵の見方」「観賞の仕方」というものを教えてくれなかった。やったのは、絵と作者をつないで丸暗記することだけである。
 この本は、絵、とりわけ近代絵画の「観賞の仕方」を16人の巨匠にしぼって描いたジュニア向けの新書で、その基本を言葉によって伝えてくれる、オーソドックスな近代絵画の入門書である。


 「絵を見るのに、言葉や論理や知識が必要なのか?」

という反問がすぐさま返ってきそうだ。

 筆者は、「はじめに」でこう述べている。

「絵画は、色彩と形という感覚的素材をつかって、さまざまなことを語りかける。感覚的素材の組み立てそのものにも構造があり、したがって論理がある。……それらは異なった時代や民族や社会、そして傑出した個性の見方や感じ方を語っている。ものの見方というのは、この場合、感覚的な見方であると同時に、その画家の人生観、自然観、世界観でもある。そう考えれば、一枚の絵は、一冊の書物に匹敵する」

 あくまでロゴスや理性という価値をたっとぶぼくは、この考えに諸手をあげて賛成する。
 筆者は「だが、芸術の理解にとって知識は先決ではない。まず絵の前に立ってみよう、とくりかえしいっておきたい」と述べているわけだが、ぼくは、美術館にいっても、カラーのカタログをめくっても、やはりそこに「名画」があった場合、それを鑑賞する「言葉」を求めてしまう。

 冒頭にミレー「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」を紹介する。
 筆者は、画面の構成要素を一つひとつ細かくあげていきながら、この絵がもっている普遍性を引き出していく。

「私たちは、日常的な生活のなかでは、こういう羊飼いの生活というものを知らない。またこんなにはるか彼方まで野や畑がつらなり、地平線まで見通すことのできる風景もほとんど目にしたことがない人が多いだろう。しかし、この絵のもっている情緒、農村の生活の素朴さとかきびしさとか、あるいは夕暮れの美しさとか、あるいはまた、家路をさして肌寒い空気のなかを帰ってゆく人や家畜のかもしだしている雰囲気などは、おそらくどんな人にもわかるはずである」

 ぼくは、大事なことは、「けっきょく個人個人の印象でしかないんだから」というところで終わらないということだろうと思う。
 漫画の批評や感想においても、この問題は同じである。ぼくは作品が客観的な価値や意義をもっていると確信している人間だから、やがてそれは個々の印象をこえてなんらかの普遍性にたどりつくだろうという予感がある。
 筆者も「すぐれた芸術家は、そのような主観性――つまり、その芸術家が生きている時代や社会の動向もふくめた個性や気分――を尊重し、それを根拠としながら、そこから普遍的なものをみちびきだしてくれる。画家の目は、私たちを別な時代、別の国、そして別な感じ方へのみちびき、同時に、そこに普遍的なもの、人間的なものをみいだすのを助けてくれる」とのべている。

 筆者は、さらにミレーの「種をまく人」「春(ダフニスとクロエ)」を紹介したあとで、ミレーの世界を総括して次のように特徴づける。

「面白いことには、彼は直接自然を目にしながら写生したことはないと伝えられている。記憶にたよって描いたのである。もちろん、子どものときから馴れ親しんだ田舎のたたずまいや、時々刻々の光の美しさは、彼の記憶のなかにやきついていただろうと思われる。だが、彼は、ただ農村の生活をそのまま描くことより彼の詩情を通してそれをいわば昇華させることを望んだのだろう」

 ミレー個人の詩情を通すことによって、逆に、普遍性が生まれているというわけだ。
 創作や批評を個人の「印象」や「主観」に押しとどめようとする言説をしばしばぼくは耳にするけど、それっていうのは、やっぱり努力してないよと、自分のことを棚上げしてそう思うのである。

 「この普遍性お化けめ」と言われそうであるが。


 他の画家の解説も、10ページ前後のコンパクトなもので、その画家の個人史や時代背景などをふくめ、作品世界へといざなってくれる格好の入門書である。
 ミレー以外に紹介されている画家は、クールベ、マネ、モネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ボナール、マティス、ピカソ、ルソー、ユトリロ、ルオー、シャガール、ミロである。美術館の絵に興味がもてなかった人は、ぜひ一度手にとってみることをおすすめする。




岩波ジュニア新書
2004.10.20感想記
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