「藤子・F・不二雄大全集」が出たのをきっかけに、『エスパー魔美』を20年ぶりくらいに手にとった。
もう細部も結末もほとんど覚えていない。「Fにしてはエロいな」という思いだけが残っていて、20年ぶりに手にとった最も鮮烈な印象は、やはり「ムダにエロい」ということだった。なんでこんなにエロいの。
女子中学生にたいする作者の貪るような視線、というものだけがぼくに迫ってくる。「それはお前がそういう視点なんだろ」というツッコミは甘受したい。なぜなら、本当にそうだからだ。女子中学生であるところの魔美を視姦するためにページを繰っていったことは否定しようのない事実である。
なぜこんなにスカートが短く、太ももと紺ハイソまたは白のソックスがセクシャルに映るのか。なぜ高畑(魔美の友人)は座った魔美から見えるパンツのことについて言及するのか。なぜ魔美はあまり必然性もなくスリップ(シミーズ)姿になるのか。なぜ魔美の制服はセーラー服だったりブレザーだったりするのか。
そして、いわずもがな、魔美が父親の絵のモデルとしてヌードになるのはなぜこんなにも多いのか。パンチラがなぜ随所に垣間みられるのか。
Fは「エスパー魔美 キャラクターづくりの秘密」(大全集1巻所収)という文章のなかで、『エスパー魔美』を描いた当時、『パーマン』『オバQ』『ドラえもん』といった「生活ギャグ路線」(F)から切り替えた作品をつくりたいと考えており、「主人公を女の子にする」「活躍の場を大人の世界にする。そのため主人公の年令を中学生に引き上げる」という設定を考えた。
このために「女子中学生」という主人公がつくられたのだが、そこに性的な視線を持ち込んだことが、現代的にみてきわめて淫靡な設定になってハマってしまったということができる。
もしこれが「女子高生」であったとしたら、性的な視点からは消費されつくした感のある設定になってしまっただろう。「女子中学生」であるからこそ、現代的なのだ。
▲小学館大全集版1巻p.135
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大全集版の1巻の表紙から、中身にいたるまで、とりわけぼくは、魔美の太ももというか脚ばかり見入ってしまっている。プリーツのついたスカートで、座ったときや脚を投げ出したときに露になる感覚にやられっぱなしである(右図参照)。
ヌードシーンはそれ自体としてエロいというよりも、「ふくらみかけの胸ですよ」ということを知らせるためにあるシーンだといえる。「少女であり性的である」ということを読者に知らせる信号なのだ(裸を見せておいて「信号」もクソもねーだろという人もいるかもしれないが)。
▲小学館大全集版1巻p.89
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高畑和夫というのは、魔美の友人で同級生の男子中学生である。なかなか頭がいい。しかし風貌は、いたって冴えない(右図参照)。
少なくとも1巻においては、高畑は魔美のセックスアピールに時々は気づくのだが、それが顕在化したり、行動原理になったりすることはほとんどない。しかし、高畑はぼーっとしているときに、魔美の裸のことを考えていたりする。それを魔美に読心されて慌てたりするのであるが、「あなたぐらいの年ごろの男子が女子に好奇心をもつのは自然なことだって」と魔美に冷静に返されるとおり、実際その範囲程度のものでしかないようだ。
ぼくの中学時代であれば、高畑のようなポジションにいれば、間違いなく「魔美は自分に気があるに違いない」とのぼせ上がったことは必至である。
しかし、高畑は魔美との間にずっと同じ距離を保ち続けるのだ。少なくとも1巻では。それはいっそ「清廉」にみえる。
もしも高畑のような「清らかさ」で魔美のような女子に接することが、ぼくの中学時代にできたとしたら、きっとモテたはずである。そうに決まっている。自分のセクシャルな感情を理解しない無垢さ。これ最強。
なんかこの前、大学2年生の男性の話を聞いていて、ぼくみたいなひょろっとした風貌のコなんだけど、「高校時代に告白されたことがありますが、好きっていうのがよくわからない感情だったので断ったことがあります」とか平気で言っていたんですよ! これがまた! くそっ! 彼のように脂ぎったものとは無縁な人だからこそ、女性が近づいてくるのではないか? と高畑という形象を見ながら思う昨今である。
それにしてもこの作品はエロいと思う。Fの自作解説はもちろんのこと、レビューや解説、書評で、この作品がエロいことについてまったく触れていない人がいるけど、それって一体どういうことなの? とか思うのはぼくだけだろうか。それともあまりに自明すぎて「言ふもおろかなり」的な状態なのだろうか。
小学館
藤子・F・不二雄大全集
『エスパー魔美』1巻を読んでの感想
※画像引用は著作権法にのっとっています
2009.12.9感想記
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