「ユリイカ」東浩紀×伊藤剛
「マンガの/と批評はどうあるべきか」



マンガ批評の新展開  ある人から「『ユリイカ』の東浩紀×伊藤剛対談でお前批判されてるぞ」と言われたのでびっくりして買って読んでみると、批判というか言及がされている。しかも対談の冒頭から中頃まで話題というかネタにされている。

 しかし、対談において東が紙屋という名前をきいて「だれそいつ」状態であることにみられるように、ぼくみたいな若輩をよくもとりあげていただいたものである。『テヅカ・イズ・デッド』を上梓した新進気鋭の漫画評論家・伊藤と、「知の最前線」とやらを走る東にとって、こんな「狭いブログ論壇」(東)のカスみたいな存在をとりあげるのもお手をわずらわせるようで申し訳ない。また、多くの人にとっても紙屋ときいて「だれそいつ」状態ではないか、そんなもので対談の冒頭のモチーフにして大丈夫なの、と他人事ながら心配する次第。

 伊藤剛は「思想地図」vol.1で大塚英志批判の論文をのせているんだが、それにかかわってブログ上でぼくにたいして議論を呼びかけてきた。しかもくり返し。
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20080428
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/shisouchizu.html
http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20080519

 ふつうはそれに反応するかどうかはぼくの食指が動くかどうかということだけで決める。ぼくについては肯定・否定の反応ふくめてネット上でそれなりにあるけども、大家(たいか)であろうがなかろうが、いちいちそれにぼくはすべて反応しないからである。

 ところが今回伊藤はぼくがネットで書いた一文をもとにしてオトシマエをつけるべきだという形で迫ってきた。つまり議論に応じるべき義務とか責任がある、っていうわけだ。

 しかし、ぼくは伊藤の文章を読んで、「オトシマエ」というレベルにおいても、そして議論一般というレベルにおいても、果たしてどう答えたものか、あるいは答えるべきものなのか、と当惑しているのである。

 「オトシマエ」というレベルにおいては、それを書いても誤解をふりはらうだけの自己防衛的で非生産的な議論にしかならねーんじゃねーの、という思いがあるからである。

 そしてやはり非生産的にしかならないであろうことをここに書いてみる。



オトシマエその1——二項対立だとは思ってない



 まず、第一に、ぼくは社会反映論的な漫画の論じ方と、表現論的な漫画の論じ方が「二項対立」だとはまったく思っていない。伊藤がのべたように、それこそ矛盾なく接続しうるものだとこれまでも考えてきたし、いまもそう考えている。ぼくがこれまで書いたものがどう受け取られたかはわからないが、両者を「二項対立」として考えたことは一度もない、というのが正直なぼくの頭の中身である。

オタクコミュニスト超絶マンガ評論 たとえばぼくは拙著『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』のまえがきで、わざわざ漫画批評の歴史についてふれたのだが、そのさい表現論的な批評についてはぼくが「二項対立」論者だと思われないように念入りにその意義と役割について書き、それを生み出す上で社会反映論と対立するかのようなふるまいをしてしまうように見えたり、あるいは実際にブレてしまったのはまあ歴史的に見てしょーがねーよな、と書いたのである。表現論的な方法がそのように見えてしまっていたことは伊藤自身も「ユリイカ」対談でのべているとおりである。

 サイトでもくり返しこの点は表明してきたつもりである。

 

 常識的に考えても、わざわざ両者が「二項対立」だとして何が何でも表現論的な漫画の論じ方を排除するなどというやり方は不自由で仕方がない。漫画を論じる際に、扱う作品や執筆の目的に応じてさまざまな角度が必要であり、それぞれの論じ方が豊かになればなるほど、漫画は豊かにとらえられていくであろうとぼくは思っている。

「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか (角川oneテーマ21) 『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』を論じたときも、最後にぼくは表現論の意義を書いて、いろんな批評の方法や角度をもつことで自由な評論ができるとわざわざぼくは書いている。それを素直に読めばぼくが「二項対立」論者であるという見方は出てこないはずだ。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/japanimation.html

 逆なのだ。

 むしろ表現論という形で漫画批評を深めている人たちは、「二項対立」だと思っているんじゃねーかという危惧がぼくにはあったのだ。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ 伊藤については、『テヅカ・イズ・デッド』での『ヒカルの碁』についての論じ方がさまざまな批評方法を接続させて論じるということを述べているくだりをみて、ホッとしたものだ。このことはもう2年以上も前に下記URLで書いた。「矛盾なく接続しうる」という証明として今回の対談で伊藤が自著『テヅカ…』の当該章をあげているのは、まさに我が意を得たりということだった。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tezuka-is-dead2.html

 

 そして、「そもそも『思想地図』の小論自体が、表現論と社会反映論がきれいに対立するものではないことを示すものになっていると思います」と伊藤がブログで書いているのはまったく正しいと思う。

 

マンガと「戦争」 (講談社現代新書)  ところが夏目房之介についてみると、『マンガと「戦争」』で社会反映論的な方法をとってしまったと述懐しているのだが、ぼくが不思議に思ったのは、なんで表現論でなければ社会反映論なんだろう、お得意の表現論も、そして反映論も、どっちも使って豊かに論じればいいじゃん、ということだった。

 「矛盾なく接続しうる」ものなのに、夏目はどうも純技術化・政治的漂白を企図しているのではないか、とぼくはいぶかったのだ。伊藤自身、「ユリイカ」対談において夏目のこの本をあげながら「『表現論』は社会の現実から離れて表現のなかへ沈潜していく態度であるととらえられがちになった」と述べているのであるから、ぼくがそのような警戒をみせたとしてそう的外れなものではないと思う。

 

 伊藤は「ユリイカ」対談で自身の方法について「誰でも使える明快なシステムの話をしているつもり」と書いているが、ぼくもそういう努力の一環だろうと思っていた。「しんぶん赤旗」で『テヅカ・イズ・デッド』の書評を頼まれて書いたとき、ぼくは伊藤の方法を、生産関係や生産力というツールを鍛えなおして歴史を見通せる史観をつくったマルクスになぞらえて、キャラやフレームという要素を見つめ直す作業をしたことを開かれたマンガ表現史を書くための大事な努力だろうというむねのことを書いた。

 似たことはサイトでも書いた(下記URL参照)。

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tezuka-is-dead2.html

 もちろんそこにはいくつかの留保はつけたけども、「二項対立」だなどと思っていれば、そんな高い意義づけは与えないものだ。「赤旗」書評ではぼくは「開かれた分析言語で読む漫画表現」というタイトルをつけ、「誰でも使える明快なシステムの話をしているつもり」という伊藤の意図を多少なりともくみとったつもりである。

 そもそも大塚英志が『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』で論じたのはまさしく表現論的な方法であった。

 「ユリイカ」の同じ号で杉田俊介がまさにこの点について「『内容から表現へ』『印象批評から科学へ』という面を重んじるあまり、マンガにまつわる政治性や批評性が奇妙につるりと剥ぎ取られている」「科学や中立を装った奇妙なナイーヴさが蔓延している」と漫画批評の現状を案じたうえで、「重要なのは、たとえばロシアフォルマリズムが典型的であるように、形式の中に染み込んだ社会性・政治性の水準を見ることではないか」と指摘し、その例として大塚の仕事をあげているとおりである。表現の考察を通して、形式に染み付いた社会的なものを読み込むというこの方法は、ある意味で「表現」と「社会」をつなぐ一つのやり方である。大塚の議論に全面的に賛同するかどうか別にして、ほら、こんなふうにできるじゃん、というのがぼくの思いなのだ。

 ただし、杉田はそこで「素朴な印象批評・社会反映論・イデオロギー批評に戻れ、と言いたいのではない」と言っている。ぼくは、そんなふうに「二項対立」にしなくてもいいのに、と思う。

 表現から読み取れることもいろいろあるだろうけど、ぼくは主題とか作者の意図とか作者の個人史とかキャラクターのふるまいや台詞とか、そういう「表面」から読み取れるものもたくさんあるし、議論しなければならないものもたくさんあるだろうと思っている。また、作者の意図を離れて作品が社会にどう扱われ、また作者の意図をこえて作品にどのような社会性が反映しているかを見るということにもかなり多くのやるべきことがあるように思っている。

 

 加えて、ぼくには表現論を血肉化するような能力がない。ときおりつまみ食い的に使わせてもらっている程度である。ぼくに表現論的なことを駆使できる力があればもっといいのになあと自分では思う。

 

 実感として言わせてもらうと、表現論的なものから読み取れるものは、ぼくの能力的にはあまりなくて、もっと主題とかストーリー、台詞から読み取ったほうがたくさんのことが読めると思っている。繰り返すがぼくは両者を対立的にはとらえてはいない。単にぼくの能力の問題だし、もう一つは「表面」の社会反映から読み取るという素朴な評論が意外と「供給量」が少ないからぼくがやってみようと思ったというにすぎない。

 

 伊藤は、社会反映論について「表現を透明なものとして扱う」ナイーブなものだと批判し、さらに「社会の複雑さを捨象した、ひどく図式的でのっぺりしたもの」だとブログで述べている。

 しかしこういうふうに社会反映論の役割を(現在の反映論のありようの批判ではなく)一般的に書かれてしまうと、やっぱり伊藤先生、二項対立的に考えてませんか? とまたいぶかってしまう。

 この点について、東はまさにその伊藤との対談で、社会反映論的なものがどういう地点で機能するかということを論じ、さらに「表現論対反映論というのは、つまり記号の内的な構造に注目するか記号とその外部(現実)との関係に注目するかという対立です」といって、どちらも必要な契機であることをのべている。これは事実上、表現論にのみ傾斜しようとしがちな伊藤へのツッコミではないか。東が伊藤をたしなめているのだ。



オトシマエその2——たんに態度の問題なんだが



 オトシマエにかんしてのもう一つの論点は(こちらがよりオトシマエ的なのだが)、ぼくが伊藤を「太平楽」とののしったからだというものである。ひとを悪し様に言っておいて、反論したら逃げるのか、というわけである。

 

 うーん……。

 ここはますます自己防衛的な不毛な議論をしてしまうことになるが、はっきり申し上げてこれも誤解ではないかと思う。

 まず、伊藤自身「具体的には夏目さんに向かってるのですが」と書いたように、ぼくは夏目の発言にたいしてモノを言ったのである。本文の主語はすべて「夏目は」になっているのはそのためだ。

 「いや、小見出しが『夏目たち』になっているではないか」というかもしれない。夏目の発言そのものに座談の参加者のだれがどの程度共感したのか、あるいは反発したのか、スルーしたのかよくわからないのでとりあえずこんなふうになったのだが、伊藤が「おれは違うぞ」というのであればそれはもう謝罪するしかない。ごめんちゃい。

 

 より重要なことは、ぼくが「怒った」のは、大塚の言った「正しい」ことに夏目が反対したからというのではないということなのだ。

 大塚のまじめな提起に、ふまじめな物言いをした、ということでぼくは「怒った」のである。

 

 大塚が「いまの日本の漫画の技術や表現は戦時下起源だ。だから気をつけるべきだ」といったのにたいして、夏目は「僕も学生時代に、そんなことを人に言って脅かす、いわゆるオルグというやつをしたことがあるので、それはいかんだろうと個人的には思うわけ(笑)」などと答えた。そこに「太平楽」という批判をぼくは書き込んだのである。

 

 ぼく自身は、そこにも書いたとおり、大塚のこの問題提起自体には同意していない。戦時下起源だから危険だというのであれば国家独占資本主義下にある現存のさまざまなシステムや文化がみんな危険ということになってしまうではないか。

 だから、大塚の正しさに逆らってけしからん、という「怒り」ではないのである。

 

 ヘタな比喩で申し訳ないが、大学のクラスに大塚がやってきて、「いまの日本の漫画の技術や表現は戦時下起源だ。だから気をつけるべきだ」とまじめにアジテーションをしてクラス討論を呼びかけた。

 ぼくは大塚の真剣さに正面からこたえて「いやそうは思いません」とまじめに理由をのべて討論に参加した。

 しかし、夏目は「政治的なことはアブナイからなー」「人を脅すなよ」と大塚を笑いものにして、横向いて別のことを話しはじめたように思えたのである。

 「大塚さんのいうことに逆らうのか!」ではなくて「せっかく大塚が一生懸命やってるんだから、まじめに聞いてやれよ」ということなのだ。内容ではなく、たんに態度の問題なのである。

 

 だとすれば、オトシマエは伊藤がぼくに求めるものではないのではないか、ということである。夏目が大塚のところにちゃんと答えにいくとかそういう筋合いの話であって、なぜぼくが、しかも伊藤にオトシマエをつけなければならないのであろうかと当惑するのである。

 

 ぼくが「何か書けるかどうか、あるいはあえて書く必要そのものがあるかどうかも、いまのところよくわからない」とホームページで書いたのは、オトシマエのレベルでいけば以上のような理由である。

 そもそも二項対立だなどとは思っていないし、「太平楽」うんぬんはスジがちがうんじゃないか、ということなのだ。しかし、そんなことをつらつら書いても非生産的じゃないかなあという躊躇があって「あえて書く必要そのものがあるかどうかも、いまのところよくわからない」とつぶやいた次第である。書いたけど。その結果、このとおり実にしょうもない自己防衛の弁がずらずらと並ぶありさまになってしまった。

 

 さて、こうした「オトシマエ」のレベルの議論とは別に、伊藤がブログの当該エントリの最後に「オレは褒めっこも悪口も喧嘩も期待してなくて、ただ議論がしたいんだけどなー」と書いてあることに注目して、まあそんなオトシマエうんぬんなんていうのは口実で、「思想地図」vol.1のオレの論文についての感想聞かせてよ、というごく普通の呼びかけだとしたらどうだろうか。


 一般的に感想をいうのはできるし、やるかもしれんなーと思う。しかし、伊藤が求めているのはそういうことではないだろう。

 というわけで今日はもう眼も疲れたのでこれくらいで。





「ユリイカ」2008年6月号
青土社
2008.5.30感想記
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