福島清彦『ヨーロッパ型資本主義』



ソ連型経済でなければアメリカ型資本主義しかないのか

 ソ連型の政治経済体制、すなわちソ連型「社会主義」が破産したので、資本主義は凱歌をあげた。
 しかも、のこされた資本主義モデルとは「市場原理主義」たるアメリカ資本主義しかないようにみえる。少なくとも日本ではそのように喧伝されている。

 これは、ハイエクや、あるいは正統派経済学がソ連モデルを攻撃することによって自らの正当性を「確認」してきた学問運動に相似形の事態である。

 これには、ヤーギン&スタニスローが『市場対国家』で描き出したように、ケインズ主義や伝統的な社会民主主義がつくりだしてきた国家が「大きな政府」と呼ばれ、その破綻もしだいに明らかになってきたという事情もくわわっている。
 つまり、ソ連型「社会主義」、伝統的社会民主主義が破産したことは、「大きな政府」が破産したということであり、のこるのは市場原理主義しかない、という論法である。
 こういう論調は、たんなる学問運動上のことだけではなく、すでに先の総選挙(2005年9月)でも「小さな政府キャンペーン」として現実の政治に影響を与えた。


 だが、伝統的な社会民主主義でもなく、いわんやソ連型「社会主義」でもなく、そしてその極にある市場原理主義ではない道を提示する動きがある。これが、アンソニー・ギデンズが著した『第三の道』の路線であり、ドイツ社民党やイギリス労働党などが採用している路線だといわれている。



市場経済の利口な活用

ヨーロッパ型資本主義―アメリカ市場原理主義との決別
 本書は、このギデンズの発想をベースとしながら、しかし思想問題としての「第三の道」ではなく、実際にヨーロッパ型の資本主義の現実となって展開されている「第三の道」を紹介し、もって日本が進むべき道は必ずしもアメリカ型の市場原理主義ばかりではないという展望をしめそうというものである(ただし著者・福島がふれているように、「第三の道」という言葉は「空虚な宣伝文句」という悪印象がふりまかれたために、著者はあまりこの言葉を出したがらないのだが)。

 本書は、(1)アメリカ型資本主義ではないヨーロッパ型資本主義の共通する特徴を概括的にしめし、(2)ドイツ、フランスなど国別に大きく違った特徴をもっている各国ごとの資本主義をそれぞれ大ざっぱに把握し、(3)とくにアメリカ型とヨーロッパ(大陸)型とのあいだで懊悩するイギリスをみながら、(4)最後に米欧関係と日本の今後について展望する。なお、ヨーロッパ全体をくくっているEU統合の影響もみのがせない。

 「第三の道」とはなにか。あるいは本書の問題意識となっているのはなにか。

 「大切なのは、市場原理を無制限に、あらゆる分野で適用するではなく、自国と世界の調和ある発展という目標に向けて、市場原理を利口に活用していく知恵であり、制度づくりなのである」「二〇世紀のテーマは資本主義か社会主義かであった。二一世紀を通じるグローバルな基本テーマは資本主義のあり方である」(p.14〜15)

 そして、市場にたいするヨーロッパでの共通の考えをつぎの6点に福島はまとめる。
  1. 市場の無制限な適用は社会不安を増大させ、治安の維持に巨額のコストを必要とするので、市場の無制限な適用ではなく「利口な活用」が必要だ。
  2. 「市場は非市場制度を利用することによってのみ機能するものなので、市場を活用するためにも、非市場制度を注意深く守り、育成していくことが必要である」(p.17)として、家庭、教育機関、地域共同体、宗教団体などと個人のかかわりを重視する。
  3. 企業の利潤の極大化だけを目標にしなくても十分に活力があって、豊かで平等な資本主義はつくれる。
  4. 株主だけの利益をおもんじるのではやがて競争力を失うので、公的部門の適切なイニシアチブが必要である。
  5. グローバル時代・情報化の時代こそ、非市場部門や福祉が重要になる。
  6. EUの拡大はヨーロッパ型資本主義の普及にとって大事だ。

 この点だけあげれば、コミュニストであるぼくは、かなり同意できる部分が多い。
 この新書の印象を、いくつかぼくなりにあげてみよう。



ヨーロッパ資本主義の多様性

 第一に、こうやってやや乱暴にまとめてしまうことによって、かえってヨーロッパ主要国ごとに資本主義タイプが鮮明になり、上記のような共通項でたしかにくくられるものの、なるほど多様性にみちた資本主義だということがわかる。
 ぼくや左翼仲間もヨーロッパについては「ヨーロッパでは……」と乱暴に概括するし(へたをすると「欧米では」とひとまとめにする)、まあ世間話をしている程度のところではそういうくくりはやむをえないのだが、それは、ヨーロッパ各国のモデルのなかでもっとも良質の上澄みを抽出して描き出している「ヨーロッパ」なのだ。
 たとえば、福島があげるイギリスの例は、この多様性を知る上では一番の例で、先ほどものべたようにたえず「アメリカ型(サッチャー型)」と「ヨーロッパ型(大陸型)」との間で悩んでいるのがイギリスである。EUではかなりきびしい解雇制限の立法がおこなわれているのだが、福島によれば次のようなあつれきをイギリスにもたらすという。

「従来、英国型企業の強みのひとつは、競争条件が変化すると、必要に応じてある期間だけ人を雇ったり、期間中でも雇用を打ち切ったりしてコストを抑え、柔軟な経営ができることにあった。EUの指令を受け入れた結果、英国企業は弾力的人員雇用の強みを失っている」(p.196)
「欧州大陸型、特にドイツ型経営は、向上心や帰属意識のある勤勉な労働者を前提にして雇用保護をしているのだが、英国にはこれまでの労働慣行のため、英国流のやる気のない労働者が多い」(p.196〜197)

 福島は、英国では義務教育を終えた人間が18歳までに職業訓練をうける比率が50%とEU15カ国のなかで最低であることをしめして、国民全体の教育水準の低さがこの国の桎梏になっているとのべる。
 それがどれくらい本当かどうかは別にして、このようにして福島は欧州資本主義の多様性を一つひとつ描いていく。



出口はここにしかない

 第二に、市場経済の利口な活用、公的セクターの役割、非市場部門の市場部門にはたす役割というふうにまとめられた思想そのものは、コミュニストであるぼくにとってもまったく受け入れ可能なものだ。21世紀において出口はここにしかない。
 しかし、福島はこの思想の具現としてヨーロッパ各国に現実に存在している資本主義を紹介していくので、実はそこには現実の「不当な美化」という毒がさまざまに含まれている。そのことは、本書を読む際に注意してかからねばならないことだろう(付加価値税と福祉を連動させる点など)。



福島のもつ方法的な混乱

 第三に、この第二であげた問題、すなわち、理念と現実の境界のあいまいさが福島の方法にそもそも内在しているために、それが日本のところにくると、問題点がいっそう顕著になってしまう。

「……市場原理が働かない公的部門の縮小と市場原理が働く民間部門の拡大は、日本の改革の重要な一部門である。公的部門の改革を中心とした、『聖域なき構造改革』を掲げる小泉内閣の政策が国民の高い支持を集めたのは、その改革が正しい方向に沿うものだからである」(p.231)

 このくだりのあと福島は、“でもそれが米流の市場原理主義をめざすならまちがいだけどね”と問題点を指摘していくのだが、全体として小泉「改革」への対応は「不十分だ」という角度からの接近になっていく。
 小泉「改革」こそ米流の市場原理主義への接近そのものであり、もしこれをいくらかでも「よし」とするのであれば、福島がどんな言葉でかざろうとも、福島がしめす「第三の道」は、新自由主義をいくらかの「社会民主主義」という水でうすめたカクテルでしかない。
 福島は、ギデンズの思想の擁護にかこつけながら、自分が紹介しているものは資本主義と社会主義の中間のものではないのだ、市場原理主義と伝統的社民主義の止揚なのだ、と力説しているのだが、けっきょく福島が提示しているものは、せいぜい市場原理主義を「伝統的社民主義」で薄めたものでしかないのではないかという疑念をもってしまう。

 必要なことは、「利潤のためではなく、社会のために経済がある」という社会主義の思想の核心をとらえることである。そのために市場の活用もあり、公的部門のイニシアチブもある。だとすれば、「どれくらい公的部門が縮小したのか」とか「どのくらい民間部門がひろがったのか」ということはどうでもいいことであって、必要なら民営化もどんどんすればいいし、逆に公的セクターも拡大すればいい。要は、その経済部門が社会に奉仕するものになり、活力を持続できるものになったかどうかが大事なことなのだ。
 その核心点がないからこそ、福島は結局現実の資本主義評価のさいに、道をあやまっていってしまうのであう。

 しかし、にもかかわらず、この本は、日本にとってアメリカ流でない資本主義の道があることを知る上ではじゅうぶんな知的刺激をあたえてくれるだろう。そうやって「社会に奉仕する経済」ができあがったときに、それを市場と公的セクターのブレンドぐあいをみて資本主義とよぶのか社会主義とよぶのかというスコラは、ぼくにとってはある意味でどうでもいいことである。






『ヨーロッパ型資本主義 アメリカ市場原理主義との決別』
福島清彦 講談社現代新書
2005.9.19
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