G.クライツァー『デブの帝国』


デブの帝国―いかにしてアメリカは肥満大国となったのか  つれあいの助けを借りて、ぼくの両親をラスベガスやグランドキャニオンに連れていったことがある。
 「お父さん、あれ、あれ!」と母が興奮して指さす先に見えたのは激しく肥満したアメリカ人の夫婦でした。「あーれ、あそこにもデブがおるよ!」。
 父は、90キロ台の体重になっており、石原裕次郎の晩年を太らせて醜くしたような風体である。肥満のせいで倒れ病院にかつぎこまれるという騒ぎをおこしていた。ところが、アメリカにきて、父などは「ヘ」でもないほど太った人々がいたるところにいた。
 父母はもう景色なんかみちゃいない。肥満したアメリカ人が来るたびに、嬉々として声をあげる。日本語ならわからないと思って。食堂で、観光地で、ホテルで。
 「あんなん(あんなの)みたら、お父さん、全然デブじゃないね!」
 「見てみょー(みてみろ)、あそこにもおる。歩けやへんがや(歩けないぞ)」
 

 ちょうどこのアメリカ旅行のあと、ジャーナリスト本多勝一が、最近出した本を読んだ。ふたたび「アメリカ合州国」をとりあげたルポを書き、そのなかで短い1章をつかって、アメリカ人の肥満について、写真付きで特別にレポートをしている。

 自らを棚にあげて肥満した人をデブと罵るわが親の品性下劣さは目を覆うばかりだが、少なくとも、彼らは、有名ジャーナリストと同じく、このアメリカの奇妙な文化的・経済的現実にたいして鋭い注意をむけた。ぼくはアメリカに何度行っていても、そしてこのとき同行していてもその現実をほとんど気にとめなかった。「体格がちがうんだから、そんな人もいるさ」程度にしか思っていなかったのだ。

 本書『デブの帝国』の副題は「いかにしてアメリカは肥満大国となったのか」である。
 中身を簡単に紹介しておこう。

 「1.コストダウン! カロリーアップ!――脂肪はどこから来たのか」は、問題の根源となる農産物の輸入自由化の問題をあつかう。インフレに苦しむ70年代前半のニクソン政権のもとで、農務長官バッツが、安い穀物輸入を実現させる。廉価の高果糖コーンシロップやパーム油の輸入だ。

 「2.ポテトはいかがですか!――脂肪をとり込ませるのは誰か」では、ファストフード側の販売戦略をえがく。といっても、味の素の「フタの穴の大きさ」の逸話(か神話か)のように、内容は「たわいもない」。2袋買うよりも、値段を少しだけあげて容量を大きくしたほうが売上が激しくのびる、という発想の転換である。またリピーターを調査して、リピーターが求めているのは、味や見た目ではなく「価値」、「お値打ち」なもの、つまり「バリューセット」だったことをつきとめる。
 ぼくはアメリカの少しばかり安い店にいけばどこでもコーラやペプシがついてまわり、しかも何もかもがジャンボサイズであるということは、アメリカ人の体格による「自然的現実」だと思っていたのだが、そうではなかった。上記のような、戦略的変化によって、アメリカのマクドナルドのポテトのカロリーは、1960年には200キロカロリーだったのが、現在では610キロカロリーと、なんと3倍以上になっている。かつてマクドナルド商品は590キロカロリーだったが、いまや1550キロカロリーとやはりこれも3倍である。
 ちなみに、200キロカロリーとは、日本のマクドナルドでいえば、マックフライポテトのSサイズにも満たない(263キロカロリー)。(日本のマックについて参照サイトはこちら

 これは、歴史的結果だったのだ。すべてを歴史性のうちにとらえる弁証法は、ぼくは忘れ去っていたのだ。

 さて、ここまでは、あるていど考えつく構成だといえるかもしれない。
 しかし、この『デブの帝国』がユニークなのは、3章以降であろう。

 「3.ゆるめられたベルト――脂肪を招くのは何か」は肥満を許容し、促進する「文化」と「イデオロギー」を扱う。あたっているかどうかは別として、クライツァーがあげるのは、女性の職場進出によって子どもの世話が外食化したという問題である。つづいて、育児教育のなかで「子どもたちを押さえつけない」という方針、「『自己の要求』に応じて食事を与える」という思想である。これは、本書でも対立点としてあげられていく問題であるが、「ダイエットさせるな」という思想とつながっている。そして、そのすぐ脇には間食を許容するメッセージがころがっている。
 この章でもっとも興味深いのは、公立学校予算の削減によって、給食が維持できなくなり、学校に外食産業が侵入し、これが規制の緩和とあいまって、生徒たちがピザ漬けにされていく現実である。
 日本でも自治体に「給食民間委託」の波がおしよせるなかで、このことは決して他人事ではない。いったん「コストのため」といって導入されたものは、この論理の前には弱い。その先に待っているのは、このアメリカ的現実である。
 この章では、ダイエット思想の混乱もあつかわれる。「がまんしなくてもいいダイエット」という、ああ、日本でも実に流布していそうなダイエットの言葉は、自然と「どんなに食べてもオッケー」へとかぎりなく接近していく。
 ユニークなのは、宗教の影響で、キリスト教原理主義者の肉体と精神の分離論が、肉体への執着を捨てさせる素地となっているという指摘である。それだけではなく、他の中絶や同性愛を否定したいがために、「大食」というモラル破壊について甘くなっているという。そして、「自己容認」についての「癒し」の言葉が並ぶ。
 ラッパー文化さえも、太ったスタイルが「イカす」ということにされ、肥満許容文化を形成しているという。「おれたちはでぶの遊び人!」と歌い数百万枚のCDを売ったラッパー、ビッグ・パンは、317キロに太って死んだ
 この章のタイトルにもなっているが、「快適なサイズの服」、つまり、ちょっと前まできつめサイズだったものが、すべてラージに変えられ、それが肥満を意識させなくしていくという。これは非常によくわかる。きついベルトは否が応でもそのことをたえず認識させるのだ。

 「4.健康優良肥満児!?――脂肪はなぜ蓄積されるのか」は、カロリー消費、つまり運動にかんするアメリカ国民の思想と行動の状況である。ぼくも学生時代泣かされた「体力テスト」というのが、幅跳びや50ヤード走、懸垂などなどのようなものがいいのか、有酸素運動系がいいのか、などの論争である。

 「5.太る機械=子供の製造――脂肪とは何か、何でないのか」は、肥満をめぐる社会的環境の問題で、おもに階級とジェンダーの問題がとりあつかわれる。
 しばしば、肥満の強調は、過度のダイエットにつながり、そこから拒食症へといたる道としてしめされる。クライツァーは、注意深くこの問題をあつかいながら、大ざっぱにいえば、肥満を強調して拒食症へ至るということは数えるほどしかなく、逆に肥満の強調の解除は「食べてよい」として肥満のメッセージにつながりやすいと警告するのである。

 「6.死に至る脂肪――脂肪の余剰は何をするのか」は、糖尿病の原理を簡単にあつかったあと、その症状をくわしくのべ、それがアメリカ国民全体にどれくらい被害をおよぼしているかを統計的にあつかっている章である。この章の終わりでは2050年ごろの太ったアメリカ人の生活を「ユーモラス」に描いている。

 最終章、「7.脂肪地獄からの脱出――脂肪に対して何ができるのか」は、各地の実践例をあげて、どのような方策が有効かを検討する。学校にエアロバイクをおいてその前にゲームと接続したスクリーンを用意する、などという涙ぐましい例も報告される。「脂肪税」などという試みも紹介されている。

 全体を通して、肥満の問題は、「貧困」の問題であることが強調されている。
 クライツァーは冒頭でこうのべる。「肥満は、じわじわと中流や上流階級にまで浸透してきているが、やはり、貧困層や貧しい労働者層にとくに多く見られる」。この問題はおもに第5章で集中的にとりあつかわれるが、全編で肥満とは貧困の問題であることがわかるようになっている。
 「アメリカの貧しい子どもたちは、工業化されて間もない国と同じような栄養のとり方をせざるを得ない状況にある。工業化されたばかりの国では、従来の食事が高脂肪食にとって代わられ、さらにアメリカと同じように、電化製品の普及によって、あまり体を動かさなくなっている」。
 この問題が貧困の問題であり、階級の問題であり、収入の問題であるという視点は、クライツァーによれば90年代にアメリカ知識人の頭から追放されてしまった。「代わりに、多くの学界で潮流となったように、その問題を迷信だと言ったり、『ポストモダニズム』で片づけるようになった」。

 『100人村』が指摘するように、アメリカが世界の富の圧倒的多数を独占しているという現実にはかわりがないのだが、それは単に「アメリカ対世界」という構図で終わるものではない。太ったアメリカ人をみて「みろ、富の独占の結果があれだ」というのはまちがっている。
 アメリカのなかでそもそも富の偏在があり、マルクスがのべたような「資本主義蓄積の法則」、すなわち「富と貧困の二極化」が進行している。そのようなアメリカ資本主義の現実に支えられながらアメリカの世界覇権は存在しているのだ。

 「肥満したアメリカ人」というのは、まさにアメリカ的貧困の姿そのものであり、アメリカならではの富(の偏在)のありようである。


『デブの帝国 ――いかにしてアメリカは肥満大国となったのか――』
グレッグ・クライツァー著、竹迫仁子訳、バジリコ株式会社
2003.6発行
2004.1.5記
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