北原みのり『フェミの嫌われ方』



 フェミニストである筆者・北原みのりが批判する、つんく『LOVE論』をまずごらんください(北原の引用より孫引き)。



●「おかんな女の子〔母親っぽい女、の意〕とつきあったら、きっと一緒にご飯食べるときなんかも知らないうちに人の箸を取ってくれちゃったりするんだろうな」(北原は「ふう……。」と嘆息)

●「日本中で女の子のわがままをもてはやした時代が長く続いて、ふつうの女の子たちがずいぶんズケズケした感じになった。(略)都会の遊び場なんかにいくと、どっちを向いてもズケズケとしたハスに構えた女だらけに見えてくる。(略)ちょっと世の中の男が萎縮しちゃってるところもあるし、アニメとかに熱中して、現実の女の子には相手にされないんじゃないかと思っているヤツは、当然強そうな女を敬遠するだろう。(略)もともと『どうにもこうにもちっちゃい女が好きだ』っていう本能的な『プチ好き』に加えて、こういうふうに
時代が生んだプチ好きも増えてきた」

●「居酒屋なんかでも、店員につっこみ入れたり、トバシ過ぎの女の子がたまにいるけど、モテないと思うよ、そういうの。(略)やっぱりできることなら面と向かって『アホやなぁ』って言ってもらえるような、かわいいアホがいいよね。しかも、言われて『へへへ』って笑っているような子。そこで、男がかわいいと思って言っているのに『わたし、アホじゃないもん!』って返しちゃったら、
その瞬間、アウトだけどね」

●「飯田(モーニング娘。の一人)が怒っても感じ悪くならないのは、ただわがままブチまけて怒っているのとは違うからじゃないかと思う。(略)怒るポイントも、
女の子らしいちょっとしたことだから、罪がないしおもしろい。それに、ひたすら一生懸命怒るのもかわいく映るんじゃないかと思う」

●「俺なんかの場合は、女の子が虫の居所が悪くてからんでくるのはイヤだけど、ちゃんと愛情とか情熱をもって怒ってるんだったら、そいつの言うことはちゃんと聞く。(略)それに、女の子がかんしゃく起して泣いて怒って、『イヤやな、こういうの』って思ったとしても、怒った後で、その子がめっちゃかわいく甘えてきたら、どうでもよくなるかもしれない。いつもはそんなこと絶対しないのに、意味なく後ろから抱きついて『
だーれだ?』ってやってきたら。俺だったら『なんだコイツ、うっとうしいな』と思いながらもコロッと『かわいいやん。ま、しゃあない、許したるか』って思うけどね」

●「あとは白のジーンズにパンティラインが見えてたりするのもエッチでいいし、髪の毛ポニーテールにしたりして耳が見えてるのも、ある意味エロイんじゃない? それからポッチャリ気味の子が『
恥ずかしいから電気消して』なんて言ったら、やっぱり燃えるね」



 以上、北原が引用した、つんく『LOVE論』の一部でした。

 北原は、この、つんくの女性観を「どうも、四十代のオヤジの発想としか思えない」と疑問をしめしたあとで(北原も、つんくも、そしてぼくも同世代である)、こうまとめる。

「つんくは、小太りで、背が低くて、怒っても後で『だ〜れだ?』と目隠しし、怒る理由は必ず『つんくが自分を振り返ってくれない』という理由や、もしくはその他『女の子らしい』小さな理由であるべきで、簡単にヤレそな女ではなく、イザとなった脇の下に汗たらたら流しながら『恥ずかしいから電気消して』とか言って、ご飯食べるときにはお箸を差し出したり、つんくがお酒でもこぼしたらサッと雑巾で拭いたりして、アホっぽく、ドジで、自慢話を決してしない女が好きだってことでしょう」

 つんくの『LOVE論』の一端をながめてみて、あなたはつんくの側にいるだろうか、北原の側にいるだろうか。その中間はないのだ。バリケードのむこうかこちらか、しかない。

 北原の書いていることは、いちいちうなずいてしまうものばかりだ。

 親からくり返しくり返し「子どもをつくったほうがいいよ」といわれ、ついに喧嘩になる。母親が「私はみのりちゃんのように、難しいこと分からない。ほんと、ただ、子供を産んだら、って言っただけなのに……」と泣きながら言うのにたいして、北原は「バカなふりするの、やめてよ! なんでお母さんが泣くの!」と言って自分も泣き出してしまう。
 そうなのだ。
 支配的イデオロギーは善意の顔でぼくらの日常におしよせ、防御の槍をこちらがくり出せば、「バカ」のふり、そして「自然」のふりをしてそれをかわしてしまう。
「私は今年三〇歳になる(すでに三十代の気分なのだけど)。三十代の女性にとって、『産む』『産まない』という選択肢は、非常に深刻なものとしてのしかかってくる。期間限定だからこそ、その決断をいつするか、ということがプレッシャーになってくる」
 これはすごくよくわかる。
 もちろん同じ性を生きるものとしてではないが、子どもをもっていない三十代夫婦の一人としてよくわかるのだ。北原は、ここで受精卵を凍結して残しておくアメリカの職業もちの女性たちの話を紹介する。その気持ちもぼくらのすぐそばにあるように感じる。
「新しい人格を生み出す責任に、ただただ、おびえてしまうだけである。その責任の重大さに、腰がひけてしまいそうになる」
 という北原の一文もわが意を得ている。ぼくは、しばしば子どもをもった夫婦から、「もってしまえばなんということはないわよ」と言われ、それはそのとおりかもしれないと思うが、北原の逡巡のほうがはるかにリアリティをもってぼくに迫ってくるのだ。

 本書は、フェミニストである北原が、日常で出会う、メディア上の話題(NHKの久保純子アナの受容のされかた、電車のなかのポルノ広告、専業主婦批判の批判)、セックスの話題(アダルトビデオ、フーゾク)、生活の話題(「子どもをつくれ」という圧力、ファザコンへの寛容、ナンパ)などをつうじ、そのなかに、彼女のフェミニストとして生き方をエッセイ風に展開しているものである。

 「エッセイ風」というと軽さがつきまとうけど、これは北原の戦略である。
 北原は、フェミニストというのを肩書きや思想体系だとは考えず、自分が「オンナ」であることの自然体な生き方であると感じている。だからこそ、それを日常の風景のなかにおきたいと考えているのだ。したがって、体裁は「エッセイ風」であるが、その一つひとつの洞察が、鋭角で、深いうえに、ぼくはとても柔軟なものを感じる。友人にすすめられて、1年ほど前に読んだのだが、読み返すほどに面白い。
 北原のこの1冊には、〈私〉をめぐる状況と、〈世界〉をめぐる大状況が、実に無理なくつながっている。シャープでの女性の昇格差別の裁判話なんかも自然に本書には登場している。

 『フェミの嫌われ方』というタイトルは、いっぷうかわっているが、これは北原の生き方と世間の距離と、その距離感に呻吟する北原の感情を絶妙に表現している。

 さきほどものべたように、北原にとって、フェミニストであるということは、ふつうにオンナとして生きることである。ところが生きている随所で、あまりにも多くの無理解や圧力、ときには暴力が、「オンナである」ということをごく自然に生きようとすることを妨害するのだ。

 これは、漫画家・榛野なな恵が『Papa told me』で描いた、日常の中に存在する「トゲ」に対応している。
 榛野は榛野らしく「普通」に暮らしたいのに、なぜかその「普通」を生きようとすれば、息苦しさにとりまかれてしまう。

 北原は普通に「オンナ」として生きているつもりなのだ。
 ところが、その外側の客観世界はそれを許さない。
 電車に乗ればオンナをおとしめるポルノ広告が堂々と掲載され、鉄道側も「それは、あなたの感性ですからね。ああいう広告が女性蔑視である、という風に考える人は少ないですよ」と平然という。
 「子どもを産め産め産め産め産め産め産め産め産め産め産め」と迫られ、少しでも苛立てば「難しいこと分からない。ほんと、ただ、子供を産んだら、って言っただけなのに……」と馬鹿のフリをされ、苛立ったほうがヒステリー扱いをされる。

 「オンナ」として自然に生きるために、闘わざるをえないのだ。

 北原はおそらく「たたかう」という用語をきらうだろう。
 しかし、自然であろうとする北原が、自らをとりまく客観世界のトゲ、圧力、暴力に怒り、それをやはり変えようとしている姿勢は、まさに「たたかう」としかいいようのないものである。

 ここから「フェミが嫌われる」という事態が生じる。
 北原のフェミ仲間の言葉を紹介しよう。
 「フェミって、一つのキャラクターにされちゃうんだよねー」
 「そうそう、一種の圧力団体扱い
 「言葉狩りをする偏狭な人だと思われてるのかな」
 職場の飲み会で女性がお酌をすることをおかしいというと、「彼女はフェミニストだから」で片付けられてしまう。

 自然に「オンナ」を生きようとすることは、客観世界の変革へと駆り立てざるをえない。
 あるいは、その自然な生き方をおしつぶそうとするものとのたたかいをせざるをえない。
 そのアクティブさ、ラディカルさ、戦闘性が、「嫌われる」というのである。

 これは、コミュニストであるぼくも、深く同意する。
 コミュニストであるということは、この資本主義社会において、そこから人間らしさを回復しようとおもえば、普通にたどりつく生き方である(ぼくのコミュニズム観はこちら)。「モウケ最優先の経済をのりこえよう」「そのために人間が共同しよう」という思想と生き方にたどりつかないのであれば、それは人間さしさを剥奪する非道な力に、その人が屈しているということではないか(しかし、ぼくにも一抹の謙虚さはあるから、自分の立場を「左翼」だというふうに相対化して表現するのだ)。

 人間らくしあろうと思えば、それをさまたげるものとたたかわざるをえない。

 次の一節は、ぼくがコミュニスト人生を始める上で多大な影響を与えた一冊だが、そこにまさに同じ思想がある。



高望みをしないで分相応に、日常の平凡な生活の中に幸福を見つけよう、
といった人生観の上からの押し売りに我慢ならない。
それは分相応という語で、貧富の差の拡大を企む輩の言い草だからだ。
貧しい者には分相応の低く固定した生活水準を強制し、
自分達は年々増大する生産力をしこたま吸収して、
肥えてやろうとの魂胆が見えている。

しかしこういう奴等に限って、
凡人の凡々たる普通の生活を破壊し続けてきたのだ。
ポル・ポトやイエン・サリが何を考えていたか知りたくもないが、
“本当の平等を実現する”と称して、
普通の市民の普通の生活を破壊してしまった。

革命が市民の支持を得るとすれば、
それがとりもなおさず市民の平凡な日常を守る企みだからだ。
自分の耕す土地から追い出されたくない、
家族と共にありたい、
思想や宗教の強制はごめんだ、
友人と飲み語り笑いたい、
年寄りや子供と共に収穫を喜び踊りたい、
そういったひとり一人のささやかではあるが、
ラジカルな願いが結集されるからこそ、一歩もあとにひかぬ強さが生まれるのだ。
まさに過激思想とは常識を実行することである。

革命家は最後まで大いに凡人であるに違いない。
第三世界の反帝国主義解放闘争や、
対独レジスタンス、反日パルチザンなどが目指したのは、
凡人の平凡なる日常を回復することだったのだ。
ただし断固として。

人は整然たる行進、マスゲーム、大集会、そして演説に
感動して涙を流して闘うわけではない。

普通であること、平凡であり続けることが、最もラジカルなことなのだ。

そして一人一人の平凡は、それぞれ異なった内容を持って、
それぞれのためだけに光り輝いている。
その光を感じあえることが連帯だと思う。
権力が恣意的基準で民衆の生活を強圧的に均するのでなければ、
それぞれの普通や平凡は千差万別で互いに優劣などはありはしない。

(樋渡直哉『普通の学級でいいじゃないか』)



 ある種の人々は、「フェミニスト」というのを「肩書き」と考え、それを脱げばラクになる、そんなふうに自己規定しなければいいのに、と忠言する。そういう思想に自分を預けることだと思うらしい。
 北原は苛立つ。
 「オンナ、というだけではひとくくりにすることは、もちろんできない。だけど、『オンナである』ことで味わう体験は、それほどみんな違わないはずだ。『オンナ』であることで、傷つくオンナがいることを知っているはずだ。そんな社会で、『私は公平な人間です。フェミニズムは一つの思想として認めるけど、私には必要がない』なんて言う人の欺瞞と、どう、闘えばいい?」

 これはコミュニストが長年感じてきた苛立ちに、非常によく似ている。
 (コミュニストはこの「思想」と「個人」の間にさらに「組織」が入る)
 「コミュニストだなんていうから、偏見を受けるんだよ」
 「あなたのいっていることはまともだけど、コミュニズムは一つの思想だし…。偏りたくない」

 北原が、フェミニストを公然と宣言をする戦略をとっているのは、まったく敬服する。そして正しい。
 平凡であり続ける、自然体であり続ける、そういう生活を断固としてたたかいとろうと決意した瞬間に、その生き方は自覚的なものにならねばならない(北原は否定しているが、その瞬間にそれは生き生きとした「思想」となる)。何とたたかい、何を変えるのか。

*     *     *

 北原の思考の柔軟さは、たとえば、専業主婦批判の言説にたいして、反論を試みている点にみられる。「結婚制度は奴隷だ!」とデモで叫ぶときの気まずさ、自分の母親にたいする居心地のよさから出発し、専業主婦の生活の思いを馳せる。

 また、マザコンを批判する人々がいるが、北原はそこに割り切れないものを感じ、高倉健と広末涼子が共演した『ぽっぽや』にみられるファザコン、もっといえば父が娘と「つながる」欲望への社会の奇妙な寛容について、友人のメールをもとに紹介する。

「少女 『駅長さん! 目をつぶって! いいことが起こるから!』
 健さん『こうかい?』
 少女はコーヒー牛乳を口に含み、なんと! 健さんに口移しで……。
 うわーっ、もうこれ以上書きたくないいい!
 しかもその後、少女は『キスしちゃった! キスしちゃった!』と踊りながら大喜び。
 劇場には微笑ましい笑いが広がる」

 マザコン批判は、「男はもっと自立しないと!」という男性観がそのウラにないか。
 ファザコン許容は、父親が娘たちとつながりたがっている欲望、そして娘のままでいることへの寛容と一体ではないか。

 男は雄々しく自立して。
 女はいつまでも娘として。

 という空気がそこにはないだろうか、という北原の疑問である。

 こうした思考の柔軟さにくわえ、前にのべたとおり、みずからの生活の風景や生き方のなかから、世界につなげる遠大なスコープをももっている。もし高校生のときに、ぼくがこの1冊に出会っていたら、きっと革命的な作用をおよぼしていたにちがいないと思う。

 あまり手に入りにくい本だとは思うが、多くの人にすすめたい。


 なお、北原がいっているように、オトコであるぼくは、このサイトをみてわかるとおり、女性にたいしてのゆがみや欲望をかかえている。そういうだらしなさをかかえているのだという自覚については一言のべておきたい。


新水社
2004.2.14記
メニューへ