マルクス『フォイエルバッハにかんするテーゼ』

 「自分らしさ」を求めて「自分探し」の旅に出かけてもそこには「自分」はいない。「他者」にしか出会わないだろう。
 「マインドコントロール」という言葉が否定的なニュアンスで頻繁に使われるのは、この「自分探し」とコインの裏表の関係にある。そのコアには、“外因や他者の影響をすべて排除したところにピュアな自分というものが存在する”という「自分らしさ」像がある。「個人主義対全体主義」という不毛な構図や、「自己決定、自己責任」という過剰な強調は、その妄想に拍車をかけている。すべてを遮蔽した自己というものを設定し、ひたすら内省的に自己を探しつづけるのだ。

 マルクスは、ヘーゲル左派の哲学者だったフォイエルバッハを批判する11のテーゼをメモにして残した。
 その第6テーゼの一部分をみてみよう。
 
 「フォイエルバッハは、宗教的本質を人間的本質に解消する。しかし、人間的本質は、個々の個人に内在するいかなる抽象物でもない。人間的本質は、その現実性においては、社会的諸関係の総体である」

 また、第7テーゼ。

 「したがって、フォイエルバッハは、『宗教的心情』そのものが一つの社会的所産であること、そして彼が分析しだす抽象的個人が、現実には特定の社会形態にぞくしていることをみない」

 このさい「宗教的」うんぬんというコトバは、ほっておこう。
 人間は、そのときどきの社会的関係の総体として存在するから、いつでも具体的な歴史と社会によって規定されている存在である。これが人間の本質だ、と思ってとらえたものは、実は特定の歴史段階における人間を見ているにすぎない。
 「人間とは戦争をする生き物である」――それを人間的本質ととらえるとき、実は、その人は人間の、ある歴史的な形態、過渡的な形態、特殊な形態であるということを忘れて、まったく抽象的にとらえてしまっているのである。「人間とはいじめをする存在である」「人間とは欲深い生き物である」「人間とは」……このような人間観こそ、マルクスやエンゲルスが批判した、「抽象的な人間の礼拝」だ。

 「歴史的過程をぬきさり……一個の抽象的な――孤立した――人間の個体を前提にする」(第6テーゼ)

 「自分探し」にもどれば、人間というものがたえず歴史的社会的に規定された存在であり、社会的諸関係の総体が「自分」なのであるとすれば、「自分」とは「他者」であり「社会」なのである。高度に発達した資本主義日本において賃労働−資本関係に入っている自分であり、世界の商品流通の網から商品をすくいあげている自分であり、そのようにして成り立った大都市に吸い寄せられてきた若い同僚たちと職場関係を結んでいる自分なのである。自分を変革するためには、社会と諸関係の変革なくしてはありえないし、自分を知るということはそれらを知るということ以外の何者でもないのだ。


エンゲルス『フォイエルバッハ論』(森宏一訳)
新日本出版社 科学的社会主義の古典選書
ISBN4-406-026919-3 C0330