松宮健一『フリーター漂流』
※NHKスペシャル「フリーター漂流」の感想はこちら
特長の一つは、番組で紹介したフリーターたちの「その後」をフォローしていることである。 やはり気になるのは、映像の最後を「かざった」Hさん(※1)だろう。 35歳、もう後がないという焦燥でいっぱい、なおかつ実直な印象をうけるHさんの運命は、番組のテーマとは別に、個人的な関心を抱かずにはおれない存在だ。 くわしくは本書を読んで知ってほしいのだが、一つだけ。 Hさんは、あの後、ある事情で、50代の男性に、請負の仕事について質問される深刻な場面に遭遇することになる。50代の男性はリストラされ3か月職安に通ったが仕事が見つからず、切羽詰まっていた。 Hさんが請負の仕事を説明する。(p.86)
テレビで放映されたとき、Hさんはまるっきり同じような状況で同じ不安を請負会社の人間に投げかけた。そのとき、請負会社の人間は「馴れです。というか、こういうような仕事をHさん、するしかないですよね」と言われるのだ。 今度は、Hさんがこの疑問を投げかけられる。 そこでHさんがどう答えたか――それはぜひあなたが想像しつつ、本書を実際に読んでみてほしい。 目の前の現象にとらわれない 本書を読んでみて、ジャーナリズムの視点としてすぐれていると思うことが二つあった。 一つは、目の前の現象に目を奪われずに、その本質に迫ったこと。 具体的には、高校生たちへの取材だ。 松宮は東京・足立区で取材をする。ここは就職内定率が都内最低で、「フリーター養成区」などと言われていた。取材した都立高校でもなんと卒業生の3分の1がフリーターになるという。 「フリーター漂流」というフリーターの苛酷な労働現場の実態をえぐりだす番組をつくった松宮だが、ここで彼は取材した高校生から次のような言葉を聞く。 「フリーター最高ですよね。昼間で寝て、夕方からバイトに言って、友達感覚で楽しく働いて、それでバイトが終わったら、友達を呼んで朝まで遊ぶつもりです。金がほしいときにバイトして、遊びたいときには休む。とりあえずいまが楽しいことがいちばん大事ですね」 「多分、就職はしないと思う。だって学校の求人票にいいのがないんだもん。やりたくない就職先ばっかりで、見ているだけで嫌になっちゃう。でも遊ぶお金はほしいからバイトはすると思うけど。あーずっと高校生のままでいたいな」 フリーターに説教したいオヤジどもが、垂涎しそうなセリフではないか。 しかも「彼らの授業態度にも驚かされた」と松宮は言う。「一時間目から机に顔を沈めて眠り、眠りから覚めると、授業中にも関わらず友達とメールのやりとりをしている。教師が注意してもまったく意に介さない。アルバイトがあるからと言って早退していく生徒もいた」(p.100)などという現状をみせられてしまう。松宮は「共感できなかった」(p.100)という感想をかくさない。 ここから「若者の甘い意識がフリーター化をまねいている」という、ネットや俗世間に掃いて捨てるほどある言説におちこむまであと一歩だ。これに学問的体裁をくわえれば、「雇用のミスマッチ」などという竹中流経済学の概念ができあがるだろう(※本書でもこの概念自体は使っている)。 しかし、松宮がジャーナリストとしてすぐれていると思ったのは、そのような上っつらにだまされることなく、考察を深めていったことだった。松宮は、ある高校生の一人をつっこんで取材している。彼は曳田祥吾という。 曳田は、アパレルの仕事にいきたいから、学校がすすめるプレス加工の仕事などはまっぴらごめんだと考える。そこから出発するのだ。さっき紹介した高校生の「だって学校の求人票にいいのがないんだもん。やりたくない就職先ばっかりで、見ているだけで嫌になっちゃう」という部分を代表している。 しかし、そこから彼なりの迷いがあってフリーターという道を「選択」していく、選択せざるをえない状況をあぶりだす。 正直、先の高校生といい、この曳田という高校生といい、そこに「甘さ」がないとは言わない。しかし、それくらいの「甘さ」は誰にでもあるだろう。えらそうにここで書いているぼくこそ、実は曳田以上に「甘い」だろう。いや、高校生のころのぼく自身をふりかえれば、それこそ消え入りたくなるほどの「甘さ」であり、隙だらけの存在だったと思う。 若いというのはどんな世代であってもそういう未熟さのまっただ中にある。 古い世代は、学校を出ればすぐに「正社員」というコースが用意されていたし、まわりも自分もそのことになんの疑問もいだかぬ価値観のなかで暮らしていた。未熟さを社会がフォローしていた。年金だって会社がやってくれるし、保険だって新入社員めがけてすぐ保険屋がやってきた。年金未加入とか怪我で生活を失うとか、起こりようがない。その時代には未熟さは露呈せずにすんだのだ。 松宮は、高校生の「甘さ」に直にふれるにつけ、「フリーター増加の原因は、生徒たちの意識にあると思った」(p.101)という感想を隠さないのだが、他方で「しかし、取材を重ねていくと、生徒達がフリーターになるもう一つの理由も見えてきた。学校に来る求人の数が大幅に減少していたのである」(同)という問題へすすんでいく。 ひょっとしたら、高校生の「甘さ」をまずグッと前面に出してみるのは、そういうフリーター観の人たちを受け止める、松宮の戦略なのかもしれないな、と思った。 そうした叙述の仕方もふくめて、目の前の「甘え」という現象にまどわざれずに、資本側が正規雇用そのものを削減していることにふみこんでいっていることが、すばらしいと思った(※2)。 テーマをえぐりだすための取捨選択 ジャーナリズムの視点としてすぐれていると思った第二点目は、これだけすごい対象を取材しながら、問題を典型的に描くうえで取捨選択を厳しくおこなったということだ。 実は、この単行本では、テレビで紹介しきれなかったフリーターの取材が紹介されている。そのどれもがドラマを感じさせるものばかりで、強くひきこまれてしまう。 とりわけぼくがひきこまれたのは、劇団の夢が捨てきれずに貧しいフリーター生活をしている山岡未絵という女性と、中高年フリーターとなった36歳の荒牧晋という男性のケースだ。 山岡のは、彼女を支えようとする両親の思いと、それが断ち切られる悲劇が胸に迫る。荒牧の話も、自身がちょっとしたことで借金をこさえて身動きがとれなくなってしまい、夢が枯れていく様子が読んでいてあまりにつらい。 それほど胸をえぐる話でありながら、松宮はこの「夢追い型」フリーターを、フリーターという状況を描く「典型」としては使わなかったのだ。 フリーターが個人的な事情ではなく産業の構造の中にしっかり組み込まれ、使い捨てにされていくという現状を描く上では、「夢追い型」フリーターは、実は複雑な問題が錯綜しすぎている対象だといえる。そこにも不安定雇用や貧困をめぐる状況は反映されているのだが、フリーターが先のない「使い捨て」であるという現状を時間の限られたドキュメントの中で「使う」にはあまりふさわしくないと判断したのだろう。 この、心を動かす対象を、思い切って取捨選択できるというのは、なかなかすごいことだとぼくは思う。 松宮の「おわりに」の言葉は、松宮のすぐれた視点を集約して表現している。 「フリーターの問題は若者の意識に原因があると、私たち『大人』は考えてきた。しかし、原因はそれだけではなかった。むしろ、大人たちが築いてきた社会システムにこそ大きな原因があった。大人たちは『フリーターはいけない』と否定的に論じる一方で、正社員の採用数を減らし、フリーターを雇い続けてきた。国もこうした企業の動きを本気で止めようとはせず、フリーターを企業に供給するシステムだけが合法的に整えられてきた。この矛盾が若者たちを追いつめていた」(p.201〜202) 200ページもある本だが、取材の「面白さ」(失礼)と視点の深さに圧倒され、一気に読み終えた。番組を見逃した人だけでなく、見た人々にも強くおすすめする。
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