『フツーをつくる仕事・生活術 28歳編』 28歳という危機 「『一人前に働けて当たり前』『結婚できて当たり前』『生活力がついて当たり前』……世間からも親からもそう思われて当たり前の二〇代後半」(本書「あとがき」/中西新太郎)――こういう20代後半観はいまだに強い。ゆえに「自分だってそう思うから、『できてない』自分に焦りを感じ自分を責める、三〇代への突入がクラーイ将来としか想像できない」(同)ということになる。 ぼくが就職したのはようやく25のときで、20代後半は結婚もしていなかった。カノジョはいたわけですが、収入があるのはぼくの方だけ(カノジョは簡単なバイトのみ)でしかも月20万円ほどだったので、とても家庭など持てなかった。 実家に帰るたびに、祖母が心配して小遣いをくれようとしていたのは、孫のあえかなる身を思ってのことであった。 ぼくが20代後半だった時期にくらべても、この「世間通念」と現実とのギャップはますます開いているだろう。世間もだんだんと20代後半とはそういうものではないんじゃないかな、という認識が広がってきているとは思うけど、現実がものすごいスピードで急落下しているので、落差はいっそう開いているのだ。 ここ1〜2年で「空前の売り手市場」「正社員がどんどんふえている」みたいなキャンペーンがあるが、非正規化の流れはあいかわらず止まらず、少なくとも「男性正社員+女性専業主婦」的な家庭モデルの解体は進み続けている。 現代の20代後半の生き方と対比されているのは、正社員・年功序列・終身雇用という生き方である(※)。 「かつては、学校を卒業してすぐ就職した職場で働きつづけ、定年まで勤め上げるという働き方が一般的でした。昔も仕事は大変で、労働時間も長く、いろいろな困難を抱えていたのですが、なんと言っても正規社員として就職し、一つの会社で勤め上げれば安定した生活ができました」(本書「はじめに」) 女性は、さきほどのべたようにそのパートナーとして専業主婦(そして補助としてパートに出る)になる道である。 この働き方がいいか悪いかは別として、それなりに「将来」が見通せるというメリットはたしかにあった。そして、いま自分がどういうポジションにいるのかもわかったし、子どもの成長につれて賃金も上がっていった。 ところが、非正社員化がかつてなく広がったことや、それが単なる「家計の補助としてのパート」ではなく家計をメインで支える柱になったこと(だからこそ昔と比べても最低賃金が問題となるのである)、正社員になってもものすごい長時間過密労働を強いられドロップアウトしやすくなっていること、成果主義の広がりで子どもの成長にあわせた賃金が見通せないこと……などによって、20代後半で「仕事」「結婚」「生活力」などという「一人前」の条件とされてきたものは何も手に入れられない危険性が増大してきた。 生活の不安を基本にして、世間からまなざされている「20代後半」観とのギャップが20代後半をひとつの精神的な危機においこむのである。「まだ、フリーターやってんのか。情けねーなー」「あいつ、会社やめたみたいだよ。まあ、弱いところがあったからね」みたいな。 そこでこの本のスタンスである。 「そもそも二〇代後半の働き方も暮らし方も、『できて当たり前』と自己責任を押しつけられて、すませられる現実ではまったくない。フツーに働いていても生活できない自分が悪いってのか、と開き直って『当たり前』の実態ではないか。だから、自分だけででなんとかしようなんて思っちゃいけない。別のやり方で自分たちの『当たり前』(フツー)をつくり出してほしい。そのために役立つノーハウをとにかく集めてみよう。二〇代後半の著者たちがそう願って、若者バッシングに怒りながらこの本をつくった」(本書「あとがき」/中西) 「開き直る」とはどういうことだろうか。ただ「開き直っている」だけでは、座して死を待つだけになる。具体的にはこうだ。 「フツーを生きるためには、賃金と社会保障の利用との二本立てで生活を見通し、同時に労働法などの利用は不可欠、当たり前と主張しているのが本書の最大の特徴だ」(本書「あとがき」/蓑輪明子) ただし既存の社会制度があまりにも貧困であるという現実もふまえられている。「とはいえ、もともと貧困な社会保障と『改革』のおかげで、現行の制度を変えていかないと『フツー』は生きられない。28歳編にフツーを『つくる』というタイトルをつけたのは、こうした事情だ」(同前)。 20代後半に生活と精神の危機がおき、それは個人の責任ではなく基本的に社会のしくみによってもたらされているので、われわれは賃金だけでなく社会保障をフル活用して生きていこうではないか!――非常にクリアな立場だ。 こういう本が待ち望まれていた。 たとえば、労働法の活用を書いた本はいくつもある。 しかし、一般的に「こういうトラブルが起きたときはこう考えますよ」というのは、ある意味で消極的な叙述である。トラブルが起きたときに考える、という姿勢がみえるからだ。 本書は一読すればわかるが、まさに「開き直り」である。すなわち、生きるために、積極的に社会保障制度、行政の制度を活用する。職場においても、労働法を活用しまくるが、それは早い話が個人ではほぼ活用をつらぬくことはムリなので、労働組合というバックをフル活用するようにしむけてある。 賃金だけでなく、社会保障の制度を活用する まず、社会保障をはじめとする「制度」の活用である。 社会保障の本質は、所得の再分配にある。 すなわち政治という媒介によって、大企業や大金持ちから富を奪って、貧しい人々に分配するシステムである。前に「ワーキングプア」の議論をしたときに、社会保障イコール生活保護みたいに狭く考えているむきが多いことを指摘したのだが、ぼくらが日常的に生きていると、行政のしくみはこの「再分配」によってほとんど支えられている。出産一時金だってそうだし、乳幼児医療費助成だってそうだ。あるいは市営住宅なんかもそうである。 賃金で足りない分の生活に必要なサービスを、再分配=税金によって、積極的に受けようというのが本書のスタンスだ。 まずこうした制度は、たいがい知られていない。ところが探せばけっこうあるし、役立つものが多い。 次に、手続きがむちゃくちゃ面倒なものが多い。公営住宅ひとつ入るのに、投げ出してしまいたくなるような書類の整備が必要なのだ。 そして、制度とは「静的」なものではない。裁量の余地や力関係によって決まる部分がかなりあるのだ。できるだけ狭くしようとする行政と、法=制度の精神を最大限にひきだそうとする住民とのせめぎあいが、現場でおこなわれる。 こうしたことを個人の力でやるのは無理である。はっきり言おう。無理だ。
右のメモは(これと別のケースだが)、ケースワーカーが生活保護受給の辞退届を書かせようとしたさいに「見本」として受給者に示したものだ。言われた方は悩んだ末に「自立したいが仕事がない」と書いて出すとケースワーカーは激怒したという(しんぶん赤旗07年7月31日付)。 こんなもの一人でたたかえるわけがない。餓死者続出の北九州市では申請用紙すら渡さず、大量の餓死者が出てようやく「渡す」ことを認めたんだからいかにすさまじいかわかろうというものだ。 そこで、住民団体やサヨ議員を徹底的に活用した方がいいのである。本書でも住民団体などの紹介を章ごとにしている。 行政の職員というのは、制度をよく知っているだろうと思うかもしれないが、実は意外と知らない。精通しているのはその部署でもわずかな人数なのだ。だから窓口で杓子定規にハネられるものも、意外に不当なことが多い。 直接カンケーないけども、ぼくもある自治体の図書館でカードをつくってもらうとき、申し込み用紙を「元号」で書かずに「西暦」で書いて出したことがある。そうしたら、窓口の女性職員が「これは受けつけられません」とハネつけてきたので、「いや国会審議で強制はできないとされていますよ」とこっちが言うと、職員は「ともかく書き直さなければ受け付けません」と言い張った。その場は引き下がって本庁に電話したところ、課長が来て謝りながら受理されたことがある。この話を聞いた知り合いから、「お前みたいなのが窓口にきたら心底嫌だな」と言われましたが(笑)。 制度が知られていない、という点では、たとえばこの本で紹介されている「職業訓練校」などがいい例だ。 無料、もしくは格安でさまざまな技能が身につけられるうえに、地元に密着しているので、就職を展望するさいにも力を発揮する。ガテン系のイメージが強いのだが、実はITや福祉、簿記などのコースもある。 民業圧迫の理由で次々と縮小と有料化がすすんでいるのだが、まだまだあるので、これを活用しないテはない。 同じようなものを、民間の「学校」で身につけようとするとべらぼうな金がかかる。それどころかタチの悪い業者にひっかかれば、高い学費だけとられ、おざなりな「講座」が与えられるハメになる。市場が悪いものを淘汰するなどというのは、ここではまったくの幻想。ある悪徳業者は長期的に淘汰されても、簇生しているから、必ず一定数の人はこうしたものにひっかかりカモにされ続けるのである。市場神話は「長期的」には達成されるが、被害は日々毎日出続けるのだ。 労働組合という「組織」を活用する 次に、労働組合の活用だ。 職場の問題は、とくに「個人技」に任されてしまっているものが多い。それゆえに絶望的になってしまうものは少なくない。 正社員でいえば、長時間労働、残業代未払い、いじめ、セクハラ。非正社員でいえば、クビ、無理なシフト、有休、賃上げなどだ。こういうことを「個人」で対応しようとしても絶対的に無理がある。 トラブルがあったときに……というだけでなく、自分の生活を何とかするために労働組合を活用するのである。まさに「フツー」をつくりだすために。 たとえば、子どもが生まれて妻も働いているときに、育児のために労働時間を配慮してほしいということは、個人で対応してもらえる場合もあるが、多くの場合、ハネつけられるだろう。「ハア?」と言われる場合さえある。 こういうときに、労働組合を通じて交渉するのだ。 まず、法律通りに――本当に労働法どおりに――やればかなり快適な労働環境を実現することができるだろう。それから、仮に法律以上のこと(賃上げ。労働時間削減など)を望んで一朝一夕でできなくても、個人の時とはちがう展望が開ける。 とにかく「個人で対応する」という考えを根本的に転換するのである。 交渉と闘争のプロにまかせる(ある意味「まかせる」のだ)ことで、まったく違った視野が開ける。 「自分たちでは『どうにもならない』『会社は言うことを聞いてくれない』と思うことでも、ちゃんと話せば案外なんとかなったりするものです。/ある三〇代前半の女性は経理の仕事をしていましたが、給料も安く、いじめもあり人間関係も悪かったので、会社をやめたいと考えて労働組合に相談したところ、とにかく会社と話し合おうと言われました。かえってめんどうなことになりそうで、気乗りがしなかったのですが、やってみると、ピタッといじめがやみました。給料も二万円ほど上がったこともあって、転職は立ち消えになりました」(本書p.12) よく、「労基署にいってもとりあってくれなかった」という苦情を聞く。 本書でも労組とともに公的機関の活用をすすめているが、そのとき、こんなことを付記している。 「労働基準監督署などに相談して『雇用の継続は難しい』と言われても、労働組合に相談したらクビにされずにすんだ、ということがしばしばあります。労働基準監督署は法律の最低限を守らせるための機関であることから、労働者が獲得できる水準が比較的低いためです。労働組合の場合は、法律の最低基準にとらわれず、労働者のために会社と話し合いをする組織ですので、労働者が獲得できる水準が比較的高くなるという特徴があるのです」(同p.134〜135) この点で、本書のp.35〜36に載っている、一人でも入れる労組「青年ユニオン」の、ある私立学校での団体交渉の様子は参考になる。 いきなり2人の非常勤職員にクビが言い渡されたのだが、団体交渉を申し入れたとたん、その席上で解雇を撤回してしまう。 そして、学校側がしかし担当するコマ数を減らす、というので、ユニオン側が追及していくのである。コマ数が減るというが、あんたがた新たに人を雇うそうじゃないか、と。 学校側はその非常勤職員のコマ数が過剰だからだと言い訳。しかし、その学校の担当コマ数の平均でしかないことをユニオン側が暴露すると、「非常勤は少ないの(12コマ)が普通」的な発言をするのである。 これにたいして、ユニオン側が放つ追及が痛快である。 「非常勤だから週一二コマが普通なんだと言うのはやめてほしい。足りないから増やした、いらないから減らしたというのでは困るんだ。非常勤講師を雇用調節の安全弁のように扱うことは、生徒に正義を教えることを使命としている先生として恥ずかしくないのか」(p.36) これは非常勤を本気で調節弁だと思っている経営陣からはとうてい出てこない発言だし、もしこの種の発想に染められていれば、被害者自身でさえ、個人ではこういう論理をくり出すことは難しいだろう。 そして、「公的機関」でもこうした追及はまず無理だろうと思われる。まさに最低限の法律遵守のためにしか動かないことが基本なのだから。 制度や組織ばかりではなく、生活の指南をする このように書いてくると、労組をふくめたたんなる制度の活用本のように思えるかもしれないが、本書のユニークな特徴は、きちんと生活指南になっていることなのである。実は本書においては、この分量が一番多いといえる。 たとえば、「第1部」は「転職術」なのだが、ここで細かくやっているのは、「いま転職したい」という気持ちを解析する作業なのだ。 それはいまの職場に不満があるせいではないか?(だったら職場の不満を解決することが実は解決策ではないか) あるいは、体調が悪いために「とりあえずやめる」という選択をしているのではないか?(だったら、休職するなどの道をさぐるべきだ) 別の仕事につきたい、ということはどのような情報からイメージを組み立てているのか?……などである。 転職の失敗例などをのせて、それが何にふりまわされた結果なのか、を書いているあたりは「面白い」。 以前から仕事に疲れるとマッサージなどを利用していたDさん。「人を元気にする仕事がしたい」と学校に通った後、整体店につとめるが、「肉体労働のきつさはある程度覚悟していたDさんでしたが、予想外だったのは劣悪な条件の勤務時間でした。そもそも整体業界では夜間や土・日などに客が多いので、その時間帯に勤務のシフトが集中します」「なかなか休みも取れず、昼夜逆転の生活を送らざるをえない日々のなかで、『自分が癒されたい』と思うようになってしまったと言います」(p.45)。「『自分が癒されたい』と思うようになってしまった」というのがリアルだなあ……。 これにたいして本書は、赫々たる成功例を載せるのではなく、結局十分に思う通りにはならなかったけども、まずまず何とかやっていけている、というこれもリアルな2つの「成功例」を載せている。 そしてそこからどのように転職の情報やイメージ設計をするのかというアドバイスをしていくのである。 こうした「生活指南」「生活処世」のなかでぼくが面白いなと思った一つに、「仕事でたまったストレス……どう解消する?」というインタビューコーナーだった。 ある発注事務をしている正社員Cさんにインタビューをしているのだ。 「前は上司がイヤなことを言うから言わせないようにしよう、上司を変えようと思っていたから、ストレスが倍増したし、仕事の忙しさもいつまで忙しいのか見当がつかないから余計にストレスがかかった、というのはあると思います。仕事上の失敗も、前は失敗したら自分のせいなんじゃないか、自分に力がないからなんじゃないか、と思っていました」 「でも、実は仕事で何かミスが起きるときには、発注のなかみが二転三転してそのことをやりとりしているうちに関係者同士で行き違ってしまうとか、要するに私が悪いとか悪くないとかでなくて、そういう状況なら仕方がない、という場合が多いことに気づくようになりました。ちょっと理不尽だなアと思っても、迷惑をかけた相手との関係では、自分が怒られるのも仕事のうち。いちいち自分が悪いとか能力がないとまで考える必要はない、と思うようになりました」(本書p.150) すばらしい境地である。 ぼくは20代後半、こんなふうには気持ちをさばけなかったよ。 制度解説本ではない、生き方と思想の書物 この本は、このように、よくある制度解説本ではない。 財界が大量の非正規雇用の創出と活用を戦略にしている2000年代において、まさに「フツー」をつくりだすために「仕事と生活の技術」の本なのだが、それを通じて生き方や発想を変えること――すなわち賃金だけでなく社会保障を活用すること、労組や住民団体など組織の力をフル活用することを求める本でもある。 現実には、この「フツー」をつらぬくには力が要る。当たり前のこと、「常識」はなかなか通らない世の中なのだ。「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である」(芥川龍之介『侏儒の言葉』)。 格差社会の議論をきいていて、ぼくがうんざりすることは「○○というやり方をすればもっと効率良くできるのに、その人たちはなんでしないの?」という類の発言に出遭うときである。 もちろんそれでやっていける、いけた、という人はそれでいいだろう。 だが、個人的な技術や対応ですりぬけていくやり方は、(1)できない人がたくさんいる(2)一つ一つは「ウマい」発想でも、生涯かけては脆弱である、という点で欠陥がある。ウツとその予備軍が大量発生する遠因でもある。 この点で、最近内田樹が自分のブログで書いた「格差社会って何だろう」は実に呑気な一文である。 http://blog.tatsuru.com/2007/07/24_0925.php “格差社会議論は、カネがないことを問題にしているけども、それは悪しき拝金主義に染まった考え方で、私はカネがないことで人を低く見たことはないよ。私はカネなんてなくても楽しくやっていけたよ”とまあびっくりするような議論をしている。 「ご飯を食べる金がないときも、家賃を払う金がないときも、私はつねにお気楽な人間であり、にこにこ笑って本を読んだり、音楽を聴いたり、麻雀をしたりしていた。たいていそのうち誰かが心配して、私のために手近なバイトを探して来てくれたので、間一髪のところを何度もしのぐことができた」のだそうであるが、人間は必ずしも内田先生のようにご飯を食べなくても死なない人ばかりではないし、家賃を払わなくても追い出されない人ばかりではない。また、手近なバイトを紹介してくれるつながりが必ずしも常備されているわけでもないのだ。 「就労可能」「辞退届が出たから」と、実際には仕事が決まってもいないのに生活保護を打ち切られ、「エセ福祉の職員ども これで満足か」「書かされ印まで押させ」「オニギリ食いたーい」「オニギリ腹いっぱい食いたい」と日記に書き残して北九州市で餓死した人の墓前にいって、「ご飯を食べる金がないときも、家賃を払う金がないときも、にこにこ笑って本を読んだり、音楽を聴いたり、麻雀をしたりしていれば、たいていそのうち誰かが心配して、手近なバイトを探して来てくれたのにね」とご報告してはどうだろうか。 独力や自分の才能で生きている、と考えるのは、ほとんど自惚れというか、ブルジョア社会では全員が独立した平等な商品の交換者であるというイデオロギーに汚染された結果でもある。 多くの人は、会社という富の配分体(賃金)、そして政府という富の配分体(社会保障)に頼らずば生きていけない。 本書はそれをもっと自覚化し、さらに「群れる」こと、すなわち組織の力を活用することで生きていこうよと徹底しているのである。 ぼくはマルキストであるが、いま左翼に必要なことは、政治路線の正しさとかそういうこと以上に、本書をまずテキストにして、組織を使って「群れる」ことで生き延びよう、と呼び掛けることなんじゃないのか。 ※この問題については次の指摘があることはふまえておいてよい。「『賃金構造基本統計調査』(一九九二年)によれば、従業員一〇〇〇人以上の大企業について五五〜六〇歳の従業員のうち高卒後ずっとその企業に勤めていたのは一四%、大卒では三二%となっており、一般に思われているほど『終身雇用』が一般的だったわけではない」(生田武志「フリーター≒ニート≒ホームレス――ポスト工業化日本社会の若年労働・家族・ジェンダー」 「フリーターズフリー」vol.1 p.225) 補足的余談: この記事がなぜか「はてなブックマーク」をされているのだが、その中のコメントの一つに「すいません。財源、どっから来るんすか?」というのがあった(07年8月6日現在)。反論に、この「すいません」というエクスキューズを使うというのが、「自分は均衡のとれた精神で気の効いたことを言っている」という調子が伝わってきてなかなかに香ばしい。似た言葉に「あの〜」などがある。 そしてまるで自治体や国の当局よろしく、「財源がない」「財政が厳しいから」といえば万事押し通せると思っているらしい。似た言葉に「第二の夕張にしていいのか」などがある。 現行の制度の範囲内で活用を、というのがこの本の主張なのだから、財源もくそもないことはほとんど自明である。この人は保育園の入所を役所に申し込むときに「財源が足りないよな」などと悩んであずけるのをやめてしまうのだろうか。あるいは出産一時金を「財源が厳しい折りだから断らなきゃ!」とか思って申請しないのであろうか。ドレイ根性もここに極まれりというものである。 労使交渉にしたって、違法部分をやめてくれというだけなのだから、至極当然の要求である。賃上げ交渉は法定ではないから、経営側が本当に原資がなければ上げないだけの話だ。この人は、月300時間のサービス残業があっても、動悸・息切れ・目まいがするなかで「で、でも財源がないから、ぼくががんばらなきゃ…!」とでも思うのだろうか。 呪文である。 人生これで乗り切っていけたら、こんなステキなことはない。 「課長、田中君の不祥事の件ですが」 「財源はどこから来るんだ」 「あなた、翔太が学校でいじめられてるの…」 「そんなもの、財源はどうするんだ!」 「それでは、喪主よりみなさまにご挨拶がございます」 「みなさま、本日はすいません、財源、どっから来るんすか?」 |
||||