安藤健二『封印作品の謎』『封印作品の謎2』



封印作品の謎  これは面白い。面白い本だ。
 徹夜あけの電車で座って読んでいても、まず眠くなることはなかった(『僕は妹に恋してる』は同じ状況下で寝てしまった)。

 70年代以降のアニメ・特撮番組・漫画・ゲームなどのなかで「封印」された作品をとりあげる。「封印」とは言い得て妙であるが、なんらかの事情で新たに発行・発売・刊行できなくなっている作品である。ただし「できなくなっている」とはいっても、それは国家権力による「禁止」ではなく、「発売元が自主規制した結果」(本書p.5)、封印されているものなのだ。

封印作品の謎 2  本書の第一弾にあたる『封印作品の謎』(以下『1』)では、『ウルトラセブン』第12話「遊星より愛をこめて」、『怪奇大作戦』第24話「狂鬼人間」、『ブラックジャック』第41話「植物人間」・第58話「快楽の座」などがとりあげられ、第二弾の『封印作品の謎2』(以下『2』)では『キャンディ・キャンディ』『オバケのQ太郎』などが俎上にのぼる。
 ぼくは『2』の方から読み始め、あまりの面白さに『1』も読んだのである。



双方の言い分を冷静な筆致で掘り下げる

 この本の特長であり面白さは、筆者はどちらかといえば封印そのものには反対の気持ちをもっているのに、その気持ちをおさえて、規制をかけようとする側と、規制をかけたがらない側の双方の論理を、いわば「その人の気持ちや理屈にたって」紹介していることだと思った。
 どちらの側にも一定の説得力があり、読者はそれぞれの論理にそれなりに説得される。その結果、自主規制がどのようなメカニズムと合力でつくられていくのかを、実に見事に浮き彫りにしていると思う。

 たとえば『1』の第1章でとりあげた『ウルトラセブン』第12話「遊星より愛をこめて」は、「スペル星人」という放射能汚染で血が汚された星の住人が、汚染されていない地球人の血を求める話なのだが、「スペリウム爆弾実験」の放射能によって血を汚染されたという「スペル星人」の姿や設定が、被爆者を「怪物」扱いしたということで、被爆者団体から抗議を受けるのである。

 実は発端をしらべると、番組ではなく子ども向け雑誌の付録についてきた「カード」に「スペル星人 ひばくせい人 目からあやしい光を出す」と書かれていたのを見て、抗議がおきたという。全身が被爆によるケロイドを想像させる白い皮膚に覆われている姿もまた被爆者団体を刺激した。

 12話の復活をのぞむファンや制作者の一部などからすると、“番組ではなくカードだけをみた印象から判断するからおかしなことになるのだ。そもそも12話は反核のメッセージをこめており、被爆者差別として封印するのはおかしい”ということになる。
 これはこれで一つの理である。
 他方で、筆者は「抗議する側の理由」として抗議側にも取材している。もちろん、双方の意見を聞くのは取材のイロハなんだけど、筆者・安藤の筆は、冷静にそれを紹介しようというタッチがよく出ており、全体的に立体的な視点を得られるようになっている。
 すでに20年近い歳月がすぎたこともあり、抗議側の一人も当時の事態を冷静に分析する。
 運動側がかかえていた問題点などをちゃんと指摘したうえで、こうのべる。

「〔番組制作者の意図は〕原水爆禁止運動に目覚めていない人達に警告を発する……それだと思うんです。その善意は汲むんですよ、私は。だから方法論が悪いとは思ってないです。ただ、何が裏目に出たかといえば、被爆者をどう扱ってどう膨らませるかという想像力の問題ですよ。そこに差別が入り込む隙間もあるんです。やっぱり、血の問題とかケロイドの問題とかをクリアできなかったってことです。結局、表現としての使い方で注意力が抜けちゃった」(p.55)

 ぼくはこの発言には説得力を感じる。カードだけでなく、作品そのものへの問題の視線も折り込んでいるのだ。
 「正しさ」を求めるサヨである自分と、「快楽」を求めるオタである自分は、ぼくのなかで統一されたり分裂していたりするのだが、この問題はその統一と分裂を何度も味わわされるスリリングな本だった。



「臭いものにフタ」式の対応を許さない

 筆者・安藤は、抗議側・制作側のどちらの側にたつにせよ、「説明責任」を果たそうとする者には愛着を感じているふうだった(当時を覚えていない人は別として)。安藤が警告したいと感じているのは、「臭いものにフタ」式の対応である。これらの対応をする個人・企業・団体には容赦がない。
 くわえて、「作品を見ずに批判する」ことや、「作品批判者の論理を聞かずに反批判をする」ことにも、安藤は厳しい視線をそそいでいるようだ。本書を書くきっかけになったという、安藤が産経新聞記者時代にとりあげた「O−157予防啓発ゲーム」にエロゲーキャラが使われたために中止になった事件で、安藤は記者時代はそのエロゲーをやっていなかったのだが、『1』でそれを実際にプレイしてみた感想を書いている。

「私は『水夏』は“死をテーマとした重厚なストーリーだ”とは聞いており、新聞記事にもそのつもりで書いてはいた。だが、正直な話、『所詮はHシーンを目的にしたエロゲーだろう』とやりもせずに思いこんでいた。しかし、実際にプレイしてみて非常に驚かされた。一言で言ってしまえば非常に面白いのだ。ゲームをやっている途中で、背筋が寒くなったり、目頭が熱くなったのは何年ぶりだろう。ものすごい衝撃だった。仕事だということも忘れてのめりこんでしまった」(p.238)

 この知的誠実さが、本書全体につらぬかれているので、どちらの側が読んでも強い説得力をもつことになったと思う。

 部落解放同盟などが中心になって激しい「糾弾・確認闘争」をくりひろげた時期があり、差別問題は「こわい」「めんどう」なものとして、制作者側には萎縮が生まれ、説明なき「封印」を生むことになった。逆に、ある作品を「差別表現がすぎる」と指摘すること自体が何でもかんでもヒステリックで性急な政治言動のように見なされる風潮も生まれてしまっている。

 政治的な正しさを基準にある作品を論じ批判することは、言論の自由として一般に認められるだろう。
 ではそれをさらにこえて、たとえば一部の人に耐え難い苦痛を受けるから「出版を止めてくれ」「手直ししてくれ」という主張はどうか。
 ぼくは、これも充分ありうると思っている。
 その主張も、実際に規制・修正をかけることも。
 とくに、国家権力を介在させずに、世論や社会運動によって修正させることは、社会が持つ復元力の健全な発揮だとすら感じる。もちろん、逆に、批判にたいして修正を拒むことも制作者は権利として持っているということも当然である。
 問題は、どちらも(1)作品そのものをすべて見ること(2)その作品の何が問題なのかを説明できること、という誠実さが必要だということである。本書はそれを教えてくれる。
 本書には、本当に「お答えできません」式の回答がたくさん出てくるのだ。
 だから、仮に作品を封印するようなことがあれば、なぜ封印したかを抗議側も制作側も合意できるような成文にしておいたほうがいいのではないかと思う。そして、「資料価値」としてアーカイヴなどには残し、一定のハードルをクリアすれば誰もがアクセスできるようにすればいいのではないだろうか。



差別問題による封印だけではない

 なお、本書はいわゆる「差別」問題や「政治的正しさ」の問題などによって封印されたものを扱っているだけではない。
 とくに『2』では著作権者が二人いることによる複雑さやトラブルに起因しているものをとりあげている。
 むしろ「面白さ」という点では、こちらの方が上である。

 個人的には『2』の「キャンディ・キャンディ」騒動が面白くて仕方がなかった。
 当事者やファンからすれば不謹慎の極みであるが、他人の泥沼を傍観する楽しさがここにはある。
 原作者の水木と作画をしたいがらしの蜜月から破綻、そして抗争にいたるまでが冷静なタッチで書かれているのだが、どう考えてもメチャクチャな理屈を次々くり出してくるいがらし側に笑いが止まらない。行動パターンもあっけにとられるほどの、いがらしの独走・暴走ぶりで、「こりゃー負けるわ」としみじみ思う。

 本書のもう一つの面白さは、取材ガードの固さ、壁の厚さに悩まされている様子を安藤がそのまま出していて、それが文章としても興味をいだかせると同時に、「封印」のメカニズムにまつわる「暗さ」そのものをよく表しているということだ。

「何十人もの関係者に聞いたのだが、そもそも取材に応じない。たとえ取材には快く応じてくれたとしても、肝心の『ジャングル黒べえ』の封印の理由となると、奇妙なことに誰も覚えていないというのだ」(『2』p.91)

 取材してモノを書くことの苦労は、多少はぼくも知っているつもりなのだが、問題が問題なだけに、その労苦たるや想像を絶するものがある。いや、封印作品にまつわる客観資料を集めること一つにしても大変な時間を要するだろうと想像する。そういう同情も混じって、こうした取材の困難さのプロセスの叙述は「泣き言」ではなくて、本書に魅力を添えている。

 どの章を読んでいても読み飽きるということがない。
 強くおすすめする。




安藤健二『封印作品の謎』『封印作品の謎2』
太田出版
2006.3.13感想記
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