では、当然超訳が出て新書が出てちょっとしたブームになっているマルクス『資本論』も当然漫画化されていいのではないか? と思う人がいてもまったく不思議ではない。
実は漫画化されている。
ひとつは、現代書館の「フォー・ビギナーズ・シリーズ」(文・D・スミス/絵・P・エバンス/訳・小阪修平)。こちらは今でも売っている。
もう一つは、すでに絶版となり、出版社自体が倒産してしまった、「劇画カルチュア」シリーズの門井文雄が描いた『資本論』である。
現在では絶版となっている。
アマゾンでも古書の在庫がない。
絵柄をみてもらえばわかるが、非常に古くさい劇画だ(左図。本書p.92)。門井は劇画家ではあるが、エロ劇画が代表作に多い(現在は「西門一馬」)。それらの作品自体は読んだことがないのだが、表紙をみるとぼくがもっとも萎えるタイプのエロ劇画だ。いや、まあぼくの性的嗜好はこのさいどうでもいいんだけど。
別のところで書いたが、前者は漫画というより絵解きであって、ものすごく読むのが苦痛であった。絵にも文章にも興味がもてない内容。
対して、後者は名著である。
管見にしてぼくは『資本論』のコミカライズといえば、この二つしか知らない。
『資本論』の漫画化というのはすぐに思いつきそうで、しかもすぐにあきらめてしまいそうなものだ。そもそも文章で数ページのものは漫画にしたらその10倍はかかってしまう。『資本論』全体は、いかにすべてを漫画化する必要はないとはいえ、要約を漫画化するだけでもおそらく何十巻もの大部になってしまうに違いない、と人々は推測するのだろう。
まあ、もし逐語的に『資本論』を漫画化する試みがあったとすれば、おそらく生涯をかけての仕事になるはずだし、それだけでも歴史に名前を残すことになるんじゃないかだろうか。
さて、そんな門井『劇画カルチュア2 資本論』(以下『劇画資本論』と略す)だが、その概要をまずみてみよう。本書は『資本論』全三部ではなく第一部だけをカバーしている。しかし、その総ページ数は200ページにも満たないのである。これだけでも十分に画期的である。
ちなみに、巻末の参考文献をみると、「フォー・ビギナーズ・シリーズ」もちゃんと入っているが、このシリーズの『資本論』の発行年月日が本書よりもあと(1983年。『劇画資本論』は1982年)なので、おそらくこのシリーズの『マルクス』(1980年)のほうではないかと思われる。
なにがぼくをして「名著」などと言わしめるのか?
二つある。
名著の理由1 マルクスの伝記を描いている
名著の理由2 『資本論』を小ぎれいにまとめていない
嶋崇『いまこそ『資本論』』は非常に小器用だといえる。
全三部のなかで伝えたいもののを柱を決めて、その柱ごとに嶋なりに理解してかみくだいたものを書いている。つまりかなりきれいにパッケージングされているのだ。読みやすい。
しかし、逆にいえば、『資本論』のもっている独特の味、あるいはアクといってもいいがそういうものがすべて漂白されてしまっているといううらみがある。
『劇画資本論』はそうではない。
監修者や解説者すらついていないところをみると、「後記」で『資本論』を「高校時代にななめ読みした」と書いてあるように、門井が『資本論』そのものと「参考文献」(『FOR BEGNNERS』、金子ハルオ『資本論の学習』、エドワルド・リウス『マルクス』、小牧治『人と思想・マルクス』)を一生懸命読んで描いたものに違いない。
だから、『資本論』そのものの解説部分は洗練されているとはいえない。「洗練」とは取捨選択があまり上手くない、『資本論』の骨格をきれいにしめすにはあまりに瑣末なエピソードをえらびすぎている、という意味である。
たとえばp.34で剰余価値は流通からは発生しない、という問題をとりあげるさいに、非生産的な特権階級の話を描いている。そして、小アジアの諸都市がローマに貢納していたエピソードが紹介される。ローマ人たちは小アジアで買い物をするとき小アジア人たちにだまされて高い価格を払っている、「ワハハ! ローマ人はバカだ」という小アジア人の高笑いを描いた上で、やはりだまされたのは小アジア人だ、というマルクスの意見を描く。なぜならその原資は小アジア人の貢納だから、というわけである。
あるいは、シーニアの「最後の1時間」のエピソードおよびそれへの反論が7ページにもわたって展開されている。
シーニアの「最後の1時間」とは、資本家のもうけは労働者が働く最後の1時間で生み出されているので、労働時間を短縮するとこの1時間がきえて、資本家のもうけがなくなってしまう、という議論である。
実は嶋崇『いまこそ『資本論』』でもこのエピソードはおりあげられているのだが、もう実にさらっと通過している。『資本論』のにおいだけは残して、きれいにまとめることを決して忘れない、心憎いまでの洗練ぶりだ。
対する門井は無駄と思われるまでにマルクスそのものの反論を載せている。洗練とはほどとおいではないか。しかも正直必ずしもわかりやすいとは言えない。
しかし。
このような「余計」な筆の走らせ方が、この作品に荒削りの、しかし、強烈なマルクスの筆の匂いを残しているということもまた事実なのである。さきのシーニアの「最後の1時間」への反論部分で、門井は「生産物の価値と価値の生産物を誤解していたのさ」というマルクスの言い回しまでマルクスに語らせている。これは一読しただけの初学者はよくわからないはずの言葉だ。しかし、こういう言い回しこそ、実はマルクスらしいペダンティックな物言いで、「ああマルクス」と思わざるをえないのである。
そして、このような「余計」な筆の走らせ方、すなわち門井が必死になって『資本論』を読み込み、自分自身の感性を信じて力をこめた箇所の描写が成功し、開花しているというものもある。
p.69には、エリズという「女主人」のもとでドレスをしたてあげる労働に少女たちがかり出されているエピソードが漫画化されている。これは『資本論』第8章「労働日」に掲載されているものだ。『資本論』本文を引用しておこう。
「一八六三年六月の最後の週、ロンドンのすべての日刊新聞は『単なる過度労働からの死』という『センセーショナル』な見出しをつけた一文を掲載した。話題になったのは、非常に声望のある宮廷用婦人服仕立所で仕事をしていて、エリーズという感じのよい名前の婦人に搾取されていたメアリー・アン・ウォークリーという二〇歳の婦人服仕立女工の死亡のことであった。しばしば語られた古い物語が、いままた新たに発見されたのであって、これらの娘たちは平均して一六時間半、しかし社交季節にはしばしば三〇時間も休みなしに労働し『労働力』が思うように動かなくなると、ときおりシェリー酒やポートワインやコーヒーを与えて動くようにしておくというのである。ところで、時はまさに社交季節の最中であった。新たに輸入されたイギリス皇太子妃の祝賀舞踏会用の貴婦人たちの豪華なドレスをあっと言う間に仕上げる魔法が必要であった。メアリー・アン・ウォークリーは、他の六〇人の娘たちと一緒に、必要な空気容積のほとんど1/3もない一室で三〇人ずつとなって、二六時間半も休みなく労働し、他方、夜は、一つの寝室をさまざまな板の仕切りで仕切った息詰まる穴の一つのなかで、一つのベッドに二人ずつ寝た。しかもこれは、ロンドンの婦人服仕立屋のなかでは比較的よい方であった。メアリー・アン・ウォークリーは金曜日に病気になり、エリーズ夫人のおどろいたことには、そのまえに縫いかけの婦人服の最後の仕上げさえもせずに、日曜日に死んだ」(『資本論』1部8章・原p.269〜270)
門井はこの中身をもらさずに、しかし漫画として加工し直すのであった。
門井は、「第1巻第8章にはこのような事例がいくつか載っている まるでノーベル賞の2〜3個はとったのではないかと思える程の筆致で… この項を読むだけでも読者諸兄 お考えの退屈さからは救ってくれるはずだ」(p.78)と書いているとおり、門井自身がこの章に心を動かされ、『資本論』全体の解説のなかでももっとも漫画的なトーンで描いている。
門井の『劇画資本論』はこのように『資本論』そのものの空気をできるだけ伝えようとしている。まるで学生が『資本論』と格闘し、悪戦苦闘して、悪戦苦闘をしながらも自分なりにつかんだ感動を素直に漫画にしている印象を受ける。その知的な誠実さがぼくらにも感動を与えるのだ。それこそが本書の最大の特長の一つなのである。
だれかこの名著を復刻せよ!
「途方もない——というのは、きっとこういう作業をいうのだ。去る10数年前の高校時代にななめ読みした『資本論』を、今ここに劇画化しようなどとは……。なのに、あえて挑んでみたのは、この人類史上最大の巨人の思想に、読者も一度は触れてみて欲しかったことと、エエカッコいえば、劇画の可能性への挑戦とでもいおうか……」
まさに「劇画の可能性への挑戦」であると思う。
志ある出版社は本書を復刻すべきである。
一番いいのは、わかりやすく本文部分の改訂をほどこすことなのだが、このブームのうちに、というせっかちな事情もあるだろうから、このまま復刻するのも悪くはない。
できれば、門井に第二部、第三部をまとめたもう一つの本を書いてもらいたい。そのときは嶋崇のまとめた新書がきっと役に立つであろう。
うわっ、また『資本論』1部を読む企画とは縁遠い内容になってしまった。
※復刊しました!
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/rirongekiga-marx-sihonron.html