矢口高雄『激濤(げきとう)』




激涛―Magnitude 7.7 (上)  本書を知ったのは毎日新聞(2005年6月15日付夕刊)の記事だった。

 1983年の日本海中部沖地震で津波が起きた。
 104人の死者を出し、秋田県では83人、うち12人が釣り人だった。秋田の釣り人のグループがその体験を聞き取り、同地出身の漫画家矢口高雄が1989〜90年に「ビッグコミック」誌でコミカライズしたものだ。すでに絶版となっていたが、スマトラ沖地震をへて復刊が決まった。

 毎日新聞の記事によれば、矢口は「今後起きる津波から何人かの釣り人の命が救えるのではないかと考えた」ようで、釣り人から多数復刊の要望が寄せられ、(小学館ではなく)講談社からの復刊が決まったものである。

 最初に断っておかねばならないが、これはフィクションである。矢口は、「犠牲者の無念さや、遺族の方々の深い悲しみを思うとき、迂闊には扱えないテーマと肝に銘じてフィクション形式をとった」(あとがき)とその理由をのべている。
 だが、釣り人たちのグループ(秋田県つり連合会)の聞き取りが基礎になっており、本書はかぎりなくノンフィクションにちかいものである。

 そして、「どのように犠牲になったか」という点以上に「どのように助かったか」という点にアクセントをおいた17のエピソードが入っている。
 それは、上巻の解説で、吉村秀實(NPO「環境防災総合政策研究機構」副理事長)がのべているように、「以前から災害現場ではついつい犠牲になった人たちに目が向けられがちである。しかし、災害や事故で犠牲になるということは、いわば失敗例であり、そこから学ぶ教訓はさほど多くはない。その一方で、災害や事故を免れた成功例から学ぶことの方が多い」という理由からである。



しがみつく・体をしばることで助かるケース


 スマトラ沖地震のあと大津波が襲い、未曾有の被害となったことは、記憶に新しいが、そのとき、知り合いと「いかに津波から逃れるか」を話した。ま、話したといってもおしゃべりした、というだけだが。

 おそらく、津波のニュースに接すると、「波がおしよせているあいだ、なにかに体をしばりつけてみては。波なんて一瞬来てすぐ返すんだから」という“救命策”を、だれもが一度は想像することではないかと思う(ぼくだけ?)。

 その知り合いとの会話では「だめだろうな。なにせ津波の力はものすごいから、そういう小賢しい対策はまったく無理だと思う」「それに、状況次第では舟とか家とかそこらの重量物を何から何までさらっていくらしいから、波が引くときはそれこそ洗濯機の中に家や舟といっしょに放り込まれたようになるそうじゃないか。そんなんで、なにかにしがみついていてもまあ、助かるというのは絵空事だね」と、“知ったかぶり全国大会”の様相を呈した()。

 ところがである。

 本書を読むと、生存例のうち、2ケースは「なにかにしがみつく」ことによって、押し寄せる波や引く波に飲まれずに助かる、ということになっている
 FILE.3のほうは、岩にしがみついて助かる初老夫婦の話で、FILE.12は岩の割れ目に釣り竿をつきたてて助かる話なのだ。

 そのようにして助かるケースがある、ということは、ぼくにとっては衝撃的な津波観であった。

 もちろん、あくまで最後の手段であり、ライフジャケットの着用やトランジスタラジオの携帯、地震がおきたらただちにその場を離れなければならないことはいうまでもないし、津波がその場所でどのくらいの規模でやってくるのかによってこの策が有効かどうかということはまるでちがうだろう。
 吉村が下巻の解説で「津波は覆いかぶさるようにやって来るサーフィンの波とは違って切り立った海の壁が猛スピードで迫って来ることを想像してほしい。1869年の『明治三陸沖地震津波』の時、岩手県の綾里湾を襲った津波は高さ38m以上にも達した。10階建てのビルの高さに相当し、その破壊力ははかり知れないものがある」とのべているように、その「破壊力」は「はかり知れない」のである。
 「しがみつき」による生存者が共通して語っているように、「幸い引き波は寄せ波ほど高くはなかったので幸運だっただ… しかしその勢いといったら寄せ波の十数倍もの強さで……」(FILE.3)、「寄せ波はどうにかしのいだが 引き波のすさまじさはまるで地獄を見る思いだった」(FILE.12)と、引き波がすさまじいエネルギーをもっていることがわかる。

 にもかかわらず、「しがみつく」「体をしばりつける」ということが、引き波の地獄のなかで生き残る最終手段たりうるというのだから、これは驚きである。認識の発展というべきものだ(くどいようだが、「必ず助かる」という保証はない)。



矢口はまた勝負どころを間違えている


 矢口は、作品を希望あるものにしたいがためか、フィクションにしたこの作品のなかに「抒情」をもちこもうとする。
 津波で新婚相手を失った滝本幸子が悲しみのなかに沈み、いつまでも夫を忘れられずその家を離れられないという「呪縛」のなかに生きていることをまず矢口は描き、ついで幸子が、主人公であり聞き取り役になる杉村真と、はじめは連帯感、やがては恋愛感情のめばえを予感させるものをいだくところの描写をおこなって、悲しみからの解放を描こうとする。

 が、前にも書いたとおり、この手の描写は矢口はからきしダメである。
 正直、この種の「物語」は余計なものだ。
 矢口はあくまでドキュメントに徹すべきだった。津波に遭遇、流される者、助かる者……その描写の部分は矢口流のデフォルメをともないつつも、彼の自然主義的な筆致が存分に活躍している部分だ。
 ところが、人情・抒情がからむ「ロマン」の描写は急に古臭くなる。「あちゃー」といって、思わずページをとばしたくなってしまうのだ。

 農民でかつ俗物であるうちの父をたとえにして恐縮だが(たとえにならんつーの)、彼は親戚や客におきた事件を語っているときは天才ともいうべき妙なリアルさ、生臭い生活感をこめて話をする。これは「聞きで」がある。
 ところが、実話や事件講談はまことに上手なのに、それ以外の、抒情やロマン、恋愛といったジャンルはまったくダメで、聞いちゃおれんのである。
 矢口が「ロマン」の描写をするとき、まるでうちの父が恋愛の話をはじめたのと同じようないたたまれなさを感じてしまうのである(まあ、清楚美を前面に出す矢口の女性描写自体は、そんなにきらいじゃないですけど)。

 いずれにせよ、矢口はここでも「勝負すべき場所」をまちがっているのだ。





余談1

 ところで、下巻の最後に「地震予知」の話として「地震雲」の話が出てくる。
 これは人によってはまったくの「トンデモ話」にされており(ぼくの友人も唾棄すべき迷信として強い嫌悪感をいだいている)、判断が難しいところだ。
 しかし、「ナマズ」をつかった地震予知については、東京都(東京都水産試験場)が「魚類の異常生態にかんする調査研究」として税金をつかって長いことやっていた(今は、やっていない)のを東京都の資料を読んでいるときに見つけた。まじめな研究なのだが、タイトルのつけかたがひどく可笑しかった記憶がある。(くわしくはこちらのサイト




余談2

 「知ったかぶり大会」とか「自慢大会」など「〜大会」という言い回しがある。その場にいたみんながそのテーマで発言しだす、といったような状況を、ふざけて呼ぶ言い方である。
 昔はわりと新鮮なひびきだったのだろうが、いまや誰でも使う手垢のついた表現となってしまっている。そこで当研究所では、上記の表記のなかに、あえて「全国」の一語を挿入し、新鮮さをとりもどそうと試みた。だめですか。

 それにしても「知ったかぶり大会」ってなんだよ。そんな大会あるなら、おれも行ってみてえよ。

アナ「第23回全日本知ったかぶり大会 SHITTAKA2005の中継をお送りします。解説には、元知ったかぶり選手権・滋賀地区代表の石田四成(いしだ・よつなり)さんにおこしただいています。石田さん、よろしくお願いします」
解説「よろしくお願いします」
アナ「さあ、すでに競技は始まっています。現在、東京地区の代表・不破哲四(ふわ・てつよん)選手の知ったかぶりがスタートします」

不破「まあ、DTPをつくるなら、マックのイラストレーターがいいと思うけどね。ウィンドウズじゃあ、いまいちだよ」

アナ「おおっと。やりました不破選手。これは見事な知ったかですね。石田さん」
解説「ええですね。ええと思いますよ。とくに『DTPをつくる』いうスキだらけの一言は、まさに知ったかぶりの妙味いうんでしょうか。そこにきてマックとウィンという単純比較、さらにイラストレーターいうメジャーすぎるソフトを自慢げにいうそぶり。ええですね。ええと思います」
アナ「さあ、こうなると、相手の千葉地区代表・美位和夫(びい・かずお)選手は相当苦しい立場に追い込まれます。美位選手どうでるか。注目です」

美位「音って1秒で地球を7周半まわるんだよ」

アナ「キターーーーッッ! 来ました! やりました!! これはすごい知ったかです! やりました千葉の美位和夫! ごらんください! スタンド総立ちです! ものすごい歓声です! 石田さん!」
解説「これは完璧ですな。まず、かなり難易度の高い小学生知ったかネタを扱うというのが尋常やありません。くわえて『音』と『光』を微妙に言い間違え、なおかつスマートそうな知識にしたてあげる。これぞ極意ですな。これぞ『知ったかぶり』の原点いうと思います。この知ったかを聞いたまわりの子が『美位ちゃん物知りやねえ』と驚く様が目にうかぶようですわ。完璧やと思います。いやあ、ええもん見してもらいました」



『激濤 Magnitude7.7』全2巻(上下巻)
講談社漫画文庫
2005.7.21感想記
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