岩田正美『現代の貧困』、および「前衛」07年7月号 格差とは貧困の問題だ ぼくは斎藤一なる「社会問題研究家」の一文を評して、 「格差を否定する議論や肯定する議論がかまびすしいなか、『格差』を問題にするだけでは単にその問題を解決できず、『格差という相対的把握に、最低生活という絶対的視点を導入する必要がある』『「貧困」という視点から格差の拡大をとらえ直さなければならない』とする。『不平等は、社会の他の構成員の不利益を招かない限りにおいて、是認される』というロールズの正義論を逆説的にひいて、“どこまでが耐えられる貧乏か”を考えないといけないという。斎藤が設定するのは生活保護ラインである(生活保護を受けないで最低限の生活するためには、税や社会保険などで生保世帯の所得の×1.4が必要という)。斎藤の試算では、生保ライン以下の世帯は生保世帯以外にも勤労層のなかに大量に存在し(斎藤は1割とみている)、高齢者などとあわせると、総世帯の15.1%(696万世帯)が貧困下にあるという」 とのべた。 http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tanpyou0601.html#kakusa すなちわ、格差問題とは貧困問題だという把握が重要なのだ、という話である。そのことは、NHKスペシャルの「ワーキングプア」について論じたときものべた。 http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/workingpoor.html そういう視点がないと呉智英みたいなことになっちゃうよ、といった。 http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/yamikin-ushijimakun.html つか、呉は「確信犯」の可能性が高いがw 貧困のラインをめぐる闘争の歴史 「格差問題は貧困問題である」といったとき、「貧困」とはなにか、別の言い方をすれば「あってはならない貧困とは何か」という線引きが必要になる。 「貧困」とひとくちに言っても、たとえば「世の中の真ん中の所得の家をさらに半分の家を貧困とする」というOECDの規定をそのまま見ただけだと「なーんだ。そんなのはあんまり苦しいわけじゃねーじゃん」みたいな理解が生まれることは十分にあるだろうから。 「日本において格差に関する議論は盛んであるが、その結果である低所得および貧困へのまなざしが弱いように思う。ユニセフ(国際児童基金)やOECD(経済協力開発機構)、欧州連合などで採用されている貧困の相対的尺度とそれを用いて推計された日本の貧困率などについては徐々に紹介されているが、それは『絶対的な貧困状態ではない』と主張する論者も絶えない。第二次世界大戦直後の飢餓的な貧困観念からいまなお脱していないような日本の貧困観に出会して、たじろぐのは私1人ではないだろう」(室住眞麻子『日本の貧困 家計とジェンダーからの考察』はしがき、法律文化社) いったい「あってはならない生活水準とはいくらぐらいなのか」――これが格差問題=貧困問題のカナメである。 ![]() まず、岩田の『現代の貧困』であるが、この著者は怒っている。 何に怒っているかというと、「貧困」は戦後ずっとあったのに、社会はそのことを「発見/再発見」せずに、まるでなかったかのようにすごしてきており、そしてようやくここにきてワーキングプアとか格差とか騒ぎはじめているからである。いわば「遅いっつうの」というわけだ。 何にせよ「再発見」されたことを岩田は喜んではいる。しかし、その騒がれ方が単に「格差」というだけでは本質に全然迫っておらんではないかと憤る。 『現代の貧困』の1章が「格差論から貧困論へ」、そして2章が「貧困の境界」となっているのは、この問題意識にもとづいている。 1章の視点についてはすでにのべたのでいいだろう。岩田も格差問題は「格差」論ではなく「貧困」論として把握することが重要なのだとのべている。 「格差や不平等は、さしあたり『ある状態』を示す言葉である。……これに対して貧困は、『社会にとって容認できない』とか『あってはならない』という価値判断を含む言葉である。……だから、そうした状態を『なくす』仕組みを社会が作り出していくべきだという、社会の責務に(したがって貧困な人々の生きる権利に)直接結びつかざるをえない。……このように、今日の格差社会を、格差という記述的な言葉のレベルで把握するか、その格差の中に『あってはならない』状況=貧困があり、したがってそれを『なくす』べきだと価値判断するかは、かなり違うことなのである」(岩田p.28〜29――強調は引用者) 2章は、貧困論の発展を俯瞰するうえで大いに役立った。 すでに呉にたいするぼくの論評でとりあげたが、絶対的な生存を基準にするラウントリーの絶対的貧困論、それを批判し標準的な生活様式からの「剥奪」を問題にしたタウンゼントの相対的貧困論を紹介する。 そして岩田によれば、現在のトレンドの一つとして、ブラッドショーの貧困論があるという。 「一方で、普通の人々と同じ生活様式を保つだけの生活財やサービスを確保できなければならないが、他方で、それらの生活財やサービスを最もローコストで入手するということを前提に最低生活費を算定するというものである。つまり、タウンゼントの考えとラウントリーの考えを合体させた、社会的生存費とでもいえる考え方である」(岩田p.46) 「さらにブラッドショーは、貧困測定をする場合、一つの境界ではなく、いくつかの貧困ラインを併用することを勧めてもいる。たとえば社会的生存費用のほか、人々が主観的に考える貧困レベル、OECD(経済協力開発機構)などで使われている相対的所得貧困基準など、三つぐらいを同時に使ってみるとよいというのである」(岩田p.46) 日本での貧困ライン――生活保護基準はいくらか 日本ではどこが境界線になっているのだろうか。 岩田によれば、「生活保護基準」がその一つの目安になっているという。 今最低賃金との比較が問題となっており、厚生労働省はその比較の資料を出している(第17回労働政策審議会労働条件分科会最低賃金部会資料)。 http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/12/dl/s1201-3b.pdf ぼくは福岡市に住んでいるのでリンク先資料の1枚目、一番上の▲と下から二番目の□を比較してほしい。 これは東京新聞07年4月22日付にもとりあげられているが、 http://www.tokyo-np.co.jp/article/seikatuzukan/2007/CK2007042202011223.html いずれも最低賃金が生活保護基準よりも下であることがわかる。 しかし、これは逆の議論を呼び起こす危険性がある。 「生活保護基準が高すぎるのだ」と。 たとえば先の厚労省の資料では、福岡市の18才単身者の生活保護基準は月12万円である。おそらく、一部の人は、「おれはもっと安く生活できるぞ」などという「体験」談でも根拠にしてこの数字が「高い」ことを否定するであろう。あ、ちなみに言っておけば、いまの貧困な社会保障のもとでは、18才ではよほど特別な事情がないかぎり生活保護なんてもらえていないから。そして、この月12万というのは「実際にもらっている平均」とかじゃないので誤解しないように。 いったいどのラインが「あってはならない貧困」のラインなのだろうか? 「貧困の歴史は、この境界設定についての議論の歴史だといっても過言ではない」(岩田p.35)という指摘はなるほどと思う。 厚労省の最賃・生活保護比較の問題点 この議論について考える前に、厚労省および東京新聞のこの比較の「問題点」についてあげておきたい。 岩田は「保護基準という言葉は、ほぼ生活扶助基準を指しており、これに住宅扶助として支給される額を加え……収入のある場合はその控除部分を加えれば、実際の貧困ライン、つまり生活保護法で言うところの最低生活費となる」(p.52)といっている。 厚労省の資料では、「収入のある場合はその控除部分を加えれば」という部分がスッポリ抜けている。ゆえに、厚労省資料は「税・社会保険料」分しか違いを考慮しておらず、「収入のある場合はその控除部分」をカウントせずに比較している。 この、「収入のある場合はその控除部分という部分は、生活保護では「勤労控除」という。厚労省の説明によれば「勤労に伴って必要となる被服、身の回り品、知識・教養の向上等のための経費、職場交際費等の経常的な経費を控除するもの」ということであり、まあ早い話、勤めたら同僚や客に「飲みにいこうぜ」といわれ「いえ金がないので」というわけにゃあいかんだろう、あるいはコンピューターを扱うのに勉強するための解説書くらいは買うだろうとかいう話。 http://www.mhlw.go.jp/shingi/2004/04/s0420-5b3.html 「生活扶助」+「住宅扶助」+「税・社会保険料」だけだと、最低賃金は生活保護基準に1.2を掛けるくらいになるのだが、「勤労控除」を入れると1.4くらいになる。ぼくが冒頭で引用した斎藤が「×1.4」と言っているのはそのせいである。 「あってはならない貧困」とはどこか――京都総評の最低生計費試算 閑話休題。 先ほどの問いにもどろう。 いったいどのラインが「あってはならない貧困」のラインなのだろうか? このことを考える上で「前衛」07年7月号の最低賃金特集、なかんずく以前も紹介したことがあるが、京都総評か仏教大学教授の金澤誠一といっしょにやった最低生活費の計算とそれをめぐる労組での議論の記事は実に役立った(辻昌秀「憲法二五条にそった賃金水準とは 最低生計費試算と幅広い市民との連携」)。どうでもいいんだけど共産党系の人が好きな言葉「幅広い市民」っていつ聞いてもおかしいと思う。恰幅のイイ市民のことかw 辻論文では、これまでの労働組合運動の中で、どうしても正規労働者中心の運動であったために最低賃金をめぐる議論や研究が十分でなかった経緯が簡単にかかれ、なるほどと思う。そして前述のような「生活保護が高いんだよ」という議論が出てきやすいのだという。 そこで京都総評は本腰を入れてこの計算にのりだすのである。 辻はアメリカでの視察の経験に大いに刺激をうけたという。アメリカでは貧困ライン認定の闘争があり(ちなみに最近〔07年5月〕、全米での最低賃金を引き上げる法案が中小企業減税とセットで可決されている)、役所が発注する仕事なんかにも大いに影響しているらしい。 京都総評は当然生活保護基準に注目するのだが、「生活保護費は、その世帯の条件に酔って異なることもあって、どの程度が適切な金額なのかは、一般の人にはわかりにくいものです。世帯として最低必要な金額として算出された生活保護費が、労働者の賃金よりも高くなる場合がけっこうあるのです」(前衛p.208)。 ゆえに、生活保護基準がそもそも高いのか低いのかも含めて、もっと客観的な基準をつくろうじゃないかとなったわけである。 これはなかなかすばらしい実践である。 普通はこうはいかない。 生活保護基準が高いとか低いとかの「主観的」議論で終わってしまうのだ。 ぼくは、京都総評がおこなったこの最低生活費試算は実にタイムリーだと思った。
論文にはそのときの試算の仕方が一つひとつ書かれている。たとえば450品目も持ち物検査をして7割の人がもっているものは組み込んで価格調査しようとか、それは大型店で購入しようとか、日帰り旅行はどうするのかとか、仕事の後飲みにいくのはどうなんだ、何回くらいなんだとか。 そうやってはじきだした数字の結果がこちらだ。 http://www.kyokenro.or.jp/news/2006/03/post_37.html 若年単身世帯で年額237万円、月19万7779円(税こみ)、時給にして1112円になったという。 労組で議論百出だったというのが面白い 面白いのは、これを春闘の企業内最低賃金として要求しようと各労組に提起して議論してもらったら、異論が続出したということだ。高杉じゃねーのというわけだ。無理もない。250万円未満の29才以下の単身世帯は64%にものぼるからだ(国民生活基礎調査)。 それで数カ月議論した、というのがエラいと思う。 「しかし、具体的に議論をしていくと、確かにそれぞれの項目が最低限の費用だと理解され、総額で出た数字も認めていくことになったのです」(前衛p.212)。 そしてまったく偶然であるが、これはOECDのしめす日本の貧困ライン、238万円にもほぼドンピシャだったという。 この試みによって、最低賃金の低さはもちろん、生活保護基準の低さも明らかになったのである。 サイト読者の中には異論があるかもしれない。この数字は今後かわりうるだろう。しかし大事なことは、ぼくは、全物量・サービスを積み上げる方式で具体的に計算し、それを労組のなかで徹底的に議論したことだと思う。 それは、「あってはならない貧困とは何か」を定め、その是正をはかる最前線の現場なのである。こうした実践なしには、貧困と格差議論の本当の決着はつかない。そういう意味で辻論文は目からウロコのすばらしい論文であった。 ところでこの実践以前の問題として、最低賃金と生活保護基準の比較について簡単に斬っておけば、生活保護基準は生計費を基準にしているのにたいして、最低賃金は生計費だけでなく同業の労働者や企業の支払能力を加味してはじきだすように最低賃金法に定められており、しかも実際には生計費は無視されているので、生活保護>最低賃金になるのはある意味で当たり前なのである。 「前衛」の同号には5本の最低賃金をめぐる論文が納められているがどれもすばらしく、近年にないいい出来だった(失礼)。 「誰でもワーキングプアになるわけじゃない」という岩田の主張 さて、岩田『現代の貧困』にもどるけども、岩田の本をつらぬいている問題意識は、こうした「あってはならない貧困ライン」を意識させるということと、もう一つは貧困に陥りそこから抜け出せない層が固定しているということなのだ。 マスコミが「誰でもワーキングプアになりうる」と宣伝していること――そしてそれはぼくもそうだといえるのだが――このことについて、岩田は批判的だ。 「ワーキングプアやホームレスが社会問題になると、マスメディアは『誰でもワーキングプアになる危険がある』などと騒ぎ立てるが、もちろん事実はそうではない。/すでに本書で見てきたように、現代日本で貧困に陥る可能性が高いのは『特定の人々』である」(岩田p.139――強調は引用者) 岩田は、リストラなどを貧困の主因として当然認めながら、「リストラによって誰もがすぐに貧困になるわけではない」(同)としている。そして、人生においてたとえば若いころに貧困を味わうということはなくはないし、それでも最終的に脱出できるならそれはそれでハッピーエンドともいえる、と岩田は考える。若いうちの苦労というのは「長い人生のスパイス」といえる場合さえある。 問題なのは、貧困には近づくことさえない層と、常時貧困のまわりにいてそして貧困から抜け出せないという層が存在していることなのだ、と岩田はいう。 「いわゆる『格差社会』は、そこそこ豊かであった『中流』層の生活基盤を不安定にしているが、だからといって中流層に属する人が一律に貧困化しているわけではない。『格差社会』の進行やその背後にある経済社会の大きな変化が、むしろ特定の『不利な人々』を、真っ先に『貧困という名のバス』に閉じこめてしまい、そこから出られなくしていることに目をむける必要がある」(岩田p.140〜141) 岩田はそれは個人的資質ではない、とことわったうえで、低学歴であること、女性であること、未婚・離婚であることなどがその「脱出不可能性」「固定化」の背景にあることをのべている。 「低学歴であることは、離転職をくり返さざるを得ない不安定雇用や、資産なし・家族なしという『状況』と結びついているし、不安定雇用は未婚のままでいることや離婚と結びついている。さらに、未婚のままでいることや家族との離別は、家族が力をあわせて家計を支えることで貧困を防ぐという営みから遠ざけられていることを意味している。現代日本ではこれらの『状況』の重なり合いが、『不利な人々』を貧困の中に閉じこめ、社会的な諸関係から排除するような“装置”として機能しているのである」(岩田p.159) 逆に言えば、一定の学歴を持ち、常用雇用、家族がいる、男性である、ということは貧困に簡単には陥らないというのである。 これは本書の重大な特徴の一つ、視点の一つである。 現在の「格差社会」論の多くが「中流意識」の崩壊、中流層の二極化、という危機感を背景としているので「誰でもワーキングプアになる」という主張が説得力を持ちやすいが、貧困問題とはよくみればそうではないのではないかと岩田は考えているのだ。 ぼくは、この議論に半分正当性を感じるけども、半分はこの側面をあまりにも強調し過ぎていると感じる。 80年代の貧困研究のこと 岩田がこのような点を強調するのは、現在の「格差」論議がかまびすしくなる以前から貧困研究をしてきたせいであろう。 ぼくは90年代初頭に、学生運動の一つである、教育ゼミナール運動にかかわったことがあるけども、そのとき足立区や荒川区などの「生活困難層」の子どもたちにたいする社会的調査、そこでの貧困、低学力の問題のレポートをいくつも読んだ。 すでに80年代、いやそれ以前から指摘されてきたのであろうが、こうした地域に貧困が「偏在」し、それが低学力=「低学歴」問題と密接に結びついていることがそれらのレポートで明らかにされていた。 石原慎太郎が都知事になった1999年に、共産党推薦で出た都知事候補の三上満は、「金八先生」の脚本を書いた小山内美江子自身が彼を「金八先生のモデルの一人」だといっていたけども、三上は足立や葛飾などで教師をしていた。「金八先生」には、そういういかにも足立・荒川・葛飾的な、貧困を一つの背景にした非行が数多く登場していたが、こうした貧困や教育困難のかかわりが80年代からすでに強く意識されていたことはそんなところにも反映している。 しかしバブルへと時代がむかうなかで、「貧困なんて一体どこの国の話?」といわんばかりにそれが忘れ去られてきたのがこの国の歴史であった。 岩田がのべるような「あってはならない貧困」は昔から一定数存在し、岩田によれば「生活保護基準による駒村推計では、バブル期の89年を除くと、3回ともだいたい8%程度の世帯が貧困に区分されている」(岩田p.72)という。世帯数でいえば390万、約400万世帯である。そしてその周辺にそこに出入りしている膨大な層が存在してきた。 しかし、そこに光があてられず、解決の手立てがあまりとられてこなかった。 そして、特定の人はこの貧困にはかかわらずに生きていくことができ、別の特定の人たちがその周辺にいながら出入りをくり返しており、そこに手立てがとられなかったことへのイラだちが岩田には強くあるはずである。 こうした長く貧困研究をしてきた人からすれば、単に「中流解体」としてのみ問題を把握するのでは「格差ブーム」が去れば相変わらず貧困の核心にある問題は放置されたままになる、という強い危惧が生まれるのは当然だといえよう。 それゆえに、ぼくも岩田が、現在の貧困問題の核心に特定の「不利な人々」が脱出不可能になっていると強調していること自体には同意するのである。 しかし岩田の強調もまた一面的だ しかし、その事情はわかるにせよ、岩田は強調がすぎるように思う。 そのことは、岩田自身が言及している調査からも言える。 岩田は4章でホームレスについて言及しているが、そのなかで厚労省がおこなった実態調査についてふれている。この調査については以前ぼくもコメントした。 岩田は、この調査をかざして“マスメディアがいっていたような「誰も彼もがホームレスになりうる危険性がある」なんてことはないよ”と主張している。マスメディアによって「自称元プロ野球専守のホームレスとか、経営者の失敗、『スーツ・ホームレス』などが注目された」が、「あまりに一面的」(岩田p.109〜110)だというわけである。 しかし、岩田の持ち出している厚労省調査をよく見てほしい。 たしかにホームレスの出自は、低学歴・不安定雇用などに偏在していることは紛れもない事実なのだが、他方でたとえば雇用安定型だった人でホームレスになった人のなかでも高校以上という人は47.7%もいる。しかも常用雇用者など安定した職出身だったホームレス自体も、調査で6割以上だったのである。 だから、岩田自身「マスメディアが強調していた転落ストーリーに当てはまる人も結構多い」(岩田p.124)といわざるをえないのである。 岩田はポスト工業社会において、労働が高度な技術や知識を要するものと、マクドナルド・プロレタリアートのような安価で代替可能なサービス労働に二極化するという説を紹介している。それゆえに、学歴差がそこに及ぼす影響が決定的なのだ、と。 もちろんそれは正しいのだが、だとすれば、そのことは次のようにもいえるのではないか。 資本がその本性に従ってグローバル競争のなかでの利潤の最大化を求める傾向を強めていけばいくほど、高度な技術や知識を要する階層の方の、要求される技術・知識は際限なく高度化していくはずである。そしてITや金融の発達のおかげで、技術や知識はあっという間に陳腐化する。 そうなると、ものすごいスピードで高度化がなされていくということになる。 こんなものについていける人がいったいどれくらいいるだろうか? いま、にわかに「人手不足」「人材確保に企業がてんてこまい」「完全に売り手市場」みたいな報道があふれてきているのだが、企業側に「人材飢餓感」が高まっていつまでも「ミスマッチ」が解消せず他方で依然非正規は増え続けているというのは、企業側が「高度」な技術や知識を要求し続けていることがあるんじゃないのかと思う(必ずしも世界トップレベルの知識を要求し続けているという意味ではない)。 低学歴であることは貧困を「保障」してしまう危険性が高いが、高学歴であることはマクドナルド・プロレタリアートの側に「転落」しないことを必ずしも保障しないのである。 だから、ぼくは岩田があまりにも「特定の不利な人々」と貧困を結びつけ過ぎることには、半分正当性を感じ、半分疑問を感じているのである。 とはいえ、岩田の本書は、格差問題を貧困問題と把握すべきだということを真正面から提起したこと、貧困とは「あってはならない」ものであり、そのラインをめぐる歴史であること、そしてそこから脱出できない人々を具体的に念頭において対策をとること、を指摘した点において、実に画期的である。 本書を読んでおけば、格差問題を論じるさいに最も重要な視点をもっておくことができるであろう。必読の一冊。 |
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