柿田睦夫『現代葬儀考』



現代葬儀考―お葬式とお墓はだれのため?  「しんぶん赤旗」の大人気連載(現在は終了)。1000通ものお便りが寄せられているという。

 「しんぶん赤旗」といえばサヨ新聞だから、たとえば、宗教的葬儀や営利企業の葬儀がものすごく攻撃されているとか、あるいは革新的な葬儀や墓が喧伝されているとか、そんなことを思う人がいるかもしれないが、さにあらず。

 この本は、この記者の前作、いわゆる「新興宗教」にかんするシリーズの「続編」であり、次のようなコンセプトで書かれている。

〈そのさい(前作を書くさい)留意したのは、それらの団体の内情暴露を主眼においたり、それらの団体にのめり込むのが良いとか悪いとか決めつけないことでした。そうではなく、人々はなぜ、何を求めて、そのような団体や現象に接近するのか。その「こころ模様」を追うことで、いまこの時代に我々はどんな人間関係や連帯をつくっていけるのかを考えたいと思ったからです〉(p.4)

 高年齢になったサヨの人々がふえてきたせいもあるのだろうが、何かの信念をつらぬいて生きてきた人間、つまり、自分としては「充足した生」を生きてきたと思っている人々にとって、「どんなふうに死ぬか」は「どう生きてきたか」のすぐそばにある問いなのかもしれない。お年寄りのサヨのみなさんが、こんなにもこうした問題に関心を高めていることは、自然なような、どこか当惑するような。

 「葬儀」、つまり人が亡くなる、という問題でもさまざまな段階がある。本書はその段階ごとに5部構成という形式をとっている。



突然の死の前に葬儀会社の言いなりになる

 第1部は「火葬場から見えてくるもの」。まず「火葬」の現場だ。日本は世界一の火葬大国で、死者の99.6%が火葬される。これにたいして、たとえばトルコなどでは圧倒的に土葬。オランダや中国は火葬は半分くらいだそうである。

 残った灰や骨はどうするのか? 自治体などが経営する火葬場はよく見るが、民営の火葬場はあるのか(つまり死体を焼くことで利潤追求ができるのか?)など、「ユニーク」な問いを追いかける。

 第2部は、「葬儀の現場で考える」。これが「葬儀」本体の部分のルポだ。

 まず、「消費者」たる、われわれの側から、著者は問題をみていく。つまり親しい人が亡くなって、気が動転しているところへ、あれよあれよと葬儀会社の流れに乗って、あっという間に法外な金額を請求されるという問題。

〈遺影は自分で用意しようと思っても「葬儀用の写真には特別の技術が必要ですよ」。「いまどきこれではさみしい」「よそさまでは」などと言われると、やはり動揺してしまいます〉(p.35)

 最近昔の式場ペースのパック型の結婚式と、現在の多様な形態の結婚式(客の注文にあれこれ応じる)について比較する機会があったのだが、結婚式でも、式場はかなり強引に誘導した。けらえいこ『たたかうお嫁さま』などを読むとわかるが、大事なものを「パック」料金には入れず、引き出物などを式場以外から買うと余計にふんだくられる。そして、料理や花の質を落としてコストカットをしようとすると、「特別の技術が必要ですよ」「いまどきこれではさみしい」「よそさまでは」などといわれるのだ。葬儀はこの点で、ちょうど結婚式でいうところの昔の「式場主導」にあたるものがまだまだ根強く残っている印象を受ける。
 結婚式では、「自分らしいウェディング」を主張する人々がふえ、お仕着せの融通のきかぬパック的なものは衰退していった。

 葬儀もやがて結婚式と同じ道をたどるのではないかと思うのだが。

 本書がユニークなのは、そうやって消費者の側からの葬儀の問題点を描きながら、葬儀について考えている市民団体の人の言葉を引用して、こう書いている。

〈「一方的に業者を非難することはできない」とも言います。利益を追求するのは企業として当然。二十四時間対応の体制がいるうえ、祭壇や棺といった装具の倉庫維持など、見えないところに経費のかかる業界だからです。「死や葬儀をタブー視せず、日ごろから勉強し、こんな葬儀をしたいという希望や形式を選んで段取りしておく。それが納得のいく葬儀をすることにつながるのです」〉(p.35〜36)

 つまり、葬儀の営利化にたいして、単に「安い公営の葬儀を」というだけでなく(後で見るがそれ自体は大事なのだが)、まず「自分(本人)らしい葬儀」というのをクリアにイメージしておいて、いざというときに、葬儀会社にふりまわされないようにしておく、というのが、大事だと考えるのである。
 これは第三部に出てくる言葉だが、

〈業者との交渉で絶対に口にしてはならない「禁句」を紹介しました。「初めてなので」「何も分からないから」「おまかせします」の三つです〉(p.80)

 この他、この部では、日本の他宗教(神道、キリスト教)の葬儀との比較がおこなわれる。なるほど比較すると、仏式の葬儀の特徴が逆にうかびあがり、また、その限界もわかってくる。
 たとえば、神道方式の葬儀は、お経とちがって、言葉も平易。「戒名料」のような費用負担もなく、安い。本来もっと普及してもおかしくない方式である。そう比較すると、葬儀で支払っているさまざまな費用の「自明性」「所与性」も崩れてくる。

 第2部では、仏式葬儀の費用解剖をこころみている。03年で、葬儀そのものは150万円前後、接待飲食が30万円くらい、寺院等への払いが50万円くらい、平均で237万円である。
 著者は、そこから戒名料や、お寺の紹介料、お布施などの「相場」を調べていく。
 このあたりは、最近いろんなルポでも紹介されているから、聞いたことがある人もいるかもしれない。

 面白かったのは、「市営葬儀」が注目されているという話で、NHKスペシャル「ワーキングプア」でも妻の葬儀を一定の格式であげるために貯金に手をつけないという男性が出てくる。全京都生活と健康を守る会連合会の高橋会長は、

〈老人は懸命に自分の葬式代をため、絶対に手をつけようとしない。安心して死ねるという思いは生きる勇気につながるからだ〉(p.73)

と発言しているが、その通りであろう。そのなかで、市営葬儀が安く、しかも一定の尊厳をもって営めるものとしてあるというわけだから、注目もあびるはずである。

〈一般の葬儀の場合、基本料金(搬送、火葬、祭壇、棺、同付属品、焼骨容器、式運営など)は、市営斎場を利用した場合約六万八千円。自宅など別の式場でおこなうと三万円強。これに生花、料理飲食費、会葬礼状などを加えると、五十人規模の葬儀で45万円程度になるといいます(寺院等謝礼は別途)〉(p.72)

 先の平均費用との比較からみても破格であることがわかる(東京・立川市のケース)。



自分(本人)らしい葬儀にするために

 第3部は、「『新しい葬儀』への模索」。
 これが本書の中心環をなす、とぼくには読めた。
 つまり、「自分(本人)らしいフィナーレをどうやってむかえるか」ということを、従来の形式にこだわらず、あるいは従来の伝統もいかして自分で葬儀を組み立てる、というその模索をさまざまにルポしているのだ。

 いろんな工夫や、生協のパックみたいなのも紹介されてホントに面白いわけだが、本書で紹介された具体的なケースを一つ書いておこう。

〈全員が黙とう。喪主のあいさつ。
 俳句の朗読(約三百句から最近の、季節感のある五句を選択)。
 ベルギー在住の孫がファックスしてきた「おばあちゃんをしのぶ」を、神戸在住の孫が朗読。
 「ふるさと」や「赤とんぼ」の合唱。
 献花(バックミュージックは「G線上のアリア」など)。
 花を棺に入れ、お別れ。
 会葬お礼、出棺。
 所要時間は約五十分。当初は「身内だけで」と考えていたけれど、近所の人々が次々と別れに来てくれ、約五十人の参列になりまいした。
 花で飾った祭壇は三十万円セット。特定の花をそろえるのではなく、多種類の季節の花にすることで費用はおさえられるのだそうです。
 団地の集会所だから会場費も安く、火葬料などを含めて約三十三万円でおさまりました。
「費用のことだけでなく、心が伝わる葬儀(お別れ会)になった」と岩城さん。参列者からは「“お客さん”ではなく参加したと実感し、本当にお別れしたという思いになった」「私もこんな葬儀を」という感想が寄せられたそうです〉(p.113〜114)

 また、「葬儀とは、残された遺族のために行われるものなのです。その意味で、死んでいくものがあれこれを指示するのはおこがましい」など意見を紹介し、「葬儀は誰のもの?」という論争を書いているのも興味深い。
 前にものべたが、ぼくの義父と義母の間でちょっとした「論争」があった。それはこのテーマにかかわるものだった。



墓の前にたつと

 第4部が「お墓――刻印された生きたあかし」。そして第5部が「さまざまな墓にみる『人生のしめくくり』」。人を葬るというプロセスは、死体を「処理」して、最終的に完結するわけである。

 おそらく、日本人がもっとも宗教的心情を高揚させる瞬間というのは、「葬儀」であり、そのなかでも「墓」の前に立った瞬間なのではないかとぼくは思う。
 ぼくは無神論を奉じる人間であるが、自分の家の墓の前に立つと、「墓誌」がとびこんでくる。そこには、「童女」とついた戒名がいくつも並び、あるいは「童子」がついたものもいくつか並んでいる。
 江戸時代のどこかの時期に自分の祖先は大量に子どもを死なせたのだな、という感情にとらわれ、墓の前において連綿とつづく「家系」を意識してしまう。「墓誌」によってぼくの場合は明確化されたわけだが、もし「墓誌」がなかったとしても、盆の時期に夕方、墓の前にたって村落の人々が提灯をもって集まってくるのをみると、ものすごくプリミティヴな感情におそわれてしまう。
 西洋的またはアラブ的な、超自然への拝跪ではなくて(そしてそれは聖書や「教え」というロジカルなもので担保されている)、「先祖供養」「祖先信仰」みたいな、どちらかといえばアニミズム的な心情だ。

 ぼくの親は、自分たちの死後、わが「家」の墓が守られていくと信じているのだろうか。仮に兄やぼくが「守った」としてもその先の保障はない。もし父母がそのことを心の底では不安に感じているなら、これほど不憫なことはない。

 墓は、葬式そのものとは比べ物にならぬほど、ぼくの親のような田舎の保守的存在にとっては大事な問題だ。

 ここでは、墓の「相場」や、平均的な広さ、墓ビジネスなどがルポされている。その話題にあわせて、かつて細木数子の「鑑定」の影には「久保田家石材商店」の社員がひかえており、〈細木さんの著書の巻末に、細木事務所本部と全国各地の連絡所一覧が載っていました。本部事務所は東京駅前の久保田家石材関連企業の事務所。他も大半が同社の支店や営業所でした〉(p.145)という話も出てくる(現在細木とこの会社の関係は断たれている)。

 韓国の墓事情なども紹介されている。
 土葬、しかも家の墓でなく個人墓であるうえに、権力や財力の象徴なので、どんどん巨大化し、98年には国土の1%をしめるようになったという。このために火葬のすすめなどがおこなわれている。

 樹木葬、散骨、手元葬のように、石材の「墓」を使わない方法も紹介される。〈つい最近まで、一般的に散骨は違法だと考えられてきました〉〈墓埋法にはしたいの「埋葬」や「焼骨」の「埋蔵」「収蔵」の規定があるけれど、骨を「撒く」という規定はありません。つまり散骨は法律の想定外〉(p.196)。〈「法の外」の散骨が、社会にどう受け止められるのか。墓地埋葬法との関係では、「(同法は)散骨のような葬法を想定しておらず、同法には抵触しない」という厚生省衛生局(当時)の見解がすでに出ていました。問題は刑法一九〇条(遺骨遺棄)。〉〈マスコミの取材に法務省刑事局は「死者を弔う目的で、葬送として相当の方法で行われたものなら、刑法の死体損壊罪の『遺骨の遺棄』には当たらない」(読売新聞一九九一年十月十六日付)とコメントしました〉(p.198)、というのも興味ぶかかった。



新しい高齢者運動としての「共同墓」

 ぼくがこの最終の二つの部で興味をもったは、「共同墓」だった。
 先に紹介した「生活と健康を守る会」(生活保護の申請などの支援や、貧困層の負担軽減制度の実現などにとりくんでいる)や「年金者組合」などの共同墓のとりくみの話がのっている。
 ぼくが今いる福岡県の年金者組合が共同墓構想を発表したところ、〈「予想以上の反響だった」と、森田礼三運営委員長はいいます。開設時百九十一人の共同墓会員は四百人を超しました。「墓に入りたい」が動機で組合員になった人は五十人近く〉(p.172〜173)。

 本書は、これを「新しい高齢者運動」としてとらえる視線をもっており、かつての村落共同体が解体し、寺の檀家制度がくずれ、家制度が衰退しているなかで、新しい共同性を生み出すものとしても注目できる。
 「墓を守る」ことは、もはや家や村落や寺院にはできない、あるいはお金のある人でなければできないだろうと思う。
 そういうなかで、こうした「共同墓」という考えは、今後ますます力を得ていくにちがいない。これこそ、左翼が真剣にとりくまねばならぬ、新しい共同性の構築の課題の一つではないのか。




初七日や四十九日の意味

 さて、このように、本書の「革新性」にだけ注目してきたのだが、ぼくは本書を読んでむしろ、旧来の仏式の葬儀や法要の意味を再認識するにいたった。

〈夫の遺言通り無宗教(自由葬)にしたことも、その中身もよかったと思っている。でも無宗教だから初七日も四十九日もない、そのため「心の区切りや整理をつけるきっかけがなくて……」。
 仏教の葬儀には初七日、四十九日や一年後の一周忌(年忌)、満二年後の(三回忌)、七回忌、十三回忌などと仏事があります。それぞれに宗教上の意味がつけられ、死者が仏の世界に至る道程として教える場合もあります。
 神道にも同様の祭事があります。葬儀後の十日の祭り、五十日祭、百日祭(または一年祭)、そして三年、五年、十年……。インターバルは、仏教のそれとよく似ています。
 残された者が、故人をしのび、その死を受容し、日常生活を取り戻す。そして新しい生活をつくり出していく。そんな一つの過程を遺族に促す、先人の知恵のようにも思えます〉(p.39)

〈「旧来のやり方をすべて否定するのではない」と井上さん。「なぜそんな儀礼をするのか、その意味を考えたとき、学ぶべきことがあるはずだ」と思うからです。
 例えば、仏式では、読経をきっかけにみんなが集中できます。経の意味はわからなくても、あの音楽性に身をおくことで精神も高まるのではないか。焼香があるから故人と一対一で別れを告げることができる。神道式の玉串奉奠や献花・黙とうも同じです〉(p.43)

 このように、本書は、たんに古いものの否定ではなく、その意味を生かしながらどうやって自分(本人)らしい葬儀をしていけるのかを考えるうえで多くのヒントを載せている本である。
 自分が死ぬことの心配というより、自分の身近な人が死ぬことを想定し、今から考えておいて悪くないテーマである。



 
 

柿田睦夫『現代葬儀考 お葬式とお墓はだれのため?』
新日本出版社
2006.12.5感想記
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