かたおかみさお『Good Job〜グッジョブ』



Good Job 1 (1)  1巻を読むだに強烈な違和感を覚えた。

 舞台は大手建設会社の営業課。登場人物の多くは一般職、すなわち事務職の女性正社員だ。
 話はほぼ1話完結方式で、その課での事務労働をめぐるものばかりで、そのなかでも人間関係にぎゅうううっとしぼりこまれた展開が毎回なされる。
 人間関係といっても、人間ドラマではなく、労働をめぐるコミュニケーションのトラブルをどう解決していくか、ということにのみ照準が合わせられている。

 たとえば、1巻には次のようなトラブルが登場する。
  • 「自分のミスでもないのにミス扱いされて、その懲罰のように、使えないOLをサポートにつけられている」と感じる男性社員のいらだち
  • 女性事務職員の労働にたいして、いちいち感謝を表明させられる男性社員の不満
  • パートナーが遠隔地で大きな仕事をまかされたが、自分も今の会社で昇進する女子社員の懊悩
  • 来る日も検算検算検算検算、データ処理、検索検索、表計算、そして検算検算……という「やりがいのない労働」がつづくことにOLが感じる労働疎外

 「強烈な違和感」と書いたことの内実は、この漫画の中心に、上原(通称「上ちゃん」)というOLがいて、彼女は別に管理職でもなんでもないが、彼女が課のコミュニケーション不全およびトラブルを、そのコミュニケーション思想とスキルによって、万事解決していく、というその調子である。
 荷宮和子が、あいかわももこの『コスメの魔法』をもちあげたときに「お化粧版水戸黄門」だと苦笑していたが、その謂いを借りれば「女性事務職員版水戸黄門」だ。

 衆目のなか、突然泣き出した女子社員(清水)のもとに、上原はさっと駆けつけ、まずひざまずいて(すなわち相手よりも低い目線に!)「どうしたんですか?」と聞く。

「う……うっ 彼が…彼が 北海道の大学……行っちゃって……」
「! ついて行かないの?」
「だっ だって『ついて来てくれ』って言われてないもの」
「清水さんはついて行きたいの?」
「わ……わからな……だって……わたし わたし……主任にな……課長にこれからもがんばれって言われ……彼も……彼も……がんばって…って……」
「ねぇ、清水さん、清水の目標はなに? この会社で主任になること? 北海道にも働く会社はあるんだよ 転職すれば そりゃ ここより条件落ちたりするよ でも でも仕事ややりがいは自分で探せばどこにだってあるんだよ」

 終始こんなふうに、トラブルに遭遇すると、上原は発想やスキルの伝授という形で、いわば一種の説教をそこかしこで行う。
 また、職場全体の人間関係に目配せし、だれがしんどいか、だれが手があいていそうか、などを把握して仕事をふる。女子事務社員間の労働分配機能も発揮しているのが、上原という存在なのである。

 いやー、現実にこういう人がいたら、一歩間違えば、ただの「勘違いな人」になりかねんのでは。

 本作では、上原は教育的叱責をおこなう正論家でもあり同時に人間的摩擦の緩衝役でもあるという、矛盾に満ちた存在なのだ。つまりハッキリ言うことで誤解を受けやすい存在と、ちょっと鷹揚・ルーズで何でも言いやすいという存在が一体になっている。
 現実世界でこれらの役目をすべてひっくるめて存在しているという人がいたら、まことに希有なケースか、「自認」でしかないケースかのどちらかだろうと思う。
 いや、原理的に考えると、両者は非常に高次のレベルで統一することができる。
 相手の発展段階を教育的に見ることができ、それで相手に受け入れられやすいアドバイスを的確におこなえる人、つまりスゴイ教師、みたいな人なのだが、現実にはなかなか存在しえない。たしかに「キーパーソン」といえる人は役職の高低とは別に「1人」いるという状況はままあるが(派遣などで出かけたときはそれが誰かを見抜いていくのが重要になる)、上原のもつ機能はそれだけにとどまらない。
 実際の企業のなかでは上原的機能は多くの人に分割されており、周囲から非常にぼんやりと「なんとなくそういう役だと認知」されている調整役の人、あるいは人間関係においてもバッファーの役割を果たしている人、正論をいう憎まれ役、などではないかと思う。これを上原は一身に体現する。
 もちろん虚構なのだからそういうスーパーウーマンが出てきて大いに結構なのだが、一話完結方式というのは上原がそのリアリティを獲得するにはあまりに性急すぎる枠組みなのだ。


 それでもぼくは、強烈な違和感をいだきつつも、1巻を読み2巻を買い、さらに3巻へと読み進め、ついに5巻すべてを読んでしまった。

 それは、女子社員にかぎらず、若いサラリーマンたちにとって、職場のコミュニケーション、人間関係というのは、ある意味で賃金や労働時間以上の負荷を生み、ひょっとしたら最大のストレス因であるかもしれないからだ。若い左翼たちが、同世代のサラリーマンの声を聞き取ったりすると、こうした職場の人間関係に悩む声がたくさん掘り出されてくる。
 だから、本作でとりあげられるエピソードそのものは、どれも身近で身につまされるものばかり。だからこそ、上原の仕切りぶりに強烈な違和感を覚えつつも、ぼくは1、2巻を読みすすめることができたのである。

 また、『ドラゴン桜』のように、これもリアリティのあるドラマではなく、たんなるコミュニケーションの「教科書」であり上原はその先生だと思えば、余計な期待をかぶせずにすむ。そしてそういう視点に変えてみれば、一種の刺激的なマニュアルとして読み進んでいくことができる。

 上原の思想の根源は、シンプルである。
 要約すれば「前向きにオープンにしてみよう」ということになるだろうか。

 4巻のwork.17〜19はそのことを一番端的にしめしているエピソードだと思うが、異動で女性と別れることになった男性社員、恋人が異動であわせるように迫られる女子社員、出世の限界がみえてしまった男性の課長などの思いが複雑に交錯して、誤解を相乗化させていくのだが、それぞれなりの事情があっていまの思いにいたっているのだなということを読者は複眼的に読みとることができる。
 お互いの事情が「前向きな形でオープンにされる」ことで、問題は解決されていく。
 つづくwork.20も、数字の間違いを「気楽に考えている」と誤解された女子社員と男性社員のディスコミュニケーションのエピソードで、一度の失言や一度のミスで大きく人間の評価が狂うことがある。それをコミュニケーションによって打開しようという説話。
 いずれもただ思いをぶつけるだけの「後ろ向きのオープン」ではなく、関係をどう良好にするかという「前向きの配慮をもった」オープンさなのである。

 1〜2巻はかなり上原が前面に出てきて、正直その点がややうっとおしかった。
 とくに、1巻冒頭で、上原が自宅で交際している男性に接するシーンがあるのだが、「あのね ちょっとしゃべっていい? 今日わたしと会う約束してたから来てくれたんだよね ありがとう でもね 仕事がトラブって疲れてたんなら ムリして来てくれなくてもいーんだよ ただ それでもわたしに会いたかったんなら わたしはうれしいから大歓迎」などと家の中で折り目正しくコミュニケーションする様子に気が狂いそうであった。
 これがいくら「正しい」コミュニケーションスキルでも、いっしょにいたら、疲れちまうよ!
 作者であるかたおかの絵のカタさ(この人は正面から顔を描くことが多い)も、しなやかさを感じさせないつくりになっている。

 ところが3巻以降、様子がかわる。上原はもちろんいつでも物語のカナメにはいるのだが、やや後景にしりぞき、それぞれの登場人物がかかえている「事情」というものがクローズアップされてくる。
 ぼくとしては、物語のトーンが急に深みを増してくる印象をうけた。

 4巻の、表面的にはデキるしキツいと思われている女性社員(南)のエピソードは、南の弱さと強みを掘り下げることで、キツいということと優しいということの同居をみごとに描破。
 また、同巻では、「できないOL」と思われている斎藤直が、実際にいかに「できないか」を描写したあとで、どうやって自分の居場所や課題を職場のなかに見つけるべきなのかを丹念に描く。

 5巻の美人女子社員・小久保の一連のエピソードは圧巻である。
 美人ゆえに受付や人事などの華やかな場所にいたが、「自分も営業に落とされるトシになった」とグチをいうのである。ここだけ聞くと、いかにも小久保の改心話がこのあと続くのであろう、という予想ができる。さにあらず。
 物語は小久保という人間のよさをどう受け入れるかという見事な人間解釈を展開し、そのあざやかな反転も小気味よかったのだが、さらに、美人で割り切った性格ゆえの小久保のコミュニケーション不全についてストーリーは深められていくのである。
 小久保がいまのような人格を形成するまでの原体験、といってもそれほど大げさなものではなく、中学生だったときに体験した、いわば「心にささった小骨」のような体験が十分なページをとって描写される。
 そのあとで、入社以来一番心を許していた同僚の真意をふとしたことで知ってしまうのだが、そこからすぐに感情描写にうつらずに、十分なタメをとったのちに、人知れず涙を流す小久保を描く。

 もうこのシーンを読んで、ぼくは不覚にも泣いてしまった。

 そしてこのディスコミは解決されないままの現実として読者に投げ出されることになり、ぼくは、ここでとてもリアルなものを感じたのである。
 「ああ、ほんとうにこういうコミュニケーション不全で傷つけられるってことが、いまの職場には膨大な数の伏兵みたいにあるよねえ」としみじみ納得してしまった。

 労働の現場で起きる問題は、長時間労働にせよ、労働疎外にせよ、コミュニケーションだけで解決できるわけではない。しかし、もしコミュニケーションがある程度円滑にいけば、かなりの量の心の負荷も解決できるというのもまた事実である。

 その意味において、『グッジョブ』の描く世界は、事務労働者全体のユートピアだといえる。いや、コミュニケーションの帝国というべきだろうか。

 



講談社KC 1〜5巻(以後続刊)
2005.10.18感想記
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