E.ゴーリー『不幸な子供』/90点

 絵本。といっても、これを職場の机においていたら、同僚がパラパラと手にとって、「げ、何これ。おかしいんとちゃう」「よくこんなコワいもの読めるな」と、あわてて閉じていた。

 絵柄はまことにかわいらしい白黒の線画。ゴーリーは好んで子どもばかりを描く。
 ただ、よく「大人の絵本」などと評する人がいるように、本作や『ギャシュリークラムのちびっ子たち』などは、たいていの人がとてつもない恐怖感を感想として口にする。

 絵本を、文字で解説することは、ばかげているが、ちょっとだけ。

 たとえば、『ギャシュリークラムのちびっ子たち』は、Aではじまる名前の子から、Zまで、一文字ずつ子どもたちが事故死や変死をとげた様子を、すべて短い一文で描いている。
「Hはヘクター ごろつきのえじき」
と、こんなぐあいである。
 「Fはファニー ヒルがきゅうけつ」をとりあげてみよう。
 沼に子ども。麦わら帽のようなもので顔をかくした半裸の子ども。その足もとに、ちいさい、ただ黒い線のようなヒルがえがかれている。
 この絵の無気味さは、子どもと沼のむこうに広がる、無気味な黒雲が、画面の半分以上をおおっていることによって、まず示される。
 沼と黒雲のあいだには、草というか、葦のような草がずっとつづいている。
 圧倒的な黒雲が、見る者に不安をあたえ、ついで、「この子どもは、どうしてこんなさびしい場所で独りぼっちでいるんだろう」というまた別の不安をかきたてる。たとえヒルがいようがいまいが、この子どもはほんとうにさびしい広大な湿地に一人だけで取り残されているなあ、といった不安感を与えるのだ。

 『不幸な子供』はさらにこれとは別種の感情をわきあがらせる作品である。(内容はナイショ)

 S.ソンタグは「解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである」といい、「本物の芸術はわれわれの神経を不安にする力をもっている。だから、芸術作品を切りつめた上で、それを解釈することによって、ひとは芸術作品を飼い馴らす。解釈は芸術を手におえるもの、気安いものにする」と批判している。

 とくに、こうした絵本に「解釈」をほどこそうとする行為にこそ、ソンタグの批判は向けられているだろう。
 が、あえて、ぼくは、その無謀を試みる。ぼくなりにゴーリーのこれらの本を解釈してみよう。

 たとえば、ぼくらは異常犯罪によって殺された子どもの事件や奴隷制によって酷使される子どもたちのケースについてのルポを読む。
 そのとき、そのむごさを確認しつつ、ぼくらは、それが歴史性をもち社会性をもった事件であることを認識することによって、なぜそのような理不尽な犯罪がおきたか、あるいは、そのような児童労働制度がどうして存続し続けられるかを理解することができ、それによって、そこからの解放のための、楽観的な根拠をそれとなく見い出すことができる。

 しかし、ゴーリーが描くような子どもたちの不幸には、なにも理由がない。
 ただ圧倒的な力をもった不条理として、なんの抵抗力もない子どもに突然押し付けられる。それはだれにも解決することができない不安であるといってよい。『ギャシュリークラムのちびっ子たち』の短い、警句的な死に様の描写は、短く、無理由であるがゆえに、その不条理の鉄のような強大さを思い知る。
 『耳袋』という都市伝説を集めた怪談集が一時期流行し、それが怖かったのは、それが話に「霊」であるとか、「因縁」であるとかいうオチをつけないからであった。人は、その不条理や怪奇が、なにかの理由であることによって安心する。

 共同体の紐帯や、共有される歴史がない現代において、すべての事件は説明の根拠を欠いている。たとえば、むかしは何かあればすぐ罰があたった、などという解消のしかたをしていたが、いまは、自分のおきた不幸を説明する物語はない。「なんだかわからないけど得体の知れない不安」がぼくらをおそい、村上春樹が『アンダーグラウンド』などを書いてしまうのは、ある意味で当然のことなのかもしれない。ゴーリーの、子どもたちを襲う不幸は、それと同じ文脈にあるとぼくはおもう。

 その解決方法はかんたんだ。不安の正体をみきわめることなのだ。不安の歴史性と社会性を冷静に解析することによって、ぼくらは意味のない不安な気持ちから解放される。能天気なやつだと笑うだろうか。


(柴田元幸訳、河出書房新社)

採点90点/100
年配者でも楽しめる度★★★★★

2003年 1月 29日 (水)記

メニューへ