松村劭『ゲリラの戦争学』


ゲリラの戦争学 「ゲリラとは、スペイン語の『小さな戦争をするグループ』という意味であり、それに『不正規に編成されたグループ』という意味が加えられている」(本書p.36)

 本書は、古今のゲリラ戦争の歴史を概観しながらゲリラという戦争形態が成立する「条件」をあきらかにし、逆にこれをもってゲリラに対抗する道をあきらかにしようというものである。なぜゲリラかといえば、「テロは、ゲリラ戦の一戦法であったから」(p.6)だ。911テロ以来、テロを根絶することは(軍事的方法か非軍事的方法か別にして)人類的な課題になっている。

 「はじめに」で陸自幹部であった著者がいささか悪意をこめて紹介しているが、ゲリラ戦はベトナム戦争や日中戦争、キューバ革命、対ソ・アフガン戦争のように、「弱者が強者に勝つための秘策」として美化されているむきがある。
 『孫子』には、「夫れ兵の形は水に象(かたど)る。水の行は高きを避けて下(ひく)きに趨(おもむ)く。兵の形は実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に兵に常勢なく、水に常形なし」という一文があるが、この水の自由さを体現したのがまさにゲリラではないか、と。

 しかし、本書を読むと、ゲリラ戦が成功するためにはいくつかの条件が必要になることがわかり、実はその要件の成立は単純なことではない、と理解できる。松村はゲリラが成立するための9つの条件をあげており、これを満たすのは容易ではないな、と一目見て感じた。『孫子』どころではない。

 たとえば、一番基本的なこととして、著者によれば戦争は「持久戦と決戦」の組み合わせであり、ゲリラは「持久戦」のための部隊なのである。逆にいえば決戦兵力をもたないと(少なくとも)軍事的な勝利をおさめることはできないのだ。

「持久戦を行う側が『勝利』を求めるなら、最終的に『決戦』に転換しなければならない」(p.25)

 これはゲリラ側からの主張によっても裏付けられる基本原則だ。たとえば、チェ・ゲバラは、『ゲリラ戦争』のなかでこうのべている。

「……ゲリラ戦がそれ自身では完全な勝利に達し得ない戦争の一段階であることは明らかである。それは戦争の初期の諸段階のうちの一つであって、ゲリラ軍が着実に成長して正規軍と同じ特質を獲得するまで、たえまなく発展する。……勝利はつねに正規軍によってのみ達成できる」(同書p.22〜23、中公文庫)

 ものごとの純軍事的側面だけをみるなら、およそそのように言うことができるだろう。ゲリラ戦だけで侵略者に(軍事的に)「勝利」できる、というのはたしかにひとつの夢想である。


 ゲリラ戦を成立させる要件として、ぼくが注目したのは「聖域」の存在である。

 聖域とはゲリラが逃げ込み、たてこもり、あるいは策源地にし、そこには敵の正規兵が容易に到達できないような場所のことだ。著者はギリシア内戦を例にとり、「冷戦」によってゲリラにとっての「聖域(harbor)」が誕生した、ということをあげる。

「……それまでのゲリラ戦においては、『聖域』がゲリラ戦略に大きな役割を果たした戦例はない。なぜなら、帝国主義の時代においてゲリラに聖域を提供すれば、たちまち遠慮会釈なく聖域は踏みにじられたからであり、対応を誤ると全面戦争になる。スペイン内戦で左派政権軍を支持したフランスでさえ、聖域を提供しなかった。そんなことをすれば、たちまちドイツとイタリアから戦争をふっかけられたことだろう」(p.133)

 したがって、著者は、次のように主張する。

「対テロ攻勢作戦の原則は、テロリストとゲリラの違いを除けば、ほとんど対ゲリラ戦の原則を適用できるだろう。すなわち、最初はいかなる国も『聖域』を提供しにあように、国連活動を含めて外交を展開することになる」(p.197)

 この原則からいって、モロに失敗をしているのがイラク戦争ではないかとぼくは思う。
 テロリストを政治的に包囲していくためには、外交をふくめた諸国の一致と世論の味方が必要になる。その基本的要件は「大義」をもつことであるが、アメリカは国連の舞台で協力を得ることにも失敗し、もちだした「大量破壊兵器の存在」という口実も失い、「特定国の侵略」ということだけがあからさまに残った。

 その結果、さまざまな意味で「聖域」ができた。それはテロリストを支援する「国」があるかということよりも、反米の心情を広げ、さまざまな隙間にテロリストが逃げおおせる余地を残したからである。テロとたたかうためには、何よりも国際的な団結を重視せねばならず、たたかう方法が軍事か非軍事かひとつをとってみても慎重でなければならない。それがなければ団結は容易にこわれ、包囲網は解体したり破綻したりする。

 テロリズムは、一般的なゲリラ以上に、わずかなすきがあればそこから逃げ、潜伏することができる。一瞬で「聖域」がつくれるのである。
 したがって、国連のお墨付きもなく、諸国の協力もない、アメリカのイラク戦争を仮に「対テロ戦争」だというなら、これほどずさんな対テロ戦争はなく、逆にテロリズムの土壌を広げているようなものである。国連安保理の報告が、イラクの現状を“テロリストの楽園”であるかのように評したのもそのためだ。

 なお最後に叙述の形式についてのべておくと、松村は古今の戦例を11の項目であげているが、どうでもいい戦争の経過の記述が多すぎる。戦史家にありがちなペダンチズムではないのかと思う。見なれぬ地名が次々出てきてどこそこで何人やられたなどと書いてあるのは、「ゲリラの戦争学」というテーマからすればどうでもいい話である。14章の「教訓と展望」へとつなげる部分を太く抽出すべきであった。戦史部分は新書のページをうめるための思われても仕方がない。
 ただ、その部分が面白くないかといえば、ぼく的には知らない事実も多くそれなりに楽しめたのだが。






※念のために書いておくけど、ぼくは日本においてテロやゲリラをきびしく否定する立場にいる。

文春新書
2005.9.7感想記
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