後藤惠之輔・坂本道徳『軍艦島の遺産』
大橋弘『1972青春軍艦島』



 ゴールデンウィークは、つれあいと長崎に行っておりました。
 ぼくは学生時代に原水爆禁止世界大会に参加したり、つれあいは修学旅行などで来たことがあるというわけで、二人とも初めてではない場所なのですが、今回は原爆関係の遺跡や展示はパスをして、近世と近代の遺構・遺跡・展示をめぐることにしぼりこみました。

 とはいえ、ぼくが「出島」の復元地を1日がかりで見ようなどとしていたらつれあいが怒り出したのも事実。けっきょく、長崎歴史文化博物館、グラバー園、出島、大浦・浦上天主堂という具合になりました。

 長崎が郷土史ではなく日本史に登場するのは、戦国期に一寒村を戦国大名の大村純忠が港として開いたことがスタートですから、上記のものをまわれば、少なくとも原爆投下まではほぼ「長崎」をカヴァーすることになります(あくまで「初心者」としてですが)。



軍艦島とは


 さて、そのなかで「軍艦島」(右写真)は最終日に訪れた、もっともインパクトの強い訪問場所でした。有名な島なので知っている人も多いでしょうが、知らない人のためにごく基本点だけを。

 軍艦島は長崎港の南西20キロほどのところにある小さな島です。「軍艦島」というのは俗称で、正式には「端島(はしま)」といいます。現在は合併などで長崎市になっています。写真でみるとわかりますが、あるアングルからみた島影が軍艦に似ていたことからつけられたあだ名です。

〈全島只是れ一大岩層に固められ而も之を繞らす高さ三四丈の石垣を以ってし正に海上の城郭たる観がある。若し夫れ沖合遥かに望まんか二本煙突の巨艦、今や錨を抜いて何れへか航せんとするの威を示せるにも似ている。事実所見の人は往々にして之を偉大なる軍艦とみまがふさうである〉(大阪朝日新聞1916年4月7日付)

 1921年2月には長崎日日新聞が当時建造中だった戦艦「土佐」に似ているところから「軍艦島」と報道し、この名前が定着したといいます。これらの報道の紹介が、後藤惠之輔・坂本道徳『軍艦島の遺産』に出てきます。

 実は端島はもともともっと小さな島だったのですが、このあたりの地下で良質の石炭がとれるというので、石炭の採掘がおこなわれるようになるのですが、台風・波などで設備がたびたび流失し、採掘の条件を整備するために、島をコンクリートで護岸し、抜本的に拡張したのです。
 ちょうど、沖ノ鳥島のデカい版みたいなもので、一種の人工島です。

 端島だけでなくとなりの高島をふくめ周辺の島々は石炭の採掘場所として栄え、これらは三菱が買収するところとなりました。そうです、これらの島々は何から何まで三菱が支配する島となったわけですね。それで鉱夫や職員の住宅を島に確保する必要が生じ、島に次々に建物がつくられていったのです。

 そして写真でごらんのようにコンクリートの「高層住宅」が密集する状態となり、全体わずか0.06平方キロ(南北480m、東西160m)になんと100もの棟の建物がひしめく状態となりました。
 1974年に閉山・全員撤退までの間、最高で5267人(1960年)の人口を擁しました。

〈これを人口密度に換算すると、一平方キロメートル当たり八万三六〇〇人となり、当時の東京の人口密度の約九倍に相当し、端島は世界一の人口密度の島であった〉(後藤・坂本前掲書p.61〜62)

 おそらく端島に船で近づいた時、最初に目にとびこんでくる、一番印象的な建物は写真にあるように北端に位置する小・中学校です。「第70号棟」にあたる建物(右写真)で、1958年に完成した鉄筋コンクリート7階立ての建物です。
 これ以外に9階立てのコンクリートの建物が5棟もあります。〈端島に、わが国最初の鉄筋コンクリート造りの高層アパート群の建設が着手されたのは、大正四年(一九一五)のことである〉(前掲書)というほどですから、この島がいかに古く、しかもその最初から三菱の手によって技術やカネが投じられたかがわかろうというものです。

 「軍艦島」という響きから、そしてこの異様な島の姿から、軍事施設・軍事関連遺構を想像する人がいるかもしれませんが(ぼくがそうでした)、驚くべきことにこれは産業遺構、いや産業と生活(つまり職住)一体の、もっとも正統=本来的な「生活」の遺跡なのです(たとえば「ベッドタウン」のよう歪さではなく)。

 後藤・坂本の本では、この島が「香港」によく似た特徴をもっていることを紹介したうえで、〈端島は、以上のように都市に必要な諸特性をすべて有していたわけではないが、島内の生活は自己完結型で島民はこれに十分に満足していたことを考えると、端島は完全な都市ではないが、石炭で栄えた「産業都市」であったといえるのではないだろうか〉(前掲書p.180)とまで言っています。

 端島=軍艦島は現在立ち入りが禁止されており、上陸はできません。行きたい人はぼくのようにクルージングの船が長崎港から出ているので、それに乗ると島の近くを船で一周できます。
 ただ、現在「廃墟」マニアたちの間で注目が高まっており、端島の写真はインターネット上で次々公開されています。「軍艦島」でググってみれば無数にありますんで、廃墟としての軍艦島に興味がある人は、それを見たらいいでしょう。



廃墟としての軍艦島でなく近代の生きた軍艦島を知りたい


 ぼくは「廃墟」を見るのがたしかに嫌いではありませんが、軍艦島についていいいますと、やはりこの島が「生きて」いた時代が一体どのようなものだったのか、ということに俄然興味を覚えました。

 たとえば、病院の廃墟、ドライブインの廃墟というのは、容易にそこでの生活が想像できます。
 しかし、この島についていいますと、廃墟をみればみるほど、一体この島が息をして人々が暮らしていた時代、どんな状態だったのかが想像がつかなくなるのです。

 軍艦島は「緑なき島」と映画で紹介されたことがあるように、林や森がなく、そして地面さえもなかなかないという、まるで都心の生活のような状況でした。

〈端島には高層アパートが密集していたため、通りから見上げる空は建物に切り取られ、わずかしか見えない。また、日給アパートの屋上を除けば通路もすべてアスファルト。唯一、空の広さや土の感触を実感できるのが学校の校庭であった〉(前掲書p.95)

 このキャプションとともに、小中学校の建物と校庭、そして生徒たちの写真が載っていますが、これだけみれば本当に都心の小学校です。いや、都心でさえ建物の威圧感たるや、かくやと思わしめるほどなのです。
 しかも本土なら、そうはいっても、自分の住む街と、それ以外は「地面」でつながっており、自分たちが世界とつながっていることは物理的に実感できると思うのです。ところが、〈絶海の一孤島〉と1915年に大阪朝日新聞で形容されたこの島において、一体、人々はどのような生活意識を持っていたのかが甚だ不思議に思えてきます。

 そのことを知る上で、後藤・坂本の前掲書と、大橋弘の写真集『1972青春軍艦島』は重要なヒントを与えてくれます。



近代の幸福な記憶としての坂本の記述


軍艦島の遺産―風化する近代日本の象徴  まず後藤・坂本の本ですが、地元の長崎新聞が出している新書で、坂本の方は小学6年から8年間、この島で生活したことのある人間です。
 いわば、軍艦島にかんする基礎的な知識を網羅した「入門書」ともいうべき性格の本で、石炭産業の歴史を簡単にひも解いた第一章から端島炭鉱=軍艦島の略史を書いた第二章を読めば基本的なことが把握できます。

〈本書は「軍艦島」の入門書である。本書を通して、「軍艦島」の歴史、学術的価値、そして島民の生活ぶりが浮き彫りとなり、日本の近代化の一端と産業遺産としての価値を学ぶことができるに違いない〉(後藤・坂本前掲書p.17)

 しかし、ぼくにとって、なんといってもこの本の躍動している部分は、第三章「端島に住んで」の部分で、この箇所をこの島で暮らしたことのある坂本が執筆しています。
 正直なところ、高齢者が書いた「自分史」のような粗略さ、主観性、感傷が見え隠れしますが、それが逆に生活者としての体験をつづった熱い記録となっており、読んでいて面白いのです。
 大人のくせに、子どものころに戻したような、妙に冷静なしかし熱い坂本の目線で島の生活が生き生きと描かれています。

〈……この島の建物の特徴は、離れた建物をスムーズにつなぐ空中廊下であった。つまり九階から隣の建物に移動するのに、わざわざ地上まで降りなくても、途中の七階や四階からこの廊下を通って移動できるのである。……学校まで雨に濡れずに通学できたというのは少しおおげさだが、雨の日に傘をさしたり長靴を履いた記憶はほとんどないのである〉(後藤・坂本前掲書p.101)

〈夕方になると、どの部屋にも灯がつきはじめて、私の家では一番方から帰った父の仲間が集まって酒盛りが始まる。父たち鉱員の勤務は三交代で、一番方から三番方まであった。一番方は午前八時から午後四時、二番方は午後四時から深夜一二時まで、そして三番方は深夜一二時から翌朝の八時までである。島には「白水苑」というモダンなスナックバーのようなところがあったのだが、なぜか父親はそういうところは好まず、もっぱら自宅が酒場であった。……父は自宅をそういったモダンな雰囲気に仕立てるために、電球や蛍光灯をセロハンで被って色をつけ、楽しそうに酒を飲み、そして議論が始まる。……夜も更けてくると議論が白熱し、きまって喧嘩が始まる。二間の間取りだから大きな声と物音は筒抜けである。そうなると子供は自分の世界でのんびりとはしておれないので、家を飛び出し近所の友達の家へ避難する。私にも隣のおじちゃんが「収まるまでうちで寝とかんね」と声をかけてくれるのである〉(前掲書p.99)

 空中廊下の話など、ちょっと手塚治虫の描く「デス未来」のようで、何から何まで、くらくらするようなモダニズムに貫かれています。ああ、まさに近代。

 クルージングをすると、船から案内が流れてきて、当時本土の村に1台ないしは数台とかしかなかったテレビを、軍艦島ではほとんどの世帯がもっていたとか、この島の中にパチンコ、映画館、スナックなどの娯楽施設がちゃんとあったことが放送されます。なにしろ娯楽施設だけでなく、幼稚園から理容・美容院、そして「診療所」ではなく大きな「病院」まであったのです。
 このことは本書のなかでも詳しくふれられていて、給金は潤沢というほどでもなさそうなのですが、三菱が丸抱えであるためにエネルギー、水、家賃など他の経費がかからず、余剰がつくられやすかったようです。

〈こういう贅沢な生活ができたのは、炭鉱の島であったことが最大の要因である。石炭を掘り出すことで島の快適な生活と安心を得られたことに感謝すべきだったろう。炭鉱以外の産業はなく、それがなくなればすべての生活の基盤がなくなる。島は機能しなくなってわずか三カ月で無人となったのである〉(前掲書p.88)

 後藤・坂本の新書は写真がいくつか載っているものの、やはり主体は文字です。そうすると、「そのころの実際の映像や写真が見たいなあ」という思いがわきあがってきます。

 そこで大橋弘『1972青春軍艦島』なわけですよ。



外からの滞在者が切り取った大橋の写真集


1972 青春 軍艦島  この写真を撮った大橋は、27歳のときに東京ぐらしから長崎へ旅に出かけ、そこで生活の糧を得るために軍艦島へ「炭鉱の下請労働者」として渡り半年だけそこで生活します。
 つまり、子ども時代をすごし「島の一員」であるという自覚の強い坂本とは違って、すでに人格形成を一定終えている青年として「よそもの」の立場からこの島を眺めているのです。
 だから、一緒に働いている同僚に「仲間意識」を覚え、島独特の生活習慣に次第に慣れていって「島民意識」を形成していくのですが、やはりどこか自分は外から来たものだという醒めた感覚が漂っています。

 そして「労働」にたずさわらずに、いわば揺籃の少年期のうちに島にいた坂本から発せられている桃源郷的なまなざしがありません。島の葬式をカメラで切り取る大橋の目は、外部の目そのものです。

 坂本の場合、先ほどの父親の酒盛り、喧嘩、子どもたちの避難の回顧につづけて次のような叙述がたとえばあります。

〈喧嘩をする親も親だったが、それをいつも見守ってくれた近所の人たちの優しさは今でも忘れられない。同じように近所で喧嘩があれば、私の家が子供の避難所にもなったのだから、互いが困った時には力を貸してくれる環境があったのだと思う〉(後藤・坂本p.100)

 そして、これは坂本ではなく、後藤の記述なのですが、昭和20〜30年代に日本に存在したという「地域社会」「コミュニティ」のよさについて力説します。果ては長崎の小学生殺人事件や六本木ヒルズでの自動回転扉での事故、そして「割れ窓理論」まで紹介され、〈この端島でのコミュニティのあり方を今に活かしたい〉(前掲書p.198)とまで話がすすんでいきます。

 戦後社会が幸福な、回帰すべき社会として回顧され、そのユートピアから現実を裁断するという、ある種の保守的な心情に共通したこのロジックの運びは、別に端島に限ったことではありません。

 いわば、後藤と坂本の新書は、端島という戦後を一つの平等社会・共同社会と見なす視線があります



最も暗い歴史としての高島・端島炭鉱の近代史


 これはある人から指摘されたのですが、そもそも軍艦島にもさまざまな格差があったはずだし、中国人や朝鮮人の強制連行なども痕跡があるのではないですか、ということを言われました。
 船で流れる案内に島の一番高いところに「幹部職員」の住宅があったと聞いて、島にも幹部・職員・鉱員・下請労働者といった格差があったことに思いを致しました。また、映画「緑なき島」で紹介される軍艦島は、冒頭に主人公二人が島を脱出し、一方が捕まえられて拷問にかけられるという筋書きです。

〈このあらすじの最初にでてくる五郎と大助の島脱出、そして大助が捕まえられ拷問に掛けられるという設定は、戦時中の端島炭鉱における採炭労働の苦しさを反映するものであろう〉(後藤・坂本前掲書p.59)

 高橋の写真集のなかにある一文にも、

〈軍艦島の周辺は、潮の流れが速く時化れば波も高い。かつて軍艦島から逃げようとして、坑木を抱いて海に飛び込んだ者もあったそうだが、誰も成功しなかったと聞いた。一に高島、二に端島、三に崎戸の鬼ケ島とおそれられた、文字通り絶海の炭坑島だ〉(高橋前掲書)

とあります。相当に苛烈な労働と支配があったことをうかがわせるものです。
 朝鮮人については戦時増産のために圧倒的な坑夫不足となり、高島・端島で朝鮮人労働者の導入が認められた、とあります。〈高島でいうと、朝鮮人労働者は昭和一六年九月二〇日時点で、全坑夫の一四・三パーセント、坑内夫の一九・五パーセントであった〉(後藤・坂本前掲書p.52)。

 後藤・坂本の本では直截に「強制連行があった」というふうには書かれず、次のような一文があるだけです。

〈この外国人労働者に関しては、中国人強制連行長崎訴訟がいまもあっており、平成一六年(二〇〇四)一二月に原告の二人が高島町を約六〇年ぶりに訪れて、当時の食事や労働状況などについて証言している(「長崎新聞」二〇〇四年一二月三日付)〉


 下記は西日本新聞のサイトのページですが、端島における朝鮮人の強制連行の事実が簡潔に書かれています。
http://www.nishinippon.co.jp/media/news/0101/gunkan/sakata/s01.html


 端島における中国人の強制連行については裁判で争われており、07年3月28日に長崎地裁は賠償請求を退ける判決を出しています。ただし、〈強制連行と強制労働の事実を「人倫に反する違法性の強い事案」と認め、被告四者の共同不法行為を認定〉(下記の長崎新聞のサイトより)しています。ここでの〈被告四者〉とは国・県、後継の三菱の2社です。
http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20070328/01.shtml

 何より、高島炭鉱は、日本資本主義の「原始的蓄積」も最も苛烈な舞台となったところです。

〈巧みに無智の貧民を誘導し、僅々三円五円の金を以て、一男子を雇い入れ、明新丸の汽笛一声烟を残して孤島に連れ来り、遂に生涯その郷里を見ること能はざらしむ〉〈明治十七年の夏該島に虎列刺病の侵入するや、三千の坑夫中其の大半則ち千五百余名は該病の為め死せりと。然り而して炭礦舎は其の死する者と未だ死せざる者とを問はず、発病より一日を経れば之を海辺の焼場に送り、大鉄板上に於て五人若くは十人宛焚焼せり〉(松岡好一「高島炭礦の惨状」1886年――大河内一男『黎明期の日本労働運動』岩波新書1952より)

 つまり、高島炭鉱では、何もしらない人を安い金で売り飛ばして船で絶海の孤島へ送り、死ぬまでこきつかったとか、高島炭鉱でコレラが出たんで、発病したら生死にかかわらず、でかい鉄板の上で焼き殺したというんですね。三菱が高島炭鉱を入手したのは1881年ですから、この記述のときはすでに三菱の経営でした。

 マルクスが『資本論』の中で、資本主義の黎明期(「原始的蓄積」の時期)には、農民が生産手段を奪われ、そしてプロレタリアとなった彼らに対し非常に苛酷な支配が敷かれることを次のように書いていることが思い浮かびます。

〈この新たに解放された人々は、彼らからすべての生産手段が奪い取られ、古い封建的な諸制度によって与えられていた彼らの生存の保証がことごとく奪い取られてしまってから、はじめて自分自身の売り手になる。そして、このような彼らの収奪の歴史は、血に染まり火と燃える文字で人類の年代記に書きこまれているのである〉(マルクス『資本論』1巻原p.934〜935)


 残念ながら、こうしたことについては、後藤・坂本の新書は記述が少ない。
 逆に、p.37〜38には、高島炭鉱が前近代的な「納屋制度」を廃止して、三菱がいかに近代化につとめたか、ということについては書かれています。それはそれで事実なのでしょう。
 国をあげて現在近代の産業遺跡・遺構を残そうという運動が盛んなのですが、それは極端にいえば「プロジェクトX」的な、「幸福の記憶」とだけ結びついていることがしばしばです。

 別にすべてを苛烈な支配の色でぬりつぶせ、というつもりはありませんが、やはり歴史は「光と影」を両方叙述することがどうしても欠かせません。同書のオビには〈近代の光も闇も、廃墟の沈黙の中にある〉というキャッチコピーが載っていますが、本書には「闇」の記述は弱いといえます。

 うーん、ただ新書の中でどれだけ書くかとなると、これくらいなのかな、という気がしないでもないです。まったく触れていないわけではないですし、トーンを暗すぎないようにするとすればある意味精一杯の努力だと見ることもできましょう。それでもやはりぼくとしては不満は残るのですが(はっきりしろ>自分)。



ぜひ保存を


 まあ、こういう点についてふまえておくならば、後藤・坂本の本は入門書として、あるいは戦後の軍艦島=端島の「生活」を知るうえでは役に立ちます。また、それとはちょっと違った視点で端島の生きた生活史を見てみたいなら、高橋の写真集は貴重だと思います。

 よくも悪くも、この島は、日本の近代そのものが集約的に反映された歪さがあります。しかも〈閉山後の端島は上陸禁止であったことが幸いして、島の町並みが当時のまま残され、歴史と暮らしを物語る貴重なたたずまいを残している。炭鉱跡や町並みが完全に近い形で残された例は、わが国にはほとんどない〉(後藤・坂本前掲書p.146)。〈平成一一年(一九九九)に同窓会で二五年ぶりに里帰りし、上陸した(その時は上陸禁止とは知らなかった)。自分の住んでいた部屋に行くと懐かしいタンスや火鉢、柱に残る傷、そして私の使っていたノートや教科書がその当時のまま残っていた〉(同p.83)というほどのタイムカプセルぶりで、たしかにこれを保存しようという主張には十分な道理があるように感じられました。







後藤惠之輔・坂本道徳『軍艦島の遺産 風化する近代日本の象徴』長崎新聞社新書
大橋弘『1972青春軍艦島』新宿書房
2007.5.9感想記
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