「業務用」というワナ




 近所に「業務用」をウリにしているスーパーがある。
 「業務用」とか「プロ仕様」をうたっているスーパーは全国にたくさんあるので、近所のスーパーがどれにあたるかは、まあここでは伏せておこう。東京でも別の企業系列の店を見たことがある。

 しかし、高い。
 っていうか、普通のスーパーとかわらん。
 いつもは使わない。たまたま入ったのだ。チキンなぼくはどういう店に入っても何も買わずに出られないことが多いのだが、さすがに何も買わずに出た。バナナ158円は、近所の別のオサレスーパーの方が安かったほどである。

 アイスクリームとかがバケツ大、ミックスベジタブルが5kgとかで売っていて、それについては確かに安そうである。しかしこれは「まとめ買いしたら多少安くなる」という範囲を出ていない。
 それなのに「業務用」とか「プロ仕様」とかうたっているのが、ぼくはキライなのである。




「業務用」という言葉の魔術



 「業務用」という語感はいろんなことを想像させる。値段は他の近所のスーパー並みなのに、ぼくが「高い」と感じてしまうのは、この語感を裏切るからである。

 「業務だからさ、ホラ、末端の消費者に売るときに必要な装飾や包装、ああいうものは全部ないわけじゃん? 無意味な差別化の宣伝費とか。あと、中間にいろいろ介在している業者もなくなってコストがストーンとカットされているワケ!」——そんなことは店側は一言も言っていないのだが。いや、そういうのに似た説明文をつけているのだが、よく考えればどうとでも解釈できる文章なのだ。(ところで余談だが、うちのつれあいはオムツとかにミッキー・マウスなどがプリントされていると、がっかりして、「このプリントやめればあと30円は安くなるだろうね…」などと必ず言う。)

 あと、「業務用」=「仕事で使っている」=「プロが使っている」という連想を導き、この不思議な「等価交換」の連鎖によって、「業務用」はなんと「プロ」という言葉をゲットしてしまうのである。わらしべ長者みたい
 プロ……なんとなく陳建一とかの「鉄人」がここで買ってるみたいだろ? 

 さらに情けなくなるのが店の装飾である。

 というのは、なんの飾りもない倉庫のようなスチール棚、段ボールを重ねただけの商品の配置——素っ気なくて情けなくなるのではない。このわざとらしさに虫酸が走るのである。
 「えー、ここはいわば倉庫でございます。電飾とか華美な棚とか、そういう虚飾を一切排してコストを最小限にしておるのでございます!」。そういいたげな「つくられたワイルドさ」「十分に計算された粗雑さ」がたまらなくイヤである。

 あれに似てるんだ。
 観光地などで「大正浪漫」「昭和のミルクホウル」とうたってレトロな感覚を演出してある店。「古さ」を人工的につくりだしている欺瞞。それをネタでなくマジで実行し「してやったり」な顔をしているその感覚。

 実際の品揃えは、よくみると普通に小売店で売っているようなものがたくさんある。マーガリンとかも、「雪印ネオソフト」とかが普通のサイズ、普通の値段でたくさんおいてあったりして、脱力してしまう。
 先ほどのべたように、大量に買うものは確かに少し安く、あとそのへんのスーパーでも同じようにして安売りされている三流メーカーの食品はやはり安い。しかし、それでは普通のスーパーと、そう原理的にはかわらんではないか。
 店によっては、わざわざ無印良品でよく使われているような茶色の包装紙にして業務感を演出し、そこに業務用であることをイメージさせるブランド名までプリントしてあり、何をか言わんやである。




真の「業務用」



 ぼくの実家の近くには漁港があり、そのとなりには魚市場があった。いまは亡き祖母は、幼いぼくを連れて、その当時、魚市場へ魚を買いにいったものである。本当に小売りではほとんど魚を買わなかった。
 魚は当時「トロ箱」とよばれる木の箱で売られていた。しくみはよくわからないのだが、おそらく船で水揚げされたものをすぐ業者(仲買)がセリで買い、その場、すなわち市場で並べて売り、そこで小売りが買うというシステムだったのだろう。マジックでぞんざいに箱に値札がつけられており、トロ箱ごと買うのである。ワタリガニ、カレイ、ボラ、メゴチ、メジロなどをよく買った。
 この市場も現在ずいぶんソフィスティケイトされてしまったのだが、下記のサイトをみればそれでも往時の野趣は残されている。
http://www.geocities.jp/gtsfp998/index.html

 「業務用」とはこういうことではないかと。
 やがて消費者はもう「業務用」とただ銘打つだけではゴマかされなくなっていくであろう。スチール棚、段ボール山積みで事足れりとしていてはいかんのである。
 本気で「業務感」を演出したいなら、

  1. カベをとりはらい、照明を必要最小限にする。冬でも白い息を吐いて、凍えながら買い物をするのだ
  2. トラックやコンテナが無意味に出入りし「オーライ!」などと声をあげている
  3. 無口で野暮ったい男たち数十人が帽子をかぶって店の一角で初心者には意味不明の声をあげてセリをしている(芝居)
  4. 店内に頻繁にリフトや台車を走らせ、「あぶねえぞ!」と歩いている客を怒鳴る
  5. マーガリンなども量り売り。買い手は家からボールやバケツをもってくる。レジ袋などもってのほか。どうしてもという人にリアル新聞紙でくるむ。5kg以下で買おうとする馬鹿には冷たく無視する
  6. 店員もキレイなおそろいの服など着せない。また若い女性などは極力排除し、できれば50代以上の野暮ったいおっちゃん、おばちゃんを配置。店員同士で大声で談笑をさせ、客が小さな声でいっても注文なんか聞きゃあしない。初心者っぽい客には「おじょうちゃんにはおまけしちゃおう! はいおつり1250万円!」などという定番のセリフでイジらせる

参考写真:
http://www.city.fukuoka.jp/contents/7d61a2d5a8/7d61a2d5a8146.html

 これくらいしないと「業務用」という言葉はやがてその魔法の効力を失って行くのではないか。次世代の「業務用」はコレである。「業務用」2.0。




「量産型」という言葉の魔術と比べる



 ところで、「業務」という言葉がこのような魔法を生み出すというのは、昔はぼくにとっては考えられないことだった。
 政府がうちだし、いまではもう死に体の首都圏都市構想で、「業務核都市構想」というのがあった。地方都市をビジネスの拠点にして職住一体をすすめるという旗印で都市再開発推進の口実となったものである。
 この「業務核都市」という舌を噛みそうな名前を聞いて、ぼくなどはまったく生活とは無縁の、いかにも役人が机上でつくったっぽい、「天上」感溢るる語感にうちのめされたものである。
 ところがその後、「業務用」はわれわれの生活の隙間に入り込み、言葉をあやつることで印象を操作し、独自の価値さえ生み出すまでにいたったのである。おそるべし「業務用」。

 ファーストガンダムにおいて「量産型ザク」の「量産型」という言葉を聞いた時、衝撃をうけたものであった。それまでのロボットアニメや特撮で、主人公や味方はともかく、敵方のロボットや怪獣も必ず固有名であった。その存在は実存的、唯一無二のものだったのである。
 しかし、「量産型ザク」という呼称は、固有名であることを拒否している。
 たとえば「宇宙戦艦ヤマト」でも、コスモ・ゼロという戦闘機は量産型のものであったのだろうが、「量産型ザク」という呼び名のすごさは、自分がわざわざ「工業的大量生産品の一つにすぎない」ということを強調していることにある。
工場萌え  背後に精密な世界観(偽史)がありそうだという予感、工場萌えにも似た機能美への耽溺、こうしたものが相まって、「量産型」という言葉を聞くたびに、ぼくの体の芯に熱く甘美な電流が走るのであった(なんかエロ小説みたい)。

 この「量産型」のような言霊を、「業務用」という言葉ももっているのだ。訴求する対象はまったく別なのだが。「業務用」と書けば釣られる人がいるならば、これから当研究所も「紙屋研究所(業務用)」とでも称するか。







2007.10.2記
この感想への意見はこちら
メニューへ戻る