羽海野チカ『ハチミツとクローバー』8巻

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ハチミツとクローバー 8 (8) 『ハチクロ』は空虚な物語である。


 そこには、物語の内実といったようなものは何もない

 物語が堂々回りをしているではないか、無駄に連載がひきのばされているのではないか、という不満をしばしば多くの人が感じながらも、それでもなおかつ「感動」させられてしまうのは、羽海野が高度な技術をもっているからである。
 ライターの芝田隆広(サイト「OHP」管理人)が、羽海野に対して「類まれなバランスの良さ」を感じながらも連載引き伸ばしに不平を鳴らしていたのは(「ユリイカ」誌2003.11月号)、そのことの反映であるといっていい。

 堂々回りをしている、連載がひきのばされている、という批判は、すなわち、筋らしい筋がなく、物語が必然的にくみたてられておらず、整序されていないことを意味する。たいてい『ハチクロ』とはどんな物語か聞かれて説明に窮するのはそこに原因がある。これが「物語の内実はない」ということの意味である。


 以前の感想で、羽海野がヲタであり、それゆえに読者が何に萌え、何を感じるか知悉しており、羽海野はもはやその情動因の無限のリソースから要素をつまみだして組み合わせるだけでいい、とのべた。

 羽海野が得意とする「夜」と「雨」を駆使した“情感を生み出す情景”を組み合わせることで、ぼくらは感動のスイッチを押されてしまうのだ。前にものべたとおり、冬目景が“情感を生み出す情景”に頼りすぎて失敗していることとは好対照をなしている。

 コミック8巻でも「夜」と「雨」は効いている。

 真山とリカがハプニングで乗った北海道までの長い列車のなかで、雨の景色をぼうっと眺めるシーンがある。そこで真山のモノローグがはさまれる。

「彼女の ひとりごとみたいな
 つぶやきが

 雨でにじんでる風景に

 ぼうっと溶けて

 眠たいような
 さみしいような
 幸せなような
 気分になった」

 ぼくは読みながら、自分がたしかに雨の日に遠くのちょっとさみしげな景色をみながらそんな気分になったことを思い出した。だいたいそれは幼少期の体験で、横に母がいたような気もするし、そうでなかったような気もする。

 あるいは、美和子が山田をなぐさめて夜のバルコニーでビールを飲むシーンがある。
 夜。『ハチクロ』において、夜ほど重要な時間はない。夜こそ物語が動く。
 夏の夜、うすぐらい電灯の下。健康ランドの飲食施設のはずなのに、画面からは音が聞こえてこない。寂として声なし。美和子と山田は、そのぼんやりとした電灯に照らされる金木犀をみながら飲むのである。山田は今にいたるまで続く自分の恋を「夜の金木犀」のうちにふりかえる。
 山田のモノローグ。

「この香りが街にあふれる頃
 毎年
 学祭の準備が始まる

 オレンジ色の校舎の灯り
 金木犀の香りの中

 大好きな背中を探して

 会えそうな場所を何度も歩いた」

 学祭は大学であろうが高校であろうが、世のだれにでも体験がある。妙に興奮した空気だけが鮮明に残り、記憶の映像はおぼろげだ。特に学祭準備の夜の上気ぶりは、格別である。そこに自分の思い人の記憶でもあれば、もう無敵ではないか。
 そんなすべての人の記憶の底辺にあるはずの切なさを、羽海野はあざとく衝いてくる。

 だが、そこに物語の内実とよべるものは、ない。
 ぼくらは、羽海野の「組み立て技術」によって、感動をひきおこされているにすぎない
 雨にけぶる電車のそとの光景や、夜の金木犀は、実は物語の内実とは何も関係がないのである。しかもそうした“情感を生み出す情景”こそが、ぼくらの『ハチクロ』像のけっこうな部分を占めている。

 
 「羽海野の感動はニセモノだ」と言って『ハチクロ』から撤退した、ぼくの非オタ・左翼友人がいたけども、彼はある意味正しい。しかしサブカルを生きる者の行動としては決定的にまちがっているのである。

 それは必ずしも羽海野への悪口ではなく、その内実のない断片の結合はまさにサブカルの極致だと思うのである。吉岡忍がのべたように、サブカルチャーは、歴史の文脈から切断された断片となることで人間の欲望にこたえてくることができた。

「サブカルチャーはメインの、あるいはトータルな文化が硬直し、形式化して人々の生活実感や感受性からずれてくると、あちらこちらで噴きだし、広がっていく。メインのつまらなさ、退屈さ、権威性に気づき、そこからの疎外感を感じとった人間は、みずからの生理や感覚をたよりに動きはじめる」
「いま、ここで生きているという生理的リアリティーは大切だが、それを背後から励ますものがない。歴史の強靱な精神につなぐものがない」
「宮崎勤は部分しか見ていない。断片にしか興味がない。しかもそのひとつひとつがばらばらで、関連性が見られない」(吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』)

 『ハチクロ』はその真骨頂、正統な継承者だ(もちろん宮崎勤の継承者という意味ではない。それは断片への執着を極大化させたサブカルの破産という話)。「継承者」というのは、歴史文脈から切断された「断片」をあつかうサブカル的技術の最高度の持ち主の一人だという意味である。


 そして、羽海野はヲタであり、ヲタの資源を使いながらも、『ハチクロ』自体は決してヲタ作品へとは傾斜していかない

 8巻のメインキャラクターの一人であるリカ(原田理花)は、その風貌や体表を覆う傷(=包帯的シンボル)といい、綾波レイをソースにしていることは言うまでもないが、外見だけにとどまらず、「中身」までもが「戦闘美少女」の造形を借りている。
 すなわち「空虚」さである。

「おそらくすべてのファリック・ガール〔戦闘美少女のこと――引用者注〕は、徹底して空虚な存在なのだ」「彼女〔綾波レイのこと――引用者注〕の空虚さは、おそらく戦う少女すべてに共通する空虚さの象徴ではないか」(斎藤環『戦闘美少女の精神分析』)


 しかし、その「空虚」さは、実はただ似せただけであって、その空虚さのコアとなる部分をリカは決定的に欠いている。リカが成熟した女性であるということとあわせて、リカは無根拠に空虚なのではなく、まさに反対に、パートナーの死という深い精神的外傷??トラウマを負っているということである。
 これは戦闘美少女の要件と正反対のものである。

 「ファリック・ガールには外傷がないのではないか?」(斎藤前掲書)

 すなわちリカは「外傷(トラウマ)」にまみれており、リカの“空虚さ”には太い根拠があるのだ。

 ゆえに、『ハチクロ』は、ヲタ的な読者も誘引しつつ、決してヲタ的作品には流れずに、少女漫画として屹立しているのである。



以前書いた感想 6巻の短評 9巻の短評

※参考文献:
「ユリイカ 詩と批評」2003年11月号、青土社

斎藤環『戦闘美少女の精神分析』太田出版
吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』文藝春秋

1〜8巻(以後続刊)
集英社クイーンズコミックス
2005.8.28感想記
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