夏休み特別企画 よいこの涜書感想文
小川洋子『博士の愛した数式』


 やあ! よいこのみんな。夏休みの宿題はちゃんとやってるかな?
 そんなわけないよね! きょう(8月14日)あたりが、ハッキリ言って、焦りを覚えはじめる、まさにそのときだよね。

 そんな後先を考えずに「キリギリス」生活を送ってきた君のために、きょうはプレゼントだ! 読書感想文をあげよう。以下の感想文は、丸写しオッケー、書き換えオッケーだ。

博士の愛した数式 (新潮文庫)  題材は、青少年感想文コンクール(全国学校図書館協議会・毎日新聞主催)の高等学校の部の課題図書の一つ、小川洋子の『博士の愛した数式』だ。ちゃんと2000字以内にもおさめたぞ! じゃあ、健闘を祈る。

 一つだけ条件がある。それは、感想文はここのをパクっていいけど、必ずこの本をふくめて何か一冊を読んでほしいってことだ。この本はいい本だぜ!

 あ、それでこの感想文を利用する「リスク」や意図は感想文の後に書いたから、ヒマなやつは読んでくれよな! チャオ〜。

青少年読書感想文コンクール
昨年の高校生の部門の優秀作品

読書感想文は1行読めば書ける!(本読みHPより)


本文ここから↓



 私は数学というものが昔から大嫌いである。
 それはむこうが悪いのだ。なぜなら、極度にそれは不愛想なのだから。たとえば、国語という教科で使われる「言葉」という道具の何と愛想のよいことか。文章にならない「単語」でさえ、愛嬌をふりまいている。たとえば、任意の言葉、「食卓」をとってみよう。その言葉をじっと眺めていれば、私は自分の家の、あの古びた食卓を思い出す。そしてその食卓をめぐって交わされた家族の会話を思い出せる。
 ところが、数学において使われる道具の愛想のないことといったらない。たとえば自然数2。
 2。
 こっちは、はあ、2ですか、と言うしかない。それは量以外の何者をも表していないのだ。ぶっきらぼうに、そう自己を主張した後は、ムスッとしてそこに立っているだけである。質を捨象したものが数なのだから当然といえば当然かもしれないが、愛想も何もあったものではない。
 さらに気に食わないのは、「AとBの中点Pを通る…」などという記述である。「東京と福岡のまん中にある大阪」とでもあれば、イメージもわき、いくばくかの親しみももてる。ところが「AとBの中点P」という言い方は、わざわざその親しみを消し去って、「も、お前とは、なんも話す気ないからね」という、誰の気持ちも受けつけない頑固な顔に変えてしまっているのだ。
 ちょうど、この『博士の愛した数式』に出てくる「博士」の第一印象のように。
 本作は80分しか記憶を維持できぬ数学者と、ある母子の交流の話だ。この物語を読んで、もちろん数学嫌いは直りはしないけどそれでも博士が語る数の世界に耳を傾けるうちに、数というものがこの世界の秩序にかかわっており、それは世界の美しさにつながっているのだという、ある思いをいだくことはできた。
 たとえば博士は「完全数」について説く。自分以外の全ての約数の和がそれ自身に等しい数である完全数について、博士は「完全の意味を真に体現する数字」だとのべ、100億以下に存在するたった5つの完全数をあげ、数が大きくなるほど見つけるのは困難であることや、過剰数と不足数など、この数字をめぐる特徴を話す。
 この博士の言葉を聞いたとたん、実は世界には秩序があり、しかしその先にはまだ人間が知らない調和や美しさが隠されている、ということの一端が伝わってくる。無味乾燥な数字は、説明を聞いた後は表情を持ち始める。主人公も、
「博士の説明を聞いたあとでは、それらは最早ただの数字ではなかった。人知れず18は過剰な荷物の重みに耐え、14は欠落した空白の前に、無言でたたずんでいた」
と思うのだ。
 最もそれを私が感じたのは、この主人公と同様に、素数の説明を聞いたときだ。
 私は中学で素数を習った時、妙な気持ちにおそわれた。素数はそれ以後の数学の勉強には直接にはまったく「役立たない」だけに、不思議とその意味を考えてしまう数字なのだ。そのときは、その妙な気持ちの正体がはっきりとはわからなかった。だが、その私のぼんやりとした気持ちは、主人公の次の言葉で明瞭な輪郭を与えられた。
「私が推察するに、素数の魅力は、それがどういう秩序で出現するか、説明できないところにあるのではないかと思われた。……この悩ましい気紛れさ加減が、完璧な美人を追い求める博士を、虜にしてしまっているのだ」
 私たちが日常使う数字は整数、あとはせいぜい小数と分数、その程度である。その間にどんな関係があり、いかなる秩序が潜んでいるのか、などとは考えもしない。ところが、たとえ28という何の変哲もない数字でさえ、それは完全数として、世界の秩序の中にハッキリとした位置を占めており、しかもそれは100億以内にたった5つしかない貴重なものなのだ。
 そこには、私たちがいかに日常貧しい概念の世界のなかに暮らしているのか、他方で、その私たちの意識とは独立して世界そのものはいかに豊かで美しく広がっているのか、ということが明確に示されている。私たちがそれに気づかないだけなのだ。
 それは数だけの話ではない。
 世界はすべて、そのようにできているのだ。
 博士は、主人公にこう語る。
「自分が生まれるずっと以前から、誰にも気づかれずにそこに存在している定理を、掘り起こすんだ。神の手帳にだけ記されている真理を、一行ずつ、書き写してゆくようなものだ。その手帳がどこにあって、いつ開かれているのか、誰にも分からない」
 主人公が、博士の記憶をまさに「掘り起こす」ように探っていた時、その奥には美しい恋の物語が秘められていた。また、最初は近寄り難くみえた博士も、主人公の息子との交流の中で別人のような側面を見せる。
 それは、「発明」された美しさやあたたかさではない。
 すでに世界に存在していて、私たちがそれを見つけたのだ。
 ぼんやりと見ていれば気づかない世界の美しさは、分け入ってみれば、初めて見えてくることができる。(1970字)








この感想文を丸写しするリスクについて
●ネット検索で比較的早い順番で出現する可能性があり、それを学校の先生などが目にする危険性があります。
●他の人もこの感想文を使うおそれがあります。
●あなたが日常使っている文体と、大きく乖離している場合、すぐバレると思います。

なぜこんな企画をするのか
●読書感想文を一律に課すのは、子どもを読書嫌いにさせるおそれがあると思うからです。感想を対象化することさえなかなか難しいのに、それを一定の形式の文章にしあげさせるというのは、さらに困難です。結果、本を読みたくない、などという子どもを増やしてしまうのではないかという危惧があります。実際、あなたが読んだ漫画でもミステリーでもいいですが「何が面白かったか」を解説できますか? この面倒臭さに耐えかねて本を開きたくない→読まないという悪循環をつくってしまいます。作家の清水義範も『清水義範の作文教室』のなかで同じことをのべています。わたしは、読んでくれさえすればいいと思います。なんらかのチェックを入れたいがためにこういうシステムができたのでしょうが、できれば、教師はいかに読みたくなるかという促進材料だけ提供し、感想文を一律に書くのはやめさせてはどうでしょうか。もちろん、書ける子は大いにコンクールなどにも参加させたらいいと思います。
●だから、高校生のみなさんには、ぜひこのサイトを使って感想を書く手間ははぶいていただきたいのですが、本そのものはきちっと読んでほしい、ということをお願いしたいのです。




新潮社
2004.8.14感想記
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※「読書感想文を一律に課すのをやめよ」