長谷川法世『博多っ子純情』
――浅野いにおにもふれて




 東京から福岡に引っ越した。
 職場の人が博多弁を使っているのを日常的に聞いているが、その様がたいへん楽しそうなので、つい頭のなかで反復してしまう。

 年輩の男性なのだが、わりと恥ずかしそうに、しかし、大声で、そう、まるで女子中学生のようにはしゃいでしゃべる感じがして、大変かわいい。博多弁がというよりも、まずはその会話の光景の楽しさにほだされて、その光景を頭のなかでなぞる感じなのだ。

「しぇからしかぁ」
「なンいいよっと」

 口真似したくなる。そしてつい使ってみたくなる。たぶん言語とはこうやって習得されていくんだろうなあ。

 ちなみに、職場で会合をしていたとき、「ああ、それはカケで」「つぎもカケ」などと会話をしていたので「あのー『カケ』ってなんですか」と尋ねたら、全員目をむいてこっちを見たので可笑しかった(×のことを『カケ』というようだった)。

 折りも折り、職場の近くの本屋で長谷川法世の『博多っ子純情』が復刻されていたので、買って読み出す。職場で漫画の話題になったとき、この漫画の話題が出ていたのでタイミングがよかったのである。「中学生編」4巻のオビに「漫画で読む『博多学』の入門書 地元の人、旅行者、出張・転勤族必読の一冊」とあるように、全編これ博多弁で描かれている。
 ちょうど英語のテキストを読むように、いやそういう「勉強感」からではなく、まったくの“あそび”の気持ちで家にいるときセリフを声に出して読んでいる。

「お前ン方 すぐそげんとば 買うてもらえるけん 良かねえ」
「な… なんでんなかと!」
「そげんとやなか!」
「叩いたっちゃなかとばい! 殴(く)らしたとばい!」
「な…なんが 好いとるな! あげなガキば!」

 家にいるつれあいが呆れている。『エヴァンゲリオン』のシナリオ集を買ってきたときも似たようなことがあったが、そのときはつれあいと同居していなかったため、ぼくも声に出す機会を逸したし、つれあいもその災難に遭わずに済んだ。
 ちなみにつれあいは、しばらく福岡に住んでいながら、いっさい博多弁に感染する気配はない。しかし、多少は彼女の職場の人が使っているのを見聞きしているので、たしなみがある。ぼくが声に出したりするのを気味悪がりながら、ときどきぼくの発音を訂正するように反復している。

「そげん ふうたんぬるか人じゃ なかとです」
「そげん ふうたんぬるか人じゃ なかとです」

 実はぼくは『博多っ子純情』を一度も読んだことがないし、当然結末やあらすじも知らない(どこかで読んだ記憶があったのだが、今度読んでみてまったく読んでいないことがわかった)。だから、現在この復刻版が出ているまでのところしかあらすじは知らないのだ。

 『博多っ子純情』は、1976年から8年間「漫画アクション」で連載され、当時爆発的な人気を呼び、映画にもなった。2005年から西日本新聞社が復刻をはじめ、2006年4月までに6巻出ている。
 博多に住む主人公の青春を、基本的に一話完結の方式で描いた物語で、中学生から大学生までを描いている。6巻まででまだ中学生編は終わっていないので、先はずいぶん長そうなのだ。

 中学生編は、売れない博多人形師の一人息子である、主人公・郷六平と2人の友人(阿佐と黒木)の「性」春物語といっていい。博多の祭である「祇園山笠」にまつわる文化を軸としながら、博多の街で人間が育つということを描く、きわめて正統派のビルドゥングスロマンなのだが、中学時代ということもあって、全体をコミカルな「艶笑」がつつんでいる。青年時代の入口にある「思春期 puberty」はラテン語pubes=生殖能力が成熟するを意味するように、青春がまず「性」春としてあらわれることは、絶対的な真理である。

 正直、Gペンの特性を極端にまで生かした、非常に古臭い絵柄。ぼくは一巻を読み切らずに挫折するのではないかと思っていた。
 たとえば主人公の郷と微妙な関係にある小柳類子の造形はすごい。よく見るとツインテールなのであるが、ソバカスがしっかり書き込んであり、クチビルもリアルすぎて、「本物の女子中学生」感が満載なのである。絶対いまでもこういう女子中学生はいるはず。断言できる。萌えの昇華を果たしていないので、そりゃあもう困ります。6巻まででかろうじて萌えられるのは、6巻にでてくる、捨てキャラの「美人看護婦」だけである。
 このように大変心配な絵柄なわけだ。
 ところが、6巻すべてをぼくは買った。1日1冊のペースで買ったが、わりと仕事の帰りに買うのが楽しみでさえあった。

 たとえば3巻のエピソードをみる。
 主人公・郷は悪友の2人とともに、海に行く。3人が3人とも好きな女の子をもっているのである。海にいく発端は、好きな女の子を盗撮した体操着の写真から「陰毛」がはみ出ていたのがショックだったことなのだが。
 そして、海に全裸で泳ぎだし、全裸のまま好きな女の名前を3人とも叫ぶのだ。
 しかも、好きな女の子との相合い傘を砂に書いて、全裸で「記念写真」を撮るのだが、その騒ぎをしている間に、3人の服が波にさらわれてしまう。途方にくれた3人は、全裸のまま自転車で博多の街を帰るのである。
 いかがであろうか。もうどうしていいかわからないほどに、「正統派」の青春ものであることは充分すぎるほどにわかったであろう。

 しかし、ぼくはこのような「正統派」の青春物語にからきし弱いのだ。
 いいなあ、と素直に思ってしまう。
 これまで、ぼくが心を奪われてしまった青春物語をあげてみると、いわしげ孝『ぼっけもん』、五木寛之『青春の門』(これは現在、いわしげが漫画化している)、小山田いく『すくらっぷブック』などの名前があがるが、どれも実にまっとうなビルドゥングスロマンだということができる。
 「近代」がもつ「青年」の物語だ。

 これにたいして、ぼくは「よしもとよしとも」や「浅野いにお」の描く「青春」が、あまりよく理解できない。
 たとえば、足立守正は浅野いにお『素晴らしい世界』について、次のように書いた。「乾いた死の香りをたえず漂わせつつ、どうせ得ちゃった命だものと開き直った生への賛歌で結ぶ連作」(※1)。
 あるいは、山田和正は「小田急線的な(=町田〜下北沢的な=非中央線的な)青春像を、街と郊外のあいだにあるリアル、バンドやカメラと就職のあいだにある中途半端なリアルを、自家中毒にならずに〔…中略…〕真っ向から描く」(※2)とのべた。

 しかし、ぼくは「よしもと」や浅野の作品を読むたびに、「なぜ古典的で折り目正しい青春を描かないのだろうか」という思いに駆られていた。

 「リアル」を描くには「乾いた死の香り」のような変化球が必要だとはどうしても思われないのだ。ぼくからみれば浅野の作風は「自家中毒」そのものでしかない。「リアル」はもっと凡庸な、しかし普遍的なもののなかにある。

 ところで、雁須磨子のせいで「言いよんしゃった」といわれると「Eの4番シャッターてなんのことですか」と問い返したくなるではないか!(※3)




※1:「ユリイカ 詩と批評」2003年11月号p.130
※2:「STUDIO VOICE」2005年6月号p.31
※3:雁須磨子『じかんはどんどんすぎてゆきます』(太田出版)p.54

長谷川法世『博多っ子純情』
1〜6巻(以後続刊)西日本新聞社
2006.4.8感想記
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