門倉貴史『派遣のリアル』
池田信夫の議論にもふれて



派遣法の見直しが始まった


 政府の諮問機関である労働政策審議会(労働力需給制度部会)で労働者派遣法の見直し作業がはじまった。(2007)年末に報告書がでて、来年には改正法案がでるらしい。
 こうした見直しにむけて、民主・共産・社民・国民新、そして連合や全労連系の労組が一堂に会してシンポジウムをおこなっている(07年10月4日)。

 4野党・労組シンポジウムではそれぞれの立場からの意見が出たようだが、「派遣法を原則自由化された1999年以前の水準の規制にもどすこと」が共通の要求となりそうだ。また「日雇い派遣の廃止」も連合・全労連共通の要求となり、厚労省もハローワークでの紹介を禁じる通達を出したことから、これも共同の要求になるだろう。シンポでは「登録型派遣そのものをなくすこと」「85年の規制水準にもどすこと」を共産党も連合も要求したから、今後共同要求になっていく可能性はある。
http://www.news.janjan.jp/government/0710/0710053506/1.php

 こうした規制強化の流れにたいして、まっこうから挑戦するのは日本経団連である。(07年)6月の要望書では規制をゆるめる要求がどんと並んだ。まったく労働側と逆である。
http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2007/058/index.html#01
 現行法では期間がきたら派遣労働者に直接雇用を申し込まないといけないのだが、この廃止を要求している。また、発注元企業が指揮命令をすることはゆるされていない請負にたいしてこれを認めるようにせよ、つまり偽装請負を合法化せよと要求している。

 この経団連の生々しい資本の要求を、「実は労働者の利益ですよ」というパッケージにして売り出しているのが政府のイデオローグ・八代尚宏であるが、ネットではこの問題にかんしては池田信夫blogがやはりその亜流として最近すさまじいキャンペーンを張っている。池田は自分が財界の犬のように扱われるのを嫌がっているようで、御手洗(経団連会長)の「悪口」なども書いてみせたりするのだが、この件に関してだけいえば、その具体的主張をくらべてみるかぎり誰がどう見ても財界の犬である。本当にありがとうござ(ry
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/16af29654ee641ba6ae3f15bdc23338c
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/86677c117444af76ff35c40e7573cdec
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/d045494b5b3cf14fc062aa68c7f848d6
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/9edbf325d17cc62254dcf71ecc6395f1


 労働対資本のガチンコ対決だ。「規制」対「規制緩和」の対決だといってもよい。派遣という働き方を論議し、派遣という働き方を将来どうしていくべきなのか考えるときだ。どちらに与するにせよ、「派遣」という働き方をめぐってもっと議論がかわされるべき時期にいるのである。

派遣のリアル-300万人の悲鳴が聞こえる (宝島社新書 243)  そんなとき、本書、門倉貴史『派遣のリアル 300万人の悲鳴が聞こえる』(宝島社新書)である。門倉の前著『ワーキングプア』についてぼくは「その問題を論じる際に便利なデータハンドブック」だという評価をあたえたが、本書も「派遣法見直し時期にあたり、議論をすすめるさいにおさえておくべき基本的な歴史、事実、データをコンパクトにまとめたもの」だという評価をあたえることができる。




本書で基本的事実をおさえる


 たとえば、派遣労働者の平均賃金。
 非正規は低賃金といわれるが、そのなかで派遣労働者はいったいどれくらいの賃金水準で働いているのか。
 いや、そもそも派遣という働き方は少々複雑である。自分が直接雇われた人とは別の人のところにいって、その人たちの指揮命令のもとで働くのだから。こうした派遣の働き方の中で「一般派遣(登録型派遣)」と「特定派遣(常用型派遣)」という区別があるのをご存知だろうか。先のシンポジウムでも「常用型派遣」はともかく、「登録型派遣」という働き方はもうやめたほうがいい、という議論がでているわけだが、この違いがわからなければこの議論の意味さえつかめない。
 本書は、このような派遣についての基礎的事実、基本的データを紹介している。

 そして、今回の派遣法見直しで「99年改定にまでもどるべきか」「85年の法制定までさかのぼるべきか」などという議論がされているように、派遣というビジネスのそもそもと、それがどのような規制をされてきたのか(あるいはどのようにゆるめられてきたのか)を知っておく必要がある。
 本書では第2章で「10分でわかる派遣の歴史」などというミもフタもないタイトルでこれを追っている。

 また、「ネットカフェ難民」とセットになって問題視されるようになった「日雇い派遣」という働き方である。先のシンポジウムでも社民党の福島党首が「スポット(日雇い)派遣は認めない」と発言しているが、今国会では共産党も「日雇い派遣をなくす」ことを代表質問で要求している。これについても本書では第4章でふれている。

 そして、この「派遣法見直しをめぐる財界対労働の対決」をストレートにとらえたのが第5章「労働ビッグバンは派遣に何をもたらすのか?」である。
 ここは、労働ビッグバン、すなわち政府と財界が一体になってすすめる労働の規制緩和——先の例でいえば八代や池田の主張——について著者なりの簡単な検討をくわえていく。たとえば財界や池田の主張する直接雇用の申し入れ義務の撤廃(池田はなぜか「正社員に登用する義務」と勘違いしているのだが)や、偽装請負の「合法化」についてもとりあげ、批判をくわえていく。まあ、批判といっても結局「新書」なので、ごく要点だけなのだが。

 池田は自分のブログで「正社員を流動化=非正規と同じクビきり条件にすれば生産性の高い部門に人が流れやすくなる」「非正規労働者の保護ルールを強化すると労働コストがあがり失業をふやす。失業より非正規のがマシ」という議論をくり返しやっている。
 前者の池田の議論については、小飼弾(ブログ「404 Blog Not Found」)が内在的批判をくわえ「人は何にでもすぐなれるわけじゃねーよ」と机上で描くように労働力が自由に流動化なんかできっこないよ、とのべている。

 門倉はオーソドックスな批判だ。
 正社員化は短期的には企業の利益にはならないが、長期的には企業利益にかなう。ダウンサイジング、非正規への代替化は、個人消費の抑制もふくめ、結局経済自体をむしばんでしまう、というものである。とくに、少子化をむかえて優秀な労働力の確保が課題になるのだから、コスト最優先でやっている企業は逆に労働者から見捨てられていくよ、と警告する。

 以上が本書の概要である。いままさにタイムリーな本。

 構成的に不満があるのは、派遣という働き方の「そもそも」についてが弱いことだ。第2章で派遣法が制定されるときの事情が少し出てくるが、戦前の口入れ屋のような「中間搾取」がなぜ禁じられたのか、直接雇用が原則とされ、「職安」というものがなぜできたのか、ゆえに「常用の代替」としてはいけないことからさまざまな規制ルールができたことを、もうすこしつっこんで、できれば章を設けて論じてほしかった。初心者のためにも。

 派遣という働き方がすでに「当たり前」になっている世代からみると、この働き方自体の「特異」さ、そしてさまざまな規制がなぜそこにあるのかが一見わからなくなっている。だからこそ、このような本でなければそれを知る機会はなかったであろうから。とりわけ「常用の代替にしない」というのが立法の精神であり、その認識があるかないかで、現存する規制を「煩雑」とみるか「必要」とみるか、大きく変わってくる。そして、この認識が派遣法見直しをするさいには一つの大事なポイントになってくるとぼくは確信している。
 その点の記述が本書に弱いのは、まことに残念だった。この点がないことによって、本書は本当に「入門中の入門」という域を出ないことになった。インタビュー部分をのぞけば、下手をすればぼくでもネットなどで資料を集められるかもしれない(笑)。しかしまあ、そこはコロンブスの卵。実際にこれほど要領よく論点を示せたことが、門倉のセンスなのかもしれない。

 福岡市は税務の職場に派遣を導入したが、一定期間たつと派遣に「直接雇用」を申し込む義務が生じてしまう。それを避けるために、市は同じような業務をおこなう部署を二つつくってそれぞれ別の名前をつけ、その二つの部署の間を、期間終了ごとにくるくるとシフトさせて義務をまぬかれている。二つの部署は「違う」のだ、というのが市のいい分だが、「窓口」の仕事の割合が50%、こちらの部署は25%などという荒唐無稽な分け方をしており、だから二つの部署は違う仕事だというのである。現場で日々仕事の割合を「%」で図るなどということができるだろうか? 明らかに「脱法」行為である。市がコスト最優先のために、率先して「脱法」するのである。

 このような馬鹿げた区分が生まれてしまうのは、派遣法の規制ゆえである。しかし、その後で「だから派遣法の規制撤廃を」という結論になるか、「だから直接雇用を」という結論になるかは天と地の差がある。
 そのとき派遣法の精神が「常用雇用の代替防止」であることをふまえていなければ、おそらく結論を間違うであろう。




インタビューにただよう「リアル」


 注意したいのは、「派遣のリアル」というタイトルの意味だ。
 サブタイトルに「300万人の悲鳴が聞こえる」とある。データはたしかにそのことを物語ってはいるのだが、基本的なデータのみになっているので、タイトルほどの衝撃はうけない。第3章なども「使い捨てられる女性派遣の現実」と題されているのだが、内容は女性派遣社員の満足度、男女賃金格差、セクハラの訴えなどを統計的に紹介し、雇用機会均等法の改正問題へなげていくもので、「使い捨てられる女性派遣の現実」といえなくはないが、やはり内容に比してタイトルが仰々しすぎる気がする。(くり返すが提示されたデータが労働実態のひどさを示してないということではない。)

 章の最後に「ドキュメント『派遣のリアル』」として、前著と同じく派遣労働者からの聞き取りをのせているのだが、ここも「300万人の悲鳴が聞こえる」タッチのリアルなインタビューは少ない。10人の記事のうち、このタイトルとマッチするのは自動車工場派遣と製造業派遣のインタビューだけである。
 しかし、インタビューがリアルでない、ということではない。
 非常にリアルなのだ。
 あとのインタビューや記事は、まったく別の意味の「リアル」さ、すなわち、いままさにそこらにいる任意の派遣労働者、および派遣会社側のスタッフにたずねたときに返ってきそうな「リアル」な答えが載せられている。特段「深刻」でも「悲鳴」でもない。しかし、そのなかに、派遣のかかえるさまざまな問題が複雑に織り込まれているのである。

  • 「私たちのチームの所属している部署は半年ごとに名称を変更しているんです」(同じ部署で派遣期間の制限があるのを逃れる脱法行為である)「頭に来ませんか? って。うーん。怒るというよりは大企業もやるなあ…という感じです。『裏側をみたなー』というか」(27歳、女性、派遣社員)
  • 「お年を召した方が登録に来て、本人はやる気がすごくある。でも、派遣先がない。そういう時が一番困ります。なんとか行かせてみる。でも、業務のペースに追いつけない。次回からは辞めてくれと言われる。でも、本人はやる気がある。いまのところ、決着がつけようがない。待機していてくださいとしか言えない」(大手派遣会社正社員)
  • 「最近は派遣という働き方に批判的な記事も見かけますね。でも、私自身が感じている感覚としては、派遣期間の制限さえなくなればいまの状態は嫌ではないです。3年という区切りがなくなり、ずっと派遣で働けるのであればかまわない。仕事を辞めて新たに探すのにはものすごいパワーがいるので」(36歳、女性、派遣社員)
  • 「これは派遣のコーディネーターをしていた時に感じたことですが、正社員を経験してから派遣登録に来る人と、そうでない人の間には仕事への責任感という意味で差がありました」(38歳、女性、派遣会社勤務の派遣社員)

 これはほんの一部だ。
 この「ドキュメント」の部分は、いわば料理されない生素材だ。
 しかし、このインタビューの一つひとつを掘り下げて読んでいくと、派遣に普遍的な問題が複雑な形で反映しているのがわかって面白い。まさに「派遣のリアル」である。

人材派遣150%トコトン活用術―就職・転職をする前に知っておきたい51の知恵! (DO BOOKS)  余談になるが、このドキュメント部分の最後には、日雇い派遣への「潜入」ルポをライターの佐口賢作が書いている。この佐口が書いた『人材派遣150%トコトン活用術』(同文舘出版)は、派遣という職業を働いたことのないぼくのような人間がイメージをしていくさいに大変助かった本である。2002年の本なので、03年の法改正などが反映されていない部分もあるが、現場の人のインタビューもまじえて登録のしくみから、派遣先とのトラブル、派遣元とのトラブルなどをわかりやすく解説している。
 「派遣会社とのつきあい方は?」「初仕事までの待ち時間は?」などの疑問にもこたえていて、派遣という働き方を(ルポではなく)法制度や企業システムにそって理解したいなら、本書とともによい入門書といえるだろう。




「労働は商品ではない」を念頭におくということ


 本書の冒頭ではILO(国際労働機関)の「労働は商品ではない」というフィラデルフィア宣言の一文がかかげられている。門倉は「はじめに」のなかで「読者は是非『労働は商品ではない』という『フィラデルフィア宣言』の言葉を思い浮かべながら、本書を読んで欲しい」と注文している。

 このことが意味するものは、たんに人道うんぬんの「道徳的な」話ではない。池田や八代がまるで労働力を商品と同じような経済論理で扱うことの非リアルさへの批判となる。
 労働(力)が商品であれば、ある不採算部門をつぶして、別のもうかる部門をつくったとき、資本移動すればいいだけである。しかし、人間はそうはいかない。仮に移動できる人間であってもそのスキルを陳腐化しないよう日々磨いていけるのはほんのわずかだ。

 あるいは、中野麻美が『労働ダンピング』でこの「フィラデルフィア宣言」にふれてのべたとおり、「その日その日を賃金によって生きなければならない労働者は、いかに労働の市場価格が値崩れしようとも、他の商品のように生産調整したり在庫調整したりして自らの労働を売り惜しみするわけにはいかない。市場原理にさらされたときには労働は商品以上に値崩れしやすい。それを放置すれば、雇用や労働条件の劣化がすすみ、貧困と暴力が蔓延して、経済社会を衰退させていく」(中野『労働ダンピング』p.86)。

 商品は価格が下がれば下がるほど経済社会にとって利益となる。健全な自由競争をそだてるために、独占禁止法が準備され、競争が促進されるのはそのためである。
 しかし、労働は商品ではない。「価格」=賃金が下がりに下がっていけば生きていけなくなる。「健康で文化的な最低限度の生活」、すなわち生活保護水準以上の生活を送ることはできなくなる。そしてこれは想定ではなく現在進行中の現実なのだ。だからこそ、労働については、市場原理を生かしながらも、むしろ抑制するルールが必要となってくる。まったく逆の法制が必要なのである。

 門倉が「企業が正社員の給料を抑制し、非正社員の正社員化を拒めば拒むほど、職場で働く労働者は『一生懸命働いても報われない』という気持ちになり、かえって業務効率が低下してしまう」「賃金の下落に直面した労働者は購買力も小さくなるので、財布の紐が締められることになり、個人消費も抑制されてしまう」(p.193)と本書でのべているのは、「労働が商品ではなく」人間であることに着目したものだ。

 池田は「正社員の解雇制限を弱め、労働市場を流動化して、衰退産業から成長産業への人的資源の再配分を加速することだ。それが主要国で最低に落ちた日本の労働生産性を高め、成長率を引き上げ、労働需要を高めて失業率を下げ、結果的にはすべての労働者の利益になる」とのべている。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/16af29654ee641ba6ae3f15bdc23338c

 しかし、池田の方策によって短期的にひきおこされることは、非正規の地位はそのまま、正社員の非正規化が進行。正規労働者の賃金カット分は大企業の蓄積にまわされ、大企業は「成長」。失業率は多少下がるが、暮らせない賃金もしくは不安定で生活のメドがたたないという人がふえていく、ということになる。
 小飼弾のいうように、労働市場の流動化は人的資源の再配分には単純には寄与しがたい。結局大企業が正社員の賃金カット分をくいものにして終わるのである。
 これは90年代後半以降の日本でおきたことによく似ている。つうか、「正社員の解雇制限を弱める」というのを「正社員のリストラと新卒の採用抑制」におきかえたら、そのまんまである。以前ものべたが、95年に旧日経連が正社員中心の雇用体系の解体、非正規化をうちだして以来、企業と労働者の運命は逆相関をしめし、果実は落ちてこなくなった(グラフで雇用者報酬が最後に「クイッ」とあがっているのは、まさに、失業率が「下がり」、非正規雇用が史上最高の割合になったことを意味している。民間の給与は9年連続減少である)。
 そして、長期的には、門倉がいうように、労働者全体のモラール(士気、やる気)が引き下がっていってしまうだろう。
 
 池田は、人間のだれもが労働力としての更新ができ、陳腐化をさけられると想定しているのだろうか。まるで資本が古くなった設備をスクラップして、新しいもうかる部門の設備をビルドするように。
 実際にはそうではない。そこで働いているのは人間である。

 「労働者派遣法を改正して派遣労働者を正社員に登用する義務を削除すること」(池田※)が実行に移され、派遣という働き方が一時的・臨時的ではなく完全に常用に代替する働き方になったとすればどうなるのか。契約の更新をくり返し、40代、まあがんばって50代くらいまで契約があったとして、そのあと契約がなくなれば終わりである。門倉のインタビューを思い起こしてほしい。「お年を召した方が登録に来て、本人はやる気がすごくある。でも、派遣先がない。そういう時が一番困ります。なんとか行かせてみる。でも、業務のペースに追いつけない。次回からは辞めてくれと言われる。でも、本人はやる気がある。いまのところ、決着がつけようがない。待機していてくださいとしか言えない」(大手派遣会社正社員)。
 そしてたとえ20代、30代であっても、いつ更新を拒否されるかもしれないという不安のなかで労働をすることになる。

  • ※正確には「直接雇用の申し入れ義務」だろう。もし現行法が「正社員登用の義務化」というほど「すばらしい」ものであったら、松下の子会社(松下プラズマディスプレイ)が偽装請負が発覚後、しぶしぶ「直接雇用」したものの、それは最短3ヶ月の「短期雇用」でしかなかった、などというひどさは回避できたにちがいない。



賃金は市場経済下で生計費を分配する方法


 ぼくは、NHKスペシャル「ワーキングプア」の感想を書き、そこで日本型の終身雇用・年功序列について松原隆一郎の発言をひいて、以下のようにのべた。

「戦後の日本型雇用はこの点で重要な特徴をもっていた。

〈ちなみに長期雇用・年功賃金という旧制度は生涯所得への予測を安定させる作用があるため個人消費を堅調なものとしていたし、年功制は(高橋伸夫『虚妄の成果主義』日経BPが解釈するように)基本給が年齢に応じて上がるだけでなく、成果に対して金銭ではなく「次の面白い仕事」で報いる制度だった。/そこには競争がないわけではなく、仕事で高い評価を得た者が次のやりがいある仕事を与えられる、ないしは出世をするというルールだったのであり、賃金には生活保障的な意味しかなかった。「年功」を強調すると、年齢によって給与が上がる点に特徴があるかに聞こえるが、むしろ成果の対価として面白い仕事を与える点が重要だという見方だ。/ここからの比較で言えば、成果主義の暗黙の特徴が浮かんでくる。それは「人を金銭だけから仕事の動機付けを受けるもの」という考え方である。〉(松原隆一郎「成果主義はやがて行き詰まる」、「中央公論」06.8所収)

 つまり、戦後の日本型雇用とは、成果を出した人には『面白い仕事』や出世を与え、成果は出せない人であっても『努力』をしたという人にはそこそこ生きていける賃金くらいは保障されていたシステムだったというわけである」

 この雇用制度のもとでは、年長者はスキルが通用しなくなっても、会社内で経験にもとづく知恵をさずけるというポジションがあたえられ、それさえできない人であっても努力したことに報いて会社が生活保障の賃金を払っていたのである。
 もちろん、右肩上がりの成長や人口増が見込めないなかで、ぼくはこの制度を高度成長期のまま復活させよというつもりは毛頭ない。
 重要なことは、門倉が「読者は是非『労働は商品ではない』という『フィラデルフィア宣言』の言葉を思い浮かべながら、本書を読んで欲しい」とのべたことなのだ。賃金は労働商品の需給をしめす価格シグナルではなく、市場経済下で生活手段(生計費)を国民に分配する方法なのだということである。

 環境に適応し自分をメタモルフォーゼさせられる人間は一定数いる。しかし環境的に、または能力的に、できない人間、不十分にしかできない人間の方が膨大な層をなして存在していることもまた確かなのだ。もちろんその層に「自己責任」という札をおいて見捨てていくこともできるだろう。しかし、それは国民経済の設計とは言いがたい。エリートが自分の姿に似せて書いた設計図を社会に押し付け、お前らもこれくらいはできるはずだと叫ぶようなものだ。国家の制度設計たるもの、一定の労働をすれば「健康で文化的な最低限度の生活」ができるようにしなければならないはずで、「失業よりはマシ」といって、生活保護水準以下の低賃金・不安定な非正規労働をそのままにしておくことは、まさに生活を送らない「商品」として労働を扱うことである。自由主義的な経済学は、しばしば自己調整的に均衡が実現するように現実を描いてきたが、市場外の力を借りなければ実際には恐慌による暴力的な「調整」、そうでなければ人間が生活しがたい水準までに生活を落としての「均衡」でしかなかった。「失業よりはマシ」「将来解決するかもしれない」といって、済ませておくのでは経済政策失格である。

 だとすれば希望者にはできうるかぎり正社員化をすすめること、そして派遣労働者でも生活しうるルールや賃金の保障が不可欠となってくる。




大企業の過剰蓄積をタブーにするのか


 長期的には門倉のいうように、この方策は経済社会そのものの活力を回復すると思うが、池田のいうように、ハードルを高くすることで短期的に雇用機会そのものが失われることがもしあったらどうなるのか。そのときこそ、過剰な大企業の蓄積を原資として、失業手当や生活保護の充実こそがおこなわれるべきであろう。
 06年、大企業(資本金一〇億円以上)の経常利益はバブル期(89年)の1.75倍になった。ところが納税額(法人三税の合計)は逆に減っているのである。度重なる減税によって大企業は少し前に自ら実践していたほどの社会的責任さえ果たしていない。バブル期の税制に戻すだけで年4兆円の増収が可能だ。大企業のためこみ金(内部留保)はバブルの88年に74兆円だったものが05年に205兆円にまで達している(労働総研調べ)。政府税制調査会の資料では、日本企業は独仏とくらべても7〜8割の税・社会保障負担しかしていないのである。
 しかし、池田においてはこの過剰な蓄積に手をつけることはタブーとされているのである。

 ちなみに、賃金を「市場経済下で生活手段(生計費)を国民に分配する方法」だと把握した場合、ベーシック・インカム(BI)のように生計費分を国家給付の制度にすれば、生計費を市場原理にゆだねるよりもコントロールしやすい(大企業の過剰蓄積を税としてとりたて、給付にまわせばいいから)。池田が「負の所得税」(課税最低所得以下の人に最低所得との差額の一定率を政府が支払うもの)を主張するのであれば、この点では共闘できるかもしれない(もちろん、このBIについてはぼくは評価は現在保留。検討課題という程度。また、池田の主張する「負の所得税」構想もそのまま受け入れるわけにはいかない要素がふくまれている)。







宝島社新書
2007.10.10感想記
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