清原なつの『花図鑑』


「いつかきっと
 この世にただひとり
 生涯の恋人に出会うのだ

 その時こそ私は
 嫌悪することなく
 男性の肉体を受け入れることが
 出来るだろう」

という主人公のモノローグではじまるのは、吉野朔実『恋愛的瞬間』の一短編。

「なんてことを言っていたら あっという間に30歳になってしまった

 見合い写真を見て
 『写真が私を押し倒しに来るような気がして 怖い!!』
 と泣いていたよーこちゃんも

 『世界中のすべての男の腰に男性器がついていると思うと
 ハキ気がする!!』
 と叫んでいた安西良子も

 『妊婦って醜いわよね よくまあ恥ずかし気もなく
 表を歩けるものだわ
 みっともない』
 と言っていた真由美までもが

 妊娠してしまった (やることやって)
 みんなみんなお母さんになってしまった」

 美人で清潔感がある主人公は、セックスへの嫌悪ゆえにセックスができないのだ。
 ぼくは、吉野が描いたこの3人のセリフ(とくに真由美)が実に秀逸だと思って、意味もなくこのフレーズがアタマのなかを回る時がある(とくに真由美)。あ、べつにセリフの文言を額面通りそう思っているからではなく、思春期の女性の屈折を鮮烈に表現しているからである(とくに真由美)。

 清原なつのは、『花図鑑』以外、ほとんど読んだことはないのだが、少なくとも、この短編のシリーズでは、くり返し、女性が自分のなかにある、あるいは自分のなかに生じてくる「性的なもの」との葛藤を描く。自らが性的な欲望を「もっている」こと、あるいは逆に、「もっているものだ」と社会から押しつけられること、そうした観念と、いまある自分とのつりあわなさや違和感をシャープに、じつにシャープに描き続ける。

 そのなかの一短編「梨花ちゃんの田園のユウウツ」。
 大学受験のために図書館で勉強している主人公・梨花は、不自然な「勉強中のカップル」をみかける。そのカップルは、勉強をしながら、机の下で男が女のスカートのなかに手を入れていたのである。女は、喜悦と苦悶が入り交じった性的恍惚特有の表情をうかべる。

 梨花は思う。

「愛があれば

 私も何でもするようになるのだろうか
 常識も恥ずかしい気持ちもなくしてしまって
 自分をおとしめることさえいとわない
 そして体を必要以上に傷つけても
 結晶を宿したいと思うのだろうか」

 梨花は子どもができない兄嫁にひどいことを言ってしまい、後で、不妊治療がいかに心身に負担が大きいかを知るのだ。


 石原慎太郎が、性教育を学校でおこなった教師百人余を処分したように、世間には子どもたち、とりわけ女の子たちにたいして、自分の中に性的なものがあることに気づくことを、できるだけ封じ込めようとする明確なイデオロギー潮流――それも支配的な――が存在する。
 ところが、男の子の方は、そんな壁をひょいとのりこえる。
 ああ、中学や高校のころ、ぼくら男子生徒はまったくお気楽だった。つーか、たいていはマスターベーションのサルであり、自らが性的な存在であることを何の屈託もなく受け入れ、それを謳歌していた。
 世の中は、いったん両性の子どもたちにそのような障壁をもうけておきながら、男の子だけは容易にその障壁をのりこえられるようになっている。そう仕組まれているのだ。

 たとえば、世のオトコたちは、ポルノを手にいれている。

 そこでは、オトコは、実はサルのようにひたすら性的存在となってそれをアホみたいに「楽しんでいる」わけだが、オトコたちは自分がその瞬間は性的存在になっていることを隠蔽しながら、あるいはエクスキューズを勝手におきながら、まるで、女性だけが「性的な存在」であるかのように、そしてそれ以外の何者でもないかのように描かれたポルノを見つづけている。

 ところが、女性には、そういうサルベージのしかけも道具もない。※
 「何て、はしたないの!」とか「女らしく!」という叱声で、性的であるという自己認識を封じ込められつつ、他方で、オトコ社会からは、まさにポルノのように性的存在として(のみ)あつかわれつづける。「だれそれさんはかわいいね」「なにがしさんはブスだね」――こういう評価や基準が女性にはまとわりつづける。

 社会からは実際には性的な存在として扱われながら、公式見解としてはそれを否定され、自分のなかに芽生えてくる性的な自己、あるいは、外から押しつけられる性的イメージとの葛藤に苦しむのである。

 だからこそ、女性の中には清原が描くような「性への嫌悪」がたえずうまれるのであって、男のなかの統計的多数派のなかにはこうした屈折はみられない。

 この舵取りは案外むずかしい。
 「わたしセックスなんて汚いことはしません」という性的な自己を抹消してしまおうとする衝動と、あるいは、それこそポルノが描く「性的欲望だけで全心身が構成されている」かのような性的自己への一元化という両極が口をあけている。

  ■余談だが、昨今のたとえばフラワーコミックス系(小学館)の、
   女性「エッチもの」というか、「欲望全開もの」は、
   この一方の極へのだらしない傾斜であり、それがある種の女性には「解放」
   (性的自己の全面無条件肯定)のように受け取られ、
   そして、まったく局外にいる男性には「ポルノ」のようにみえるのはこのためである。

 清原は、自分のなかに生じきたった「性的自己」とうまく折り合いをつけ、それを自然なかたちで、そして一人ひとりがちがったかたちでそれを「全体的自分」のなかの一部にうまくおさめていく努力を描く。「性的自己」はまぎれもなく自分の一部分であるが、同時にそれは自分の一部でしかない。そのリアル、その全体性を回復することが、清原のテーマなのだ(したがって、人格と歴史という全体性を暴力的に剥ぎ取って「性的存在でしかない女という生き物」なる一元的イメージを押し付けるポルノは解答ではありえない)。

 ゆえに、清原の作品はどこまでも理性的で、先鋭である。
 性への嫌悪になやむ女性の姿を描くことは、男性がそう解釈してしまいがちな、「思春期の感傷」などではない(「まあ、キミもオトナになればわかるんだよ、ぐふふふ」式の)。それは思春期にマックスとなる課題ではあるが。

 さきの、「梨花ちゃんの田園のユウウツ」では、性器をまさぐるカップルをみて、主人公の梨花は、

「いずれみんなすることなのだ
 早いか遅いか
 ひっそりするのかもしれないし
 人目もはばからずするのかもしれないし
 みんな同じ いつか どこかで」

と、その「性的存在」であるカップルの姿は自分自身ではないか、と思い直す。そして、兄嫁にもひどい言葉をあびせたことをわび、不妊治療に行かなくてもいいと止めるのである。

 この時期、つまり中学や高校時代に、男女がつきあうことは一つの必然なのかもしれないけど、これほど「性的自己」へのむきあいかたがちがう2種類の人間が「つきあう」ことは、一種の悲劇なのかもしれない。
 やらせてやらせてと「下半身にコントローラーを奪われた鉄人28号状態」〔(C)某漫画家〕のヤローどもと、性的であることへの様々な屈折をかかえる女の子たちがうまくいかないのは、むしろ当たり前なのだ。

 「30をすぎてからラクになった、という仕事にがんばる女性の発言をきいたけど、それは、『容姿』の問題から解放され、その他のことで評価される比重が高まるせいではないか。幼少から性的に扱われ、その評価のメッセージをおくられつづけることは、陰に陽に女の心にプレッシャーをあたえつづけるのだ」

と、ある知り合いの女性がいっていた。
 オトコは、こうした葛藤を知らずに、無邪気に女性を傷つけつづける。
 むろん、その一味に、ぼくもいるわけであるが。


 ちなみに、主人公のフルネーム・「真田梨花」は漫画家の原田梨花、図書館のカップルの女性・「赤星有実」は赤星たみこをもじっているのだが、主人公の家が梨園で、その受粉作業の様子が出てくるように、「梨花」と「有実」は、まさに『花図鑑』というこのシリーズのタイトルそのものを象徴している。





※むろんポルノが男性にとって救済や解放の道具だなどといっているわけではない。

参照サイト:「青少年のための少女マンガ入門」(13)


集英社 ぶ〜けコミックス(ワイド版)
全5巻 (現在入手不可。文庫で入手可能)
2004.5.2記
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