湯浅誠『反貧困』



反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書 新赤版 1124) 貧困の自己責任論に最後的な打撃を与えた、といっても過言ではない。

 たとえばぼくなどは、自己責任論批判として財界の戦略が背景にあることや、高度成長期などとの比較をしてきたわけだけども、それでも「でも私は努力してそうなりませんでしたよ」式の反論は残ることになる。

 この前、日テレ系番組「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」をみていたら、お笑いコンビ・サンドウィッチマンが「1年間バイトやハケンを続けた人は正社員にします」という「マニフェスト」を出して「可決」されていたが(このコンビへのぼくの好感度はますます高くなった)、
http://www.ntv.co.jp/souri/manifesto/20080718.html

このとき「反対」の論陣をはった人々の説教はやはり「私は努力してワーキングプアにはならなかった」というものだった。

 これは貧困にまつわる自己責任論の最後の言葉である。

 この本の圧巻はこの問題について書いた3章「貧困は自己責任なのか」であろう。著者・湯浅は、「過労死は自己責任」だと言った奥谷禮子発言とその反応から、自己責任論のロジックを解析する。

  1. 社員には休むという選択肢があった
  2. 社会は、あえてそれを選択しなかった(休まなかった)
  3. 本人が弱く、自己管理ができていないからだ
  4. それは本人の責任である
  5. 社会や企業・上司(もちろん経営者も含む)の責任を問うのは御門違いであり、社会が甘やかしているだけだ

 このうちの(1)と(2)が急所である、と湯浅は見ている。「他の選択肢があって、それを選べたはずなのにあえて選ばなかった」ということである。

 湯浅はセンの貧困論(貧困とは単なる所得の低さというよりも、基本的な潜在能力が奪われた状態)をベースにしながら、貧困に陥る人は「溜め」が奪われている、ということを提起する。「貧困とは、このようなもろもろの“溜め”が総合的に失われ、奪われている状態である」(p.80)。
 「溜め」というのは湯浅独特の言葉である。

「“溜め”とは、溜め池の『溜め』である。……“溜め”は、外界からの衝撃を吸収してくれるクッション(緩衝材)の役割を果たすとともに、そこからエネルギーを汲み出す諸力の源泉となる。/“溜め”の機能は、さまざまなものに備わっている。たとえば、お金だ。……しかし、わざわざ抽象的な概念を使うのは、それが金銭に限定されないからだ。有形・無形のさまざまなものが“溜め”の機能を有している。頼れる家族・親族・友人がいるというのは、人間関係の“溜め”である。また、自分に自信がある、何かをできると思える、自分を大切にできるというのは、精神的な“溜め”である」(p.79)

 前にも書いたが、これはブルデューの「資本」という概念にも似ている。

 100人ほどの高校卒業後の1年間を追跡調査した乾彰夫編『18歳の今を生きぬく』というエスノグラフィーがあり、この概念を使っている。

「本田さんの場合、三人の子どもたちを大学へ送ることのできる経済資本を両親がもち、かつ父の『版画』趣味、画集が家にある雰囲気、そして娘に『絵の教室』を勧めるような母の絵画への理解などが文化資本として活用されている」

「田辺さん、竹内さんは、ともに自らの夢(田辺さん:英会話、海外生活、介護・保育の資格、竹内さん:プロの声優)を実現しようとするとき、家庭の経済的・文化的基盤に頼ることができない状況に在る。この二人は、夢を実現するために必要な経済・文化資本を自力で調達する必要があるのだ」(乾前掲書p.128)

「ここからわかるのは、経済資本・文化資本の量やネットワークの質の違いが、この四人の学校から社会への渡りに強い影響を与えているということだ」(同前p.129)

 湯浅は自己責任論に陥ってしまうポイントを、「多くの人たちが自分の経験に照らして心当たりがないから、それはきっと自己責任なのだと即断してしまうのだろう」(p.83)とのべている。まさにそのとおりである。
 ぼくにメールをくれた人もその典型だし、
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/workingpoor2.html

「太田総理…」で吼えていた金美齢もまさにこのロジックであった。

 「同じ社会状況のもとに暮らしている」という問題認識だけでは、「私はそこに陥らなかった」「私はそこから抜け出した」という自分の経験は絶対なものになってしまうだろう。たしかに素直に考えれば「いや、ホント、オレは抜け出せたんだってば!」と声を大にして言いたくなる、というのも無理からぬことであろう。
 自然な感情なのだ。

 しかし、そこには、「見えない“溜め”」(湯浅p.84)が存在し、その量質は人によって大きく違っているのである。
 もちろん、ちゃんと「溜め」があるのに、ただ甘えているだけという人もいるだろう。低所得の人が必ず「溜め」が失われているわけではない。
 だが、少なくともこの概念を経ることで、「自分は抜け出したのだから」「私は陥らなかったから」という議論はもはやできなくなる。あくまで自己責任を言い立て「でも私はできましたよ」という側は、私とその人との間に「溜め」がまったく同じであること(あるいは、どのような「溜め」の違いがあるか)を客観的にさぐらなければならなくなるからだ

 この概念を経た後では、「私にも同じ年齢の子どもがいるけど、うちの子は働いているわよ」という生活保護の福祉職員の言葉の無神経さが実によくわかる(湯浅p.93)。
 そしてこの「溜め」という概念によって、「結局自分でやれってことですよね」(カニング竹山の言葉)という「再チャレンジ」政策の自己責任論性も暴露される。「たとえ企業に対する報奨金をいくら用意しようと、実際にそれを利用する人たちの諸条件(“溜め”)を整備しなければ、利用する人は出てこない」(湯浅p.94)。

 この間、国民世論は大きく変化し、自己責任論は次第に旗色が悪くなっていったが、冒頭にのべたように、本書によって自己責任論は最後的な打撃を受けたのである(もちろんそれは理論的な話であって、社会の実勢としてはまだまだ猛威をふるっている)。

 ぼくはいま、福岡で労働・雇用についての若い人の集会を開く運動にかかわっている。その実行委員会などに集まっているのは「サヨク」の人たちなのだが、貧困問題を「ピンとこない」問題だ、という正直な感想をのべる人もいる。

 そこには、まあ、まわりに本当に「貧困」な人がいない、という問題もあるのかもしれないが、「多くの人たちが自分の経験に照らして心当たりがないから、それはきっと自己責任なのだと即断してしまうのだろう」(湯浅p.83)という湯浅の指摘があるのではないか、とも思っている。
 
「だから私は先に、自己責任論の濫用を防ぐ条件として『基本的な前提を欠いている』ことに加えて『(それを)多くの人たちが知っている』ことを挙げた。事実として自己責任論が成り立つための前提を欠いている、というだけでは足りない。それが多くの人たちに知られて初めて、自己責任論の濫用を防ぐ社会的な力となる。
 そのためには、貧困の背景・実態を多くの人達に知らせる必要がある。公的セーフティネットの機能不全ぶり、五重の排除という背景、“溜め”がないという状態、それらが広く伝わって初めて、貧困には自己責任だけでは片づけられない多様な要因があることが社会的に共有される」(湯浅p.83〜84)

 自らは「貧困」でないにせよ、「溜め」という概念を知って社会として問題を共有すること自体が貧困を解決する重要な運動なのだ、という視点が運動の側にほしい。


 このように、本書について、ぼくは「実態告発の書」というよりも、貧困を考える上での非常に重要な理論的視座を提供した本だというふうに読んだ。しかもそれは思弁として導き出されたのではなく、著者の湯浅が「もやい」という貧困者の支援をするNPOの実践をする中で生み出されたものなのだ。


 個人的にはこの他に、生活保護の捕捉率が20%程度しかなく、600〜800万人ほどが水準以下でありながら生活保護制度から漏れている、という話が印象に残った。

「必要のない人に支給されることを『濫給』と言い、本当に必要な人に行き渡らないことを『漏給』と言うが、一万四六六九件の濫給問題と六〇〇〜八五〇万人の漏給問題と、どちらが問題として深刻か、見極める必要がある」(p.30)

 生活保護、というと脊髄反射のように「生活保護でパチンコをやっている」「車をもっている」式の話が出てくるもんなあ。

 ところで、ある大学の授業で、首都圏青年ユニオンの河添誠の話を聞いて衝撃をうけ、受講した学生の有志が出したレポートの7割が本書『反貧困』を読んできたということがあった。その大学教員は次のように書いている。

「講義を担当した私からみると、せっかく、大正・昭和期の貧困問題をとりあげ、1960年代の『集団就職』や、学生運動高揚を社会問題として論じたのだから、もっとそちらの内容のコメントを〔学生に〕書いてほしかったのですが、レポートと試験答案を読むかぎり、河添誠—湯浅誠のラインに圧倒された結果となりました」(「首都圏青年ユニオンニュースレター」87号、柳沢遊の投稿)

 その「破壊力」は恐るべしということなのだ。
 そういえばどっちも「誠」だなあ。ダブルまこと。





湯浅誠『反貧困——「すべり台社会」からの脱出』
岩波新書
2008.8.13感想記
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